第七十七話 三宅坂、再び
船が岸壁を離れた。
大正四年(1915年)一月。真崎勇気は船尾の手すりを握ったまま、遠ざかっていく外灘を見ていた。
霧が出ていた。石造りの建物の輪郭が白い靄の中に溶けていく。税関の時計塔。銀行の石柱。来た時にも見た景色だった。あの時は船首から見ていた。今は船尾から見ている。それだけが違う。
右手の掌に、何かが当たった。
護身符だった。
思い出したのは、あの朝のことだった。
「遅刻するわよ。行きなさい」と言いながら、何かを真崎の胸ポケットに押し込んだ。
赤い布だった。小さい。手のひらに収まるほど。
「なんだ、これは」
「城隍廟で買ってきたの」と愛鈴は言った。振り返らなかった。「道教の護身符よ。旧市街まで行って、求めてきたわ」
「お前がそんな『まじない』めいた場所に行くのか」
「たまにはね」
上海語で何か縫い取ってある。読めなかった。
「効く」愛鈴は長い髪をたくし上げた。「私があげたものだもの」
真崎は赤い布を見た。懐に入れた。
外灘が霧の中に消えかけていた。
真崎は護身符を掌に包んだ。布の縫い目の感触が指先に伝わった。
その時、聞こえた気がした。
三味線の音だった。低く、ゆっくりと、一節だけ。あの老人が弾く時の崩し。聞き間違えるはずがなかった。
振り返った。甲板には誰もいなかった。機関の唸りと波の音だけがある。
(幻聴か)
霧の中の上海を、もう一度見た。外灘は消えていた。高杉の拠点がある方角も、愛鈴が歩いていった路地も、何も見えなかった。霧だけがあった。
真崎は手すりから手を離した。護身符を内ポケットに入れた。乃木大将の遺書と、同じ場所に。
*
夜、船のスモーキングルームに入った時、見覚えのある背中があった。
「こんなところで」と真崎は言った。
ヴァンス男爵が振り返った。葉巻を持ったまま、片眉を上げた。「大尉か。奇遇だな」
「日本へ行かれるのですか」
「ああ。着いたらすぐにロンドンへ向かうがね」男爵は隣の椅子を引いた。「かけたまえ」
二人は煙の中に座った。
「大尉はトーキョーに戻られるのですか」
「はい。帰任の辞令が下りました」
「そうでしたか」男爵は葉巻を一度だけ吹かした。「魔都と青島でしつこいくらいの泥を被ったあなただ。トーキョーの景色がまた違って見えるでしょう」
真崎は少し間を置いた。「卿に是非お伺いしたい。この後、英国はこの大戦の中でどう動かれるのですか」
男爵は答えるまでに時間をかけた。
「未知数だ。貴殿に情報を秘匿する意図はない——これは真実だ。かつてない規模、かつてない広範囲での戦闘、多すぎる各国の条約と同盟——無言を貫くアメリカ。我が帝国のインテリジェンスをもってしても、予測すらつかない」
「なるほど」
「だが」男爵は葉巻を灰皿に置いた。「大日本帝国に助け舟を求める人間が、ロンドンにいないとも言えない。少なくとも大英帝国も『余裕』ではない——とだけ言っておこう」
真崎は頷いた。男爵の目が何かを測っている気配があった。
「私からもお伺いしたい」と男爵が言った。「ジョージという名を聞いたことがあるか」
真崎は少し考え込んだ「英国王陛下の御名、ということであれば——いや、上海で電報を受けたことがあります。東京からの」
「やはりか」男爵は静かに言った。「最近、日本陸軍の中に貴殿のように大きな絵を描こうとしている人間がいるらしい。真崎大尉、あなたは一人ではないかもしれない」
「それはまた……」それ以上真崎は言わなかった。葉巻を取り直して、窓の外の夜海を見た。
「我々の傍受班がジョージ署名の電報をキャッチしていてね。傍受班が面白がっていたのだ」
ヴァンス男爵は少し開けてきた霧の先を見ていた。
真崎もしばらく、同じ方向を見ていた。
*
長崎港に着いた朝、男爵が桟橋で真崎に言った。
「貴殿のプランがうまくいくことを願う。また世界のどこかで会おう」
「ありがとうございます。卿も道中ご安全に」
男爵が波止場に消えた。真崎は汽車に乗った。東へ向かった。
長崎から東京まで、一昼夜かかった。
車窓を冬の筑紫平野が流れていく頃、隣の席に男が座った。
陸軍将校の格好をしていた。階級章は歩兵中尉。年は四十前後。日本語で「失礼します」と言った。発音は完璧だった。完璧すぎた。
真崎は目を閉じたまま、男の気配を測った。
