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海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―  作者: 吉田梅之助
第四章 上海スパイ合戦編

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第七十六話 次の旗を立てる前に

 目が覚めた時、台所から音がしていた。


 真崎勇気は天井を見た。自分の宿舎だ。ただし、いつもと違う。包丁の音がした。鍋が火にかかる音がした。


 起き上がると、愛玲(アイリィン)が台所に立っていた。


 男物のシャツを羽織って、手際よく何かを切っている。傍らに烏龍茶の急須が置いてあった。湯気が出ていた。食材は持ち込みのものだ。


「お前、料理できたのか」

 愛玲は振り返らなかった。「失礼ね。この仕事やってるもの。当たり前でしょ」


 真崎は椅子を引いた。座った。烏龍茶が目の前に置かれた。熱かった。一口飲んだ。

 (コーヒーじゃなくて良かった——いや、配慮してくれたのか。恐れ入る)


 しばらくして、粥と小さな小皿が二つ並んだ。香菜と刻んだザーサイ。上海の朝食だ。


「いつトーキョーに戻るの?」

「一月に入れば、と電文には書いてあった」

「じゃあまだ少しあるのね」

「少しな」


 二人は向き合って食った。台所の窓から上海の朝が入ってきた。遠くで荷車の音がした。


  *


 食後、愛玲が烏龍茶を注ぎ直しながら言った。

「これからのことを聞いておきたいわ。私のことじゃなくて、あなたのこと」

「欧州派兵の工作に関わることになる。神林少将に手紙を書く。今度は田辺少佐経由じゃなく直訴にする」

「動くのね」

「動く」


 愛玲はカップを持ったまま、窓の外を一度だけ見た。「私は李河(リーホォ)と組みながら探偵業を続ける。最近、満州方面から大きな依頼が来ているの。しばらく上海を離れることもあるかもしれない」


「そうか」

「定期的に連絡はするわ。あなたの動向は、どうせマスターから入ってくるけど」

「筒抜けだな」

「最初からそうよ」愛玲は口の端を動かした。「それから——」


 一拍置いた。


「トーキョーで女ができたら、必ず連絡すること」

 真崎は茶を一口飲んだ。「なぜだ」

「なぜって、知りたいじゃない」

「知ってどうする」

「どうもしない。ただ知りたい」愛玲は立ち上がって皿を片付け始めた。「あなたはすぐ作るでしょ。帝都に戻ったら」

 (お前がいつ俺の——と一瞬よぎったが、いやたしかに)

「……努力する」

「努力、ね」


 少し間があった。愛玲が言った。「もし——トーキョーで誰も見つからなかったら、迎えに来てほしい」


「その……」

 真崎は答えなかった。


「冗談よ」と愛玲は言った。しかし笑わなかった。

 愛玲が笑ったのは、その少し後だった。声が出た。珍しかった。真崎はその笑い声を聞いていた。


  *


 出がけに、愛玲が扉の前に立った。鍵を取り出した。


「これ、あなたの?」

「そうだ」


 愛玲は鍵穴を見た。細い金具を取り出した。十秒もかからなかった。鍵が閉まった。


「ピッキングか」

「鍵をなくした時のために覚えておいて」


 真崎は愛玲を見た。愛玲は真崎を見た。

「今日が——あなたが発つ前、最後になるかもしれないわね」

「そうだな」

 愛玲が鍵を真崎の胸ポケットに入れた。「部屋の鍵は私が出る時に閉めておく」


 一拍あった。


「遅刻するわよ。行きなさい」

 真崎は頷いた。歩き始めた。


 路地に出ると、石畳が夜露で濡れていた。どこかの軒先から二胡の音が漏れていた。

 屋台が一つ出ていた。小麦粉を揚げた棒が籠に積まれていた。油条(ヨウティアオ)だ。愛玲と初めて二人で上海を歩いたとき、連れられて食った屋台と同じものだった。


 一本買った。熱かった。齧った。味は同じだった。


 変わったものと、変わらないものがある。真崎は歩きながらそれを食った。


  *


 分室に着いたのは、朝の八時だった。


 脇に抱えていた書類の束を田辺の机に置いた。かなりの厚さがあった。上海に着任してから手をつけずに積み上げていた翻訳資料だ。一ヶ月分。帰国前に全部片付けた。夜通しかかった。


