第七十四話 黄浦江の決算(後)
香炉が動いた。
笑ったまま動いた。それが真崎には一番堪えた。追い詰められた男の動きではなかった。獲物を選んでいる男の動きだった。
真崎に向かって踏み込んできた。
速かった。さっきより速い。(まだ隠していたのか)という内心が走った。アゥロラが右舷から撃った。香炉が半歩ずれた。弾は外れた。しかし真崎への圧は変わらなかった。アゥロラの銃声を聞きながら動いている。完全に処理されている。
真崎は後退しながらさばいた。操舵室の壁が背中に来た。逃げ場がない。
(ここで決める)
香炉の右拳が来た。真崎は左腕で受けた。骨まで響いた。その衝撃で体が右に流れる——流れながら右肘を相手の首筋に向けて返した。かすった。香炉が半歩退いた。
その一拍に、アゥロラが撃った。
弾が香炉の右肩の布をかすめた。穴が開いた。布の端が焦げた。肉には届かなかった。しかし香炉の動きが一瞬だけ変わった。
真崎が踏み込んだ。右肘を脇腹に入れた。香炉が壁に当たった。劉鏑が背後から腕を取った。真崎がもう一度踏み込もうとした——その瞬間、香炉が笑った。
また、笑った。
腕を掴まれたまま、追い詰められたまま、この男は笑っていた。
(笑う理由があるのか)
香炉が劉鏑の手首を返した。関節が一方向にしか曲がらない方向へ。劉鏑が短く呻いて手を離した。香炉が真崎を押しのけて休憩室の窓に向かった。
「撃て」と真崎は叫んだ。
アゥロラが撃った。香炉が窓枠に手をかけながらかわした。弾が窓枠を砕いた。
香炉が窓を蹴り破って右舷の外へ出た。
甲板に飛び出した時、香炉の姿は右舷の欄干の外にあった。
欄干から身を乗り出してのぞいた。水面との距離は3メートルほど。霧の中に、小型の漁船が一艘、船腹に沿うように係留されていた。
香炉が欄干を蹴って飛んだ。
カコッ。
音がした。漁船の甲板に着地した音だ。真崎がアゥロラと並んで欄干から見下ろした時、霧が濃くて何も見えなかった。
その時、機関部から潮崎と李河が甲板に上がってきた。
「誰か逃げたか」と李河が言った。
「漁船だ」と潮崎は答えた。
李河がすでに拳銃を抜いていた。霧の中、エンジンの音がした。漁船の音だ。李河が音の方向に向けて数発撃った。
タアァン――
乾いた音が霧に吸い込まれた。
「当たらん」と潮崎が言った。「止めろ」
李河が舌打ちした。「せめて一発くらい当てさせろ」
「霧の中で動く船に当たるわけがない。弾の無駄だ」
エンジンの音が変わった。蒸気艇の船体をぐるりと回り込んでいる気配があった。右舷から、船尾を経由して左舷側へ——黄浦江の上流方向へ向かっている。潮崎が仕掛けた爆薬から、できるだけ遠ざかるルートだ。
(逃げ道まで計算していたのか)
真崎は内心でそう思った。あの男は包囲されながら、すでに退路を用意していた。笑っていた理由が、ここにきて少し分かった気がした。
霧がそれを包んだ。エンジンの音が遠くなった。小さくなった。消えた。
霧だけが残った。
真崎は欄干を掴んだまま、霧の中を見ていた。何も見えなかった。生きているのか死んでいるのか、判断できなかった。
「……行きました」とアゥロラが言った。
真崎は答えなかった。
*
生存者を甲板に集めた。操舵室の船長と副長、機関部の生き残り三名。李河が縛った。愛玲が船尾の扉の細工を外した。
左舷に海軍の小型艇がビタ付けしていた。秋月が手配した船だ。ラッタルが展開されており、縛った捕虜でも乗り移れる。潮崎と李河が乗り込んできた時と同じ舷側だった。
潮崎が真崎に言った。「この船は俺が持っていきます」
「一人でいけるか」
「船の扱いは俺の仕事です」
「帰りは?」
「そこの救命艇を使います」
それだけ言って、潮崎は操舵室に戻った。
