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海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―  作者: 吉田梅之助
第二部 Ⅰガリポリ編

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第百二十四話 硬い水

「そんな手間をかけるのか」


 戸口で李河(リーホォ)が言った。

 愛玲(アイリィン)は答えず、鍋の上澄みだけを急須へ移した。底に白い粉が溜まっている。粉まで入れると、また濁る。


 南満州、奉天から北へ七十キロほどの鉄嶺(ティエリン)である。


 この土地の井戸の水は、いわゆる硬水である。石灰が溶けているのだそうだ。

 そのまま茶を淹れると、湯の面に薄い膜が張る。油を一滴落としたような、光の当たり方で虹に見える膜である。色は赤茶けて濁り、香りが立たない。口に入れると、味が平たい。

 最初は茶葉が悪いのだと思ったが、上海から持ってきた、いい茶葉である。そうなると、疑うところは水しか残らない。


 一度沸かして、冷ましてから淹れるとよい。真崎からの手紙に、そう書いてあった。

 やってみると、膜は薄くなり、濁りも少し引いた。それでも、上海で飲んでいた茶とは、どこかが違う。


「教わったのよ」

「誰に」

「秘密」


 李河は、それ以上聞かなかった。


 線路の両側の、決められた幅の内側は、付属地(ふぞくち)と呼ばれる日本の町だった。電灯がついていて、日本語の看板が並び、病院があり、小学校がある。

 その幅の外へ一歩出ると、井戸の水が硬い。


 依頼主は、奉天の中国人の地主が三人である。この半年、痩せた土地ばかりが次々に人手へ渡っていて、買い手の名義はいつも中国人だが、金の出どころが同じらしい。地元の探偵はどこも請けず、上海まで話が回ってきた。

「なぜ、あんな土地を欲しがるのか分からん」

 三人が三人とも、同じことを言った。分からないから、気味が悪い。


 四つの土地を回った。


 どれも水が悪く、硬いか、鉄気がある。麦は育つが、いい麦にはならない。

 どれも、いまの線路から遠い。

 そしてどれも、川と川のあいだの、少し高いところにあった。


「痩せてるなぁ」李河が土を握って崩した。「売り手が喜んで売る土地だ」

「買い手は、なぜ喜んで買うの」

「知らん。俺は買わん」


 昼は高粱(コーリャン)の飯だった。


 赤黒い粒で、炊くとぼそぼそして、噛むと粉っぽい。この街へ来てから三日続いていたが、李河は黙って食っていた。この男は、出された物に文句を言ったことがない。


「やっぱり上海のメシがいいなぁ」

「あなたが言うと思わなかった」

「言ってはいない。思っただけだ」李河は言った。「いま口から出たが」


 愛玲は箸を置いて、遠くを見ながら長く噛んでいた。


「どうした」李河が言った。「元気がないな」

「……さすがのあなたにも分かるのね」愛玲は言った。「振られちゃったのよ」

「誰に」李河は箸を止めた。「お前に、そんな相手がいたのか」


「ええ」

「聞いていないぞ」

「言ってないもの」愛玲は湯呑みを持った。「やっぱり、この仕事をやってると、いろいろ難しいわね」

「そりゃ、そうだな」


 李河は、それきり何も聞かなかった。

 この男は昔から、聞かないことで人を扱う。


   *


 登記を確かめるために、日本の会社の役所へ入れるはずもないと思っていたが、入れた。向こうが会いたがっていたからである。


 南満洲鉄道株式会社の調査部に、戸倉数馬(とくらかずま)という調査員がいた。三十くらいだろう。痩せていて、笑わない。軍人には見えなかった。


 卓の上に、綴りが一冊出してあった。

「去年の秋から、同じ形の話が二十件ばかり並んでおります」戸倉は言った。「土地の売り買いです。売り手は別々。買い手も別々の名義です。ですが、話の運び方が同じだ」

「同じ、とは」

「値の付け方と、証人の立て方です」戸倉は言った。「同じ人間が教えた手順です」


「表にして、上役に出しました」戸倉は綴りを指で叩いた。「上役の机に載ったきり、三月になります」

「反対されたのですか」

「反対は、ありません」戸倉は言った。「反対する人がいれば、誰かが誰かに文句を言いに行くので、話は上へ行きます。誰も反対しなければ、そこで止まる。……異存の無いものは、上がりません」