 田辺が顔を上げた。資料の束を見た。それから真崎を見た。


「……お前、本当に仕事ができるヤツだな」

「少佐殿のおかげです。あなたがいなければ無理でした」

「少佐殿はやめろ。むず痒い」


 田辺は資料を手に取り、最初の数枚をめくった。目が止まった。また数枚めくった。新聞を脇に置いた。珍しい動作だった。田辺が新聞を置く時は、本当に集中する時だ。着任してから今日まで、その動作を三度しか見ていない。


 しばらく読んでいた。真崎は黙って立っていた。

 田辺が顔を上げた。「俺は中佐に昇進になった。お前の帰還命令と一緒のタイミングだ」

「おめでとうございます」

「三宅坂の連中が何を考えてるかはわからんが、お前もそろそろ少佐に上がるんじゃないかと思ってな」

「それはまたどういう」

「お前の青島(チンタオ)での働きは無視できん。それにお前が少佐で俺も少佐だと立場がないだろ。引退間際で華を持たせるつもりなのかもしらんが……」

「いえ、中佐の働きあってこその昇進だと思います」

「お前な……。まぁそのクソ真面目さがお前の良さだ」


 田辺は資料に目を戻した。それから、思い出したように言った。


「キイチから返事が来た。陸軍次官に届いたそうだ。読まれただけでなく——納得した、とも」


 窓の外で、黄浦江の汽笛が一つ鳴った。真崎はその音を聞きながら、青島の砲台のことを思った。氷点下の泥の中でロープを引いた夜のことを。あの夜書いた数字が、今、帝都の机の上で読まれている。それだけで十分だった。


「それから、ウチでの漏洩事件のことだ」田辺は書類を片付けながら言った。「『もう一本の線がある』と言ったのを覚えているか」

「はい」

「調査を進めている。内輪から漏れている可能性はほぼ無い。外国勢力だろう」田辺は一度だけ真崎を見た。「動きがあればお前に連絡する。三宅坂でもうまくやれ」

「はっ。心が折れそうになったら、中佐を頼ってもいいですか」

「そのとき俺がまだいたらな」


 真崎は敬礼した。立ち上がりかけた背中に、田辺が言った。

「……お前、香水くさいぞ。女か?」

 真崎は答えなかった。

「まぁいい」

 田辺はページをめくった。それで終わった。


 分室の廊下を歩きながら、真崎は少しだけ笑った。誰にも見せない程度に。


  *


 夕方、宿舎に戻った。


 机に向かった。引き出しから便箋を出した。万年筆を取った。

 止まらなかった。

 一行だけ書いた。

「欧州派兵について、直接お話したいことがございます」


 宛先を書いた。神林毅一郎少将。

 封をして、机に置いた。窓の外に上海の空があった。来た時と同じ空だ。真崎は立ち上がり、封筒を手に取った。


 上海の夜が、また始まろうとしていた。


  *


 同じ頃、フランス租界警察の留置所の扉が開いた。


 劉鏑(リュウディ)が外に出た。嫌疑不十分。釈放だった。


 留置所の中では、何も喋らなかった。弁護士も呼ばなかった。ただ待った。証拠がなければ出られる。それだけ分かっていた。食事は三回出た。全部食った。眠れる時に眠った。シャンルゥのことも、裏切りのことも、一度も考えなかった。考えても何も変わらない。


 夜の路地に、男が一人立っていた。ドイツ語ではなかった。英語だった。ヤンキー訛りの、鼻にかかった英語だった。

「待ってたぜ」と男は言った。

 劉鏑は男を一度だけ見た。背広の仕立てを見た。靴を見た。煙草の銘柄を見た。どれも上海では手に入らない品だった。

 それから歩き始めた。男がついてきた。


 上海の夜は、まだ終わっていなかった。


  *


 宿舎に戻ると、机の上に電文が一通置かれていた。

 秋月からだった。

 文面は短い。暗号ではなく、ただの日本語で書かれていた。


「件の件、接触成功。詳細は帰国後に。——慧」


 真崎は電文を折り畳んだ。机の引き出しに入れた。窓の外を見た。黄浦江の灯りが霧の中に滲んでいた。


 荷物は少ない。来た時と同じだ。

 真崎は鞄を引き寄せた。軍服を畳んだ。モーゼルを肩のホルスターに収めた。乃木大将の遺書をポケットに入れた。


 上海が終わる。

 欧州が、始まる。

最後までお読みいただきありがとうございます。

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