捕虜を小型艇に移した。秋月が手配した日本海軍の通信士がフランス租界警察への通報タイミングを調整している。小型艇が舷側を離れた。
蒸気艇がゆっくりと動き始めた。潮崎が河口方向へ向けている。霧の中に入っていった。真崎は小型艇の舳先から見ていた。蒸気艇の灯りが小さくなった。消えた。
しばらくして、霧の向こうが橙色に光った。
ボォォッと。
派手な音はしなかった。くぐもった低い音が一つ。それから火が広がる気配。井川が調整した結果だった。燃えながら沈む。記録には海上火災と残る。
*
小型艇の船尾に、通信士が座っていた。
若い男だった。海軍の下士官だ。艇が岸から離れた直後から、ずっと闇の中の蒸気艇の方を見ていた。手元には折り畳んだ紙が一枚ある。事前に用意したものだ。
霧の向こうが橙色に染まった瞬間、男は無線機のスイッチを入れた。
周波数を合わせた。フランス租界警察の緊急回線だ。
紙を広げた。フランス語で書かれた文面をそのまま打電し始めた。
――「黄浦江河口付近に火災船を確認。無人と思われる。至急確認されたし」
しばらくして返信が来た。「確認した。向かう」
男は無線機を閉じた。紙を折り畳んでポケットに戻した。
李河が対岸を見ていた。「おい、向こう岸——工部局がやってきてるぞ。フランス警察に先越されたら面倒だ。あっちには話通してないだろ」
真崎は対岸に目をやった。英国系の工部局警察の灯りが陸側を動いていた。懐中電灯と怒鳴り声。火事を見物しようとする群衆を押しのけながら、岸辺に向かって走っている。
フランス租界警察の小舟が、すでに燃える蒸気艇に向かって漕ぎ出していた。
工部局の警官が岸辺から何か叫んでいた。フランス語で怒鳴り返す声がした。管轄の境界線が黄浦江の水面のどこかに引かれている——その目に見えない線を巡って、二つの警察が言い合いをしている。
「問題ない」と真崎は言った。「あそこはフランス警察の管轄だ。工部局は手が出せない。潮崎がうまくその位置に誘導してくれた」
「全部計算済みってことね」と李河が言った。
「潮崎が」と真崎は答えた。「俺じゃない」
工部局の怒鳴り声が遠くなっていった。フランス警察の小舟が燃える蒸気艇に近づいていた。上海はいつもこうだ。誰の土地でもなく、誰かの土地でもある。その隙間で、今夜の仕事は終わった。
*
ほどなく潮崎が救命艇で追いついてきた。舷側に手をかけて乗り移った。濡れていた。息が上がっていた。それだけだった。
「ご苦労」と真崎は言った。
「任務完了っす。何とかなりましたね」と潮崎は答えた。甲板に腰を下ろして、濡れた手を眺めた。しばらくして「井川の装置、よく動きました」と言った。
「褒めてやらないとな。いや、動作結果報告「良好」とかの体にした方が喜ぶか……あいつは」
霧が濃かった。外灘の灯りが滲んで散乱している。香炉が消えた方角はもう何も見えない。
*
小型艇が岸に近づく頃、愛玲がいつの間にか真崎の隣に立っていた。
いつからそこにいたのか分からなかった。真崎も気づいていなかった。
黄浦江の夜風が来た。愛玲が真崎の腕に自然に寄りかかった。激戦の余韻の中、力が抜けた瞬間の動作だった。真崎もそれをそのまま受け入れた。引き寄せた。なぜそうしたのか、自分でも分からなかった。
霧の向こうで、外灘の灯りが滲んでいた。
「お、お二人さん、悪いが」と李河の声がした。「そろそろ着くぞ」
真崎は我に返った。愛玲から手を離した。「あ、あぁ……そうだな」
愛玲は何も言わなかった。前を向いたままだった。口の端が少し動いた。笑ったのかどうか、霧の中では分からなかった。
岸が近づいていた。上海の夜が続いていた。
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