 愛玲は、その言い方を頭に置いた。

 どこの国の役所も、同じことを言うらしい。


「日本の方は、この辺りの土地を買えるのですか」愛玲は聞いた。

 戸倉は、初めて顔を上げた。

「買えませんし、借りることもできません。線路の両側の、決められた幅の中だけです」戸倉は言った。「――それが、今までの決まりでした。二十五日から、変わります」


 北京で、条約が結ばれたのだという。


 ――日本国の臣民は、南満洲において、商工業の建物を建てるため、また農業を営むために必要な土地を、商租(しょうそ)することができる。自由に住み、行き来し、商いをすることができる。


 そういう定めのようだった。


「商租、とは」

「この条約のために作られた言葉です」戸倉は言った。「意味は、日本と中国で、たぶん違います。……いずれにしても、日本の金が入って、土地の値段は上がるでしょうね」


 愛玲は、卓の綴りを見た。

 去年の秋から、二十件。


「では、去年の秋から買っていた人は」

「上がる前の安い時期に、うまく買った、ということになります」

「上がると、知っていたのね」

「知らなければ」戸倉は言った。「あんな土地は、買わないでしょう」


 戸倉は、もう一枚出した。地図である。


 買われた土地に、二十個ばかりの印がつけてあった。

 愛玲がその印を目でつないでいくと、二本の線になった。


「線路の形をしています」

「はい」

「でも、ここに線路はありませんよね」

「ありません」

「いつ、通るんですか?」


 戸倉は、地図を裏返して、しまった。

「通るとは、誰も言っておりません」

「そ、そうね……失礼しました」


「いえ。そろそろ、こちらからのお願いごとをしても?」

「えぇ……どのようなご用件で?」


「買っている人間の名前を、調べていただきたい」戸倉は言った。「私は満鉄の人間です。会社の者が線路の幅の外で土地のことを聞いて回れば、会社が嗅ぎつけたと、その日のうちに買い手の側へ伝わる。次の日からは、誰も売り買いをしなくなります。あなたは中国の方で、地主に雇われた凄腕の探偵……というところまでは知っています。あちらは、あなたには話します」


 愛玲は、卓の上の綴りと地図を見た。

「今日お見せになったものが、お代というわけね」

「そうです」


「お調べして、どうなさるおつもり? そんな紙を回しても、手柄にはならないでしょう」

「なりません。上役に嫌がられるだけです」戸倉は、裏返したままの地図を指で押さえた。「ですが、線路が通れば、その下の土地を条約より前に誰が買っていたかは、必ず分かります。そのとき、会社はこう言います。誰も気づかなかった、と」


