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海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―  作者: 吉田梅之助
第四章 上海スパイ合戦編

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第七十三話 黄浦江の決算(前)

 真崎勇気は橋の欄干を片手で掴んだ。


 大正三年(1914年)十二月二十七日の夜は霧が濃かった。

 黄浦江(こうほこう)の水面に一艘の蒸気艇が灯りを絞って停まっている。外観は古い荷物船だ。船体に名前はない。船腹に錆が浮いていた。橋のちょうど真下あたりで、甲板との高低差が最も小さくなる。


 (潮崎・李河(リーホォ)は左舷から。愛鈴(アイリィン)とアゥロラは船尾側の橋詰めから入る。俺が正面から乗り込む)


 確認は一度だけにした。


 外灘の灯りが霧の向こうに滲んでいた。上海の夜がこんなに静かなのは珍しい。水面が揺れ、光が細かく砕けては、また戻った。


——次はもっとキレイな場所で会おう。


 あの男が言った通りだった。キレイな場所。霧と灯りと錆びた船体。真崎は一度だけ目を細めてから、欄干を乗り越えた。


   *


「いい?ここからはあなた一人よ。ユウキの援護を頼みます」

 愛鈴(アイリィン)がアゥロラに言った。橋詰めの暗がりで、二人は肩を寄せていた。


「お任せくださいませ、アイリィンさん。訓練通りやってみせます」

 アゥロラは愛鈴にそう告げると、逃げるように右舷側の構造物に身を低くしながら船頭を目指していった。驚くほどの速さだった。愛鈴はその背中を一瞬だけ見送った。


 (右舷後方、誰もいない(クリア)。接岸用ライトの影に隠れる)


 アゥロラは物陰から物陰へ、音を立てずに移動した。

 (右舷前方を確認。暗い——もうすぐ永楽飯店の明かりで見えるようになる)


 船がゆっくりと流れに乗って動いていた。次の橋の下を通り過ぎる間際、永楽飯店の禍々しい赤い光が甲板を一瞬だけ照らした。アゥロラは数秒前にその場に伏せて待っていた。光が通り過ぎた。


 (見えた。誰もいない。全速力で駆け抜ける。姿勢は低く)


 右舷側には誰もいなかった。アゥロラは一気に真崎の元へ駆け抜けた。


   *


 甲板に飛び降りた瞬間、ドイツ系の煙草の匂いが来た。

 操舵室の闇の中に、人影があった。動いていない。重心が低い。肩が揺れない。


 香炉(シャンルゥ)だった。


 三角巾は外れていた。両腕が長衫(チャンシャン)の袖に収まっている。青島(チンタオ)以来の銃創が、そこまで回復したということだ。護衛が周囲に二人、三人——甲板上は手薄だ。


 間もなく、永楽飯店の光が甲板を照らす。真崎は操舵室へ続くドア横に姿勢を落とした。赤い光が真崎の頬を照らす。


 光をやり過ごし、窓から内部をもう一度確かめた。舵輪の前に船長。中央に副長。奥の休憩室へのドア前に一名、あくびをしている。正面突破は悪手だ。三人をまとめて相手にする場所ではない。


 (アゥロラを待つ)


 右舷側から人影が滑り込んできた。


「遅れました」とアゥロラが肩を寄せながら言った。

「速すぎるくらいだ。右舷は」

「誰もいません」


 真崎は短く言った。「俺が先に入る。休憩室前の一人を撃つ。お前はすぐに続いて副長の足を狙え。その後、船長に銃を向けて言う。このまま船を進めろ、と。それだけでいい。武器がないことを確認してから、援護に回れ」


「承知しました」

 アゥロラが一度だけ頷いた。


 真崎はドアノブを回し、右肩で押した。


   *


 操舵室に踏み込んだ瞬間、真崎は迷わなかった。


――ダァン。ダァアン。


 二発。休憩室前の男が崩れた。


 アゥロラが続いた。迷いがなかった。副長の右膝を一発。男が崩れかけた瞬間に船長へ銃口を向けた。船長が両手を上げた。機械のような一連の動作だった。潮崎が言っていた通りだった——この女の(おか)での射撃の筋は俺より上だ、と。


 (船上でもピカイチじゃないか)


 休憩室のドアを蹴り開けた。

 休憩室は予想よりも広く縦長だった。


 香炉ともう一名。護衛を一発で仕留めた。

 二人は三間の距離で向き合った。どちらも動かなかった。


「腕は治ったのか」と真崎は言った。


 香炉は右腕を一度だけ見た。「おかげさまで……よく動く」

 それだけ言った。


 次の瞬間、男が踏み込んできた。

 音がなかった。一歩目が見えなかった。気づいた時には懐に入られていた。真崎は後ろに跳んでかわした。右の手刀が肩口をかすめた。布が裂けた。


 (速い)


 青島の砲台の前でも感じた速さだった。

 二合、三合。真崎は距離を測りながらさばいた。距離を詰めさせない。詰められたら終わりだ。八極拳(はっきょくけん)は接近して初めて本当の力が出る。真崎はそれを知っていた。


 (青島の時より重い。あの時は地面が泥だった。奴の重心が今夜は完全に戻っている)


 右舷の物陰から、銃声がした。

 アゥロラだ。一発、二発。香炉が半歩横にずれた。弾は外れた——しかし真崎への圧が一瞬だけ変わった。その瞬間に真崎は踏み込んだ。肘を狙って腕を払う。香炉が受けた。鈍い衝撃が肘から肩に抜けた。