軍靴の音が違う。革の質が国産ではない。煙草の匂いがロシア系だ——上海で嗅いだことがある。租界のロシア人バーで漂っていた匂いだ。
(陸軍の匂いがするが、何かが違う)
男は新聞を広げた。欧州の戦況の記事だった。しばらくして、何気ない声で言った。
「欧州の戦況は凄まじいですな。大尉殿は青島帰りかな」
真崎は目を開けた。「存じ上げませんが」
男は微笑んだ。「失礼。同じ船に乗っておりました。見覚えがあったものですから」
「そうでしたか」
それ以上、二人は話さなかった。男は新聞を読み続けた。
名古屋を過ぎた頃、男の姿が席から消えていた。荷物も何も残っていなかった。
(——何者だ)
真崎は窓の外を見た。冬の三河湾が広がっていた。
新橋駅のホームに降り立つと、乾いた冷たい空気が来た。一月の帝都だ。上海の湿気とは違う種類の寒さだった。
「青島大勝利の写真画報、残りわずかだよッ!」
新聞売りの声が飛んできた。勝利、か。真崎は氷点下の泥と掌に食い込んだロープの感触を思い出した。あの泥は写真画報には写るまい。
雑踏の中、一瞬だけ視線を感じた。振り返った。人波しかない。ただ、人波の向こうでつばの広い婦人帽が一つ、沈むように消えた。
(——気のせいか)
上海で染みついた癖だ。視線に過敏になった。しかしここは帝都だ。
人ごみの中に、見慣れた顔があった。
柏木丈二大尉だった。コートの襟を立てて、人の流れに逆らわず立っていた。
「なぜここに」と真崎は言った。
「お迎えだよ。さあ乗って」
「たかが大尉の帰任で迎えがつくのか」
「俺は神林局長の運転手だ。局長から許可を得ている」柏木が路地に停めた車に顎をしゃくった。「長旅お疲れのところ申し訳ないが、ちょっと寄ってもらう所がある」
「三宅坂か」
「今日は日曜だ。局長のご自宅に行く。少し急ぐぞ」
真崎は鞄を持ち直した。「ありがたいこった」
*
神林邸は赤坂にあった。
書斎に通された。神林毅一郎は中将になっていた。肩章が変わっていた。軍務局長の役職はない。
「真崎、よく帰ってきた。長旅の中悪かったな。急ぎで伝えることが三つある」
「はい」
「一つ。田辺から送られたお前のレポートは陸軍次官から大臣まで上がった。ずいぶん感心しておられるとも」
真崎は答えなかった。
「二つ。欧州派兵の上申書も読んだ。だがあれじゃ足りん。俺も手伝ってやりたいがもうこの立場だ。限界がある」
「三つ」神林は一拍置いた。「俺は局長じゃなくなる。明日付けで解任だ。後任は田中義一少将になる。お前のこと含め、引き継ぎは済ませてある」
真崎は書斎の空気を測った。「なぜそこまでしていただけたのですか」
「……まさかあの田辺を動かすとは思わなんだ」
一拍の沈黙。
「田辺少佐、いえ中佐殿ほどのお方がなぜ上海分室に」
「簡単なことだ。あいつは有能なのにサボりすぎだからだ」
「……」
「以上だ。今日はゆっくり休め。明日も……と言いたいところだが、田中少将には明日、会いに行け。直接話せる場を設けてある」
*
邸宅の前で、柏木が車の傍に立っていた。
「どうだったか」
「なんだか拍子抜けだ。人が変わったようだ」
「お前が変わったんだろう」柏木は煙草を指の間で回した。「そうかもな」
「ところで」柏木が言った。「ジョージという名を聞いたことがあるか」
真崎は柏木を見た。「上海で電報を受けたことがある」
「やはりか。最近陸軍内でお前のように大絵図を描こうとしてる奴がいるらしい」
「……お前は知っているのか」
「さあ」
柏木は煙草を灰皿に押し付けた。「下宿まで送る。荷物もあるだろう」
久しぶりに戻った九段下の下宿は、来た時のままだった。
柏木が懐から封筒を取り出した。「これ、預かりものだ」
「お前が?」
「さあ」柏木はそれだけ言うと、すぐに車に戻った。
封筒の表には「真崎勇気様」。裏に差出人の名はない。
下宿の部屋に入り、椅子に座って封を切った。
文面は三行だった。
神楽坂の小料理屋の名。明後日、午後七時。一人で来い。
末尾に、署名が一文字。
「J」
真崎は「J」の一文字を見つめた。
J……ジョージ。上海で追い続けた、帝都の影。
ヴァンス男爵も知っていた名前。そして——
(柏木丈二……ジョージ?)
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