「嘘ね」

「嘘です。私が気づいております」戸倉は言った。「ですが、紙が無ければ、嘘のほうが通ります」


 愛玲は、そこで一つ思い当たった。

「……気づいていた人が一人だけいて、その人が何も書いていなかった、ということになると」

「私が、内通していたことになります」


 戸倉は、初めて少しだけ間を置いた。

「日付の入った紙が一枚あれば、それは言えなくなる。私の利益は、そこだけです」

「ずいぶん、後ろ向きな利益ね」

「調べたことを書かないのなら、調査部にいる意味がありません」

「よくわからないけど、依頼は引き受けたわ。ちょっと時間はもらう」


 愛玲は、この男の顔をもう一度見た。

 笑わない理由が、少し分かった気がした。


   *


 二十五日の夕方、付属地の側が少しだけ賑やかになった。


 役所の前に掲示板が出され、人が集まっている。日本語の話し声が、いつもより大きく聞こえる。

 愛玲と李河は、幅の外の側から、それを見ていた。


「九十九年だそうだ」李河が言った。「大日本帝国が旅順と大連を借りている年限を、九十九年に延ばした。鉄道も同じだ」

「なぜ、百年ではないの」

「百と書くと、返さないと言っているのと同じになる」李河は言った。「九十九なら、いつか返す気があるように見える」


 愛玲はその理屈を二度なぞって、どちらでも同じだと思った。

 九十九年後に生きている人間は、この道に一人もいない。


「北京では、五月の九日を国恥(こくち)記念日にすると決めたそうだ」李河が続けた。「日本の二十一カ条を、袁世凱(えんせいがい)が呑んだ日だ」

「もっと荒れると思っていたわ」

「日本の貼り紙が、何枚か破られた程度だ」李河は言った。「一番強い第五号――日本人を政府の顧問に入れて、警察も一緒にやるという一組が、五月のはじめに落ちたからだろう。日本が自分から引っ込めたそうだ」


 愛玲は、湯呑みを持ったまま考えた。

「そういえば、日本の北京に対する要求をイギリスが止めた、という話は聞いたわ」

「あぁ」李河は言った。「どうせ、高杉先生が一枚絡んでいるんだろう」

「マスターが」愛玲は言った。「……まあ、そうね」


「あなたは、腹が立たないの」

「立つさ」李河は言った。「だが、誰に腹を立てればいい。いまの中華民国は、俺たちの清国を滅ぼした連中だぞ」


 愛玲は答えなかった。

 朝廷が無くなったとき、父と母は殺された。殺したのは、新しい国を作った側の人間である。日本人ではなかった。

 家が無くなったあと、残ったのは、隣で立っているこの男だけで、生き延びるには、この男から拳を教わるほかなかった。


 掲示板が下ろされ、人が散っていった。


 宿へ戻ると、机の上に、手紙が一通、置いたままになっていた。

 四月に届いてから、六週間になる。


 書きかけて途中でやめた紙が、机の下に二枚あった。


 愛玲は、灯りを近くへ寄せた。

 指の腹が硬い。銃を撃つ稽古を続けているからである。上海で真崎と潮崎に教わって以来、まだ一度も休んでいない。


 筆を持った。


 ――水の話、試しました。少しましになりました。


 そこで一度止めて、それから続けた。


 ――友でよいと書いてありましたが、こちらはまだ決めておりません。


 そこまで書いて、また止まった。

 止まったまま、最後に一行だけ足した。


 ――また会いたかったのに。あの日みたいに、骨が鳴るくらい強く、もう一度抱いてほしかった。傻瓜(シャーグァ)。


 最後の二文字だけ、中国語である。

 日本の辞書には出ていない。あの男のことだから、必ず誰かに訳させるだろう。訳せる者が近くにいれば、馬鹿(ばか)、と伝わる。

 少しだけ違う。もっと柔らかい。子供や、近しい者に向けて言う言い方である。

 訳せる者がいなければ、二文字のまま残る。それでもよかった。


 封をして、宛名を書いた。

 上海を経由させると遅い。それに、あの男は軍人である。軍の郵便に乗れば、どこを通しても、中身は検閲の係に読まれるだろう。どうせ誰かが読むのなら、早いほうがいい。東京の軍務局気付で出すことにした。

 読まれて困ることは、書いていない。最後の一行を除けば。

 あの男は、いま戦地にいる。届くのは、ずいぶん先になるだろう。


   *


 鉄嶺から東へ七百キロ、ウラジオストクである。


 埠頭には、東部戦線のロシア陸軍へ送る木箱が山と積んである。半分は行き先の書かれた弾薬箱で、もう半分は何も書かれていない日本の小銃の箱だった。役所を通さない取引で、東京で柏木丈二が話をつけたものである。同じ連合国の側に立つロシアは銃が足りず、動員した兵の三人に一人にしか渡っていないという。