 膠着した。


 真崎は息を整えながら、男の動き方を見ていた。アゥロラの射撃をほとんど気にしていない。視野に入れているが、脅威として扱っていない。


 (二人がかりでも、足りない)


  *


 同時刻。船の左舷、水面近く。

 潮崎拓馬は船腹の錆びた鉄板に手をかけた。


 井川が作った鈎爪(かぎづめ)装置を右手に持っている。水の中から船腹に取り付いて、この装置で這い上がってきた。高杉拠点の訓練場で試験したとおりに動いた。それだけで十分だ。


 (海軍にも導入したいな、これ……)


 船腹に沿って移動し、機関部の通気口を探した。格子を外す。暗い穴が口を開けた。


「先に行くぞ」と李河(リーホォ)が言った。

「俺が先だ」と潮崎は言った。

「筋骨隆々のお前が先でどうする。俺の方が体が薄い」


 一理あった。潮崎は黙って譲った。


 機関部は暗かった。石炭と機械油の匂い。香炉の部下が二人、通路の真ん中に立っていた。


 李河が動いた。一人の顎に肘を入れて崩した。もう一人が組みつく。李河の長い腕が首に巻きついた。数秒で動かなくなった。


 通路が開いた。

 阿吽の呼吸で締め上げた二人を太い配管の影に引きずって隠した。


 潮崎は爆薬を取り出した。金属と導線の冷たい重みが手に伝わった。機関部の中央、ボイラーの根元——そこが設置箇所だ。腰を下ろして作業を始めた。


   *


「おい潮崎。かなりやべぇ。なんだかたくさんこっちに来てるぞ。右側からだ。まだかかるか」

 李河がボイラーと配管の影に身を潜めながら言った。


「まだ始めたばかりだ」と潮崎は手元を見たまま答えた。

「いったん中断してそいつらを先に片付けるか」

「手元に集中しろ。なんとかする」


 李河が最近手に入れた日野小室式自動拳銃を抜いた。


「おいおい、そっちからも来られるといよいよやべぇな」

 左側の通路からも足音が来ていた。もう目が合っている。李河がその方向に銃口を向けた。


――パコーン。


「……あれっ」


 不発だった。


「なんだそのヘンテコな銃は」と足音の主が言った。


 潮崎は首だけ後ろに振った。見覚えのある顔だった。拠点急襲の後、関節を外して脱走した男。劉鏑(リュウディ)だ。


 劉鏑は潮崎を一瞬見た。爆薬を見た。李河を見た。

 何も言わなかった。


 ボイラーの横を通り過ぎた。甲板へ続く右側の通路の方へ歩いていった。


 李河が小声で言った。「……なんだあいつ」

 潮崎は手元に視線を戻した。


 しばらくして、通路の方から銃声が三つ聞こえた。


――バァン。バァン。バン。


「なんだ、なんだ? 仲間割れか?」

「構わん。好都合なのは間違いない。続けるぞ」と唖然とする李河に対し潮崎は言った。


   *


 操舵室では、膠着が続いていた。


 劉鏑が入ってきたのは、真崎と香炉が打ち合い始めて三分ほど経った頃だった。


 アゥロラがすかさず銃口を向けた。その瞬間、劉鏑が一発撃った。アゥロラは手の甲を撃たれたと思ったが無事だった。気づけば手元の銃が弾き飛び床を滑っていった。


 香炉が動きを止めた。「リュウディ! こいつを撃て。お前にしては良いタイミングで来やがった」

「アゥロラ! 伏せろ!」真崎が叫んだ。


 劉鏑は一度だけ銃を構えた。真崎に向けた——次の瞬間、銃口が下がった。


 真崎は息をつめたまま、劉鏑の銃口を見ていた。自分に向いていない。香炉にも向いていない。ただ、下がっている。


「貴様……裏切るか」


 香炉が静かに言った。怒りでも驚きでもない声だった。ただ確認する声だった。


「聞こえませんね、ボス」劉鏑は前を向いたまま言った。「あなたが傾倒しているプロイセンの騎士道はどこへいった。一人で戦うべし、ではないのか」


 香炉は一瞬だけ黙った。それから、低く言った。


「……今は二対一だろうが」


 怒鳴らなかった。叫ばなかった。それだけに、その一言の重さがあった。

 劉鏑は何も言わずに香炉に銃口を向けた。

 香炉がその銃口を一瞬だけ見た。


 笑った。


 声を出さない笑いだった。口の端だけが動いた。


   *


 甲板の下から、李河が姿を現した。船尾で待つ愛鈴に向かって手を二度挙げた。爆薬設置完了の合図だ。

 愛鈴は外套の内ポケットから小型懐中電灯を取り出し、路地の暗がりで待つ阿毛(アーマォ)に向けて二回点灯させた。

 阿毛は黒石から預かっていた無線装置に打電した。


――ツーツー、ツーツー。


 長音二回。基地の黒石がそれを受けた。


   *


 香炉が三方を見た。


 正面に真崎。その隣にアゥロラ。入口に劉鏑。船尾のドアは何度か回したがなぜか開かない。

 逃げる方向がなかった。


 霧が船を包んでいた。外灘の灯りが滲んで散乱している。

 真崎は息を整えながら、その男を見ていた。


 (なぜ笑える)


 四方を塞がれた。仲間に裏切られた。銃口を向けられた。逃げ場がない。

 なぜ、この男は笑っている。


最後までお読みいただきありがとうございます。

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