 川口たけ――咲夜は、その数字を先月買った。情報を安く買って、高く売るのが、咲夜の商いである。


 日本人町の外れ、看板のない二階の一室。卓に茶が二つ、客の分まで頼んである。客は、この前と同じ椅子に座った。


 ヴォルコフ。去年まで東京のロシア大使館にいた書記官で、青島(チンタオ)の一件で嫌われ、本国へ呼び戻された。

 二月に、咲夜はその話を安値で買っている。


「サンクトペテルブルクは、貴方をお呼びになりまして?」

「――まだだ。それと……いまは、ペトログラードという。ドイツ語の響きが混じっているというので、戦争が始まってすぐに改めた」

 名前を変えても、街は同じ場所にある。呼び戻されたと言っている男も、なぜかまだ同じ椅子に座っている。

「それに、いまの都は、呼ばれて喜んで帰る場所ではない」ヴォルコフは言った。「パンの列に並んだ女たちが、店の硝子に石を投げる。工場では、戦争をやめろと刷った紙が、手から手へ回っている」

「物騒ですこと」

「シベリアのほうもだ。去年の暮れには、国会の議員が五人、戦争に反対したというだけで、向こうへ流された」ヴォルコフは、茶の湯気を見ていた。「だが、シベリアの鉄道は、兵と弾を西へ運ぶので手一杯で、流刑地の見張りまでは手が回らん。流された連中は、勝手に手紙をやりとりして、勝手に仲間を増やしている」

「貴方は、どちらへ」

「西だ。おそらく、ストックホルムあたりだろう」ヴォルコフは言った。「あそこでは、ドイツの金で、ロシアの革命屋を養おうとしている男がいるそうだ。それを見張れと言われるのか、それに加われと言われるのかは、まだ分からん」

「……今のお話は、お代に入りまして?」

「世間話だ。帳面に書くなら、勝手に書け」


「今日は、売りに参りましたわね」

「分かるか」

「買いに来る方は、先に茶を飲みますの」


 ヴォルコフは、茶に手をつけていなかった。


「東京の大使館の金ではない金が、二年のあいだ動いていた」ヴォルコフは言った。「運んだのは、私だ」

「お受け取りになったのは」

「日本の方だ」

「お名前は」

「知らん」


 咲夜は、指を動かさなかった。


「本当に知らんのだ」ヴォルコフは言った。「私は運んだだけだ。顔も見ておらん。知っているのは、渡した場所と、回数と、額の刻み方だけだ」


 咲夜は、指を一本立てた。

 この街では、それで値が通る。咲夜の指の一本は、百ルーブルである。


「一つか」ヴォルコフは言った。「その値では、ひと月ももたん」

「さすがに、それだけでは」咲夜は言った。「お受け取りになった方のお名前が分かれば、買い手はつきます。場所と回数には、つきませんの」


 ヴォルコフは、しばらく茶を見ていた。

 それから頷いた。大使館からの給金は、二月で止まっている。


 話し終えて、ヴォルコフは立ち上がった。


「一つ、ただで付けておこう」

「伺いますわ」

「二年のあいだ、一度も遅れなかった」


 咲夜が、初めて顔を上げた。

「遅れる、と申しますと」

「役所の金は、必ず遅れて支払われる」ヴォルコフは言った。「戦争が始まってからは、なおのことだ。三ヶ月遅れることもある。……それでも、あれは一度も遅れなかった」


 咲夜は、しばらく黙っていた。


「……一か、二かで悩んでおりました」

「は」

「間を取って、一と半分でいかが」

「契約成立だ」


 咲夜は、百五十ルーブルを卓に置いた。

 ヴォルコフはそれを懐へ寄せて、静かに出ていった。


 咲夜は帳面を開いた。


 二月に書いた名前がある。まだ買い手はついていない。

 その下に、行を足した。場所。回数。額の刻み方。少し離して、ストックホルム、とも書いた。


 最後に、もう一行書いた。


 ――一度も遅れず。


 書いてから、値を消して、書き直した。前より高い値だった。


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