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海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―  作者: 吉田梅之助
第二部 Ⅰガリポリ編

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第百二十三話 ユア・ア・ニューサンス

「あいつら、地面の中から掘り進める気だな」


 五月二十八日の夜。同盟国オスマン軍、第十九師団の塹壕で、師団長のムスタファ・ケマル中佐が、隣の尾根を見ながら言った。

 隣の尾根は、第五師団の持ち場である。そこから夜ごとに兵が列を作り、土嚢を担いで斜面の裏へ下りていく。

「掘った土を担いで来ているのです」付いてきたセリム大尉が言った。「この三日、毎晩です」

「上から登れば、十九日と同じことになる……機関銃に撃たれて死ぬ」師団長は言った。「だから、下から行く。向こうの塹壕の真下まで掘って、火薬を詰めて、吹き飛ばす」

「……いつになるでしょうか?」

「今夜は、土嚢の列が短い」師団長は、隣の尾根から目を離さなかった。「おそらく掘り終わったのだ。今夜か、明日の朝だろう」


 セリムは、列の長さなど数えていなかった。数えていなかったことに、そこで気づいた。

「うまくいくでしょうか」

「穴を開けるのは、うまくいく」師団長は言った。「開けた穴を、朝まで持っていられるかどうかだ」


 しばらく、二人とも黙っていた。

「師団長殿。一つ、ご報告を」セリムが言った。「休戦の日に、日本の将校と話しました。十九日の夜、左の窪みに砲弾を落としてきたのは、あの男です。マサキ、と名乗りました」

「日本の」師団長は、少し考えた。「休戦の日に、担架を担いで、歩幅を一度も乱さずに斜面を往復していた男がいた。……あれか」

「おそらく」セリムは言った。「向こうにも、地面を読む者がおります」

 師団長は、少しだけ間を置いた。

「そうか」

 それから、胸の時計を出して一度見て、しまった。

「……そいつは、厄介だな」


   *


 ケナードを乗せた艀(はしけ)が沖の闇に溶けてから、真崎勇気は箱を一つ担がせて、斜面を上がりはじめた。


 浜から六段目までは、昼なら二十分の道だが、灯りを使えない夜は、その倍かかる。前を行く井坂徹中尉が、段の縁で足を探りながら、ときどき小声で数を数えていた。


「何を数えている」

「段です。少佐殿の真似をしてみたんですが」井坂は言った。「……十四で分からんようになりました」

「段は、七つしかないぞ」

「……ほいじゃあ自分は、何を数えとったんでしょう」


 後ろで箱を担いでいる兵が、声を殺して笑った。


 六段目の井戸の少し下に、日本製の臼砲が二門据えてある。撃つのはオーストラリアの砲手たちで、三日前に真崎と一緒に窪みを撃った顔ぶれだった。


 真崎は、箱から部品を一つ取り出して、砲手の伍長に見せた。

 真鍮(しんちゅう)の部品には目盛りを刻んだ輪が付いていて、輪を回せば、撃ち出されてから何秒で割れるかが変わる。


 目盛りの数字は、漢字である。


「これは、何と書いてあるんです」オーストラリアの伍長が、輪を指で叩いた。

「秒です。一から十二まで」

「読めませんな」

 伍長は腰から釘を一本抜いて、真崎が読み上げる数を、漢字の横にアラビア数字で一つずつ刻んでいった。


「で、こいつの名前は」

「ユラノスケ、というそうです」

「ユア……ア・ニューサンス?」


 伍長が聞き返すと、隣の若い砲手が噴き出した。You're a nuisance――お前は厄介者だ、と聞こえたらしい。


「はっはっ! いいじゃないか」伍長は言った。「窪みの連中にとっちゃ、厄介どころじゃ済まんだろうがな」

 砲手たちは口々に、ニューサンス、ニューサンス、と言い合って肩を揺らしている。


 真崎は、訂正しなかった。由良之助の話を英語でするなら、判官が腹を切るところから始めなければならず、至極面倒だったからだ。


 何秒にするかは、真崎の帳面に手がかりがあった。


 三日前、この二門で窪みを撃ったとき、真崎は懐中時計を出して、撃ってから土が噴き上がるまでを計っている。三百五十メートルで、八秒と少し。窪みの真上で割るなら、それより一秒ほど早く割ればいい。


「七秒」真崎は言った。

「七(セブン)!」伍長が輪を回した。


 夜のうちに、試しに三発撃つことにした。暗ければ、割れたときの閃光で高さが分かる。


 ――ドンッ!


 窪みのはるか上、星の高さで、ぱっと火の花が咲いた。ばらばらと破片の落ちる音が、ずいぶん遅れて届く。


「高い(ハイ)!」伍長が唸った。「早く割れすぎだ!」


「八」

「八(エイト)!」


 二発目は、閃光が見えなかった。土の中でくぐもった音がして、窪みの縁のあたりが、少し持ち上がった気配がしただけである。

「遅い(レイト)、潜った(バリード)!」


「七と半分」真崎は言った。

「半分なんて目盛りは無いぞ!」

「七と八のあいだに回してください。目盛りに無くても、輪は回ります」


 伍長は舌打ちをして、自分で刻んだ七と八のちょうど真ん中に、爪で傷を一つ付けた。


 ――ドンッ!


 三発目は、窪みの縁の、人の背丈の三倍ほど上で光った。一拍遅れて、ザアッと、夕立の降りはじめのような音が斜面の向こうから返ってくる。


「そこだ(ザット・ワン)!」


 真崎は帳面に、七と半分、と書いた。伍長は、爪の傷の上をもう一度釘でなぞって、深くした。


 夜半を過ぎると、斜面は静かになった。


 ラフティ軍曹が、妙なものを抱えて段を下りてきた。小銃の銃床に木の枠が括りつけてあり、枠の上下に小さな鏡が一枚ずつはめ込んである。


「潜望鏡付きの銃だ。浜の大工あがりの上等兵がこしらえた」ラフティは言った。「頭を壁の下に沈めたまま下の鏡を覗いて、紐で引き金を引く」

「……自分に、一挺もらえませんか」井坂が言った。「国へ持って帰って、砲工学校で見せたいんです」

「余りはある。やるよ」ラフティは言った。「昼に見せてくれたファーフィーと交換だ。咳の分は、まけといてやる」


 井坂はその銃を抱いたまま、壁にもたれて眠ってしまった。真崎も臼砲の脇で、少しうとうとしていた。


 ――ズズン。


 音は、足の下から来た。


 体が浮くような揺れがあり、壁の土がぱらぱらと落ちてくる。谷のいちばん奥のポスト――敵の塹壕と十メートルほどしか離れていない、アンザックの最前線の陣地のあたりで、土の柱が夜空へ立ち上がっていた。


「坑道だ!」ラフティが怒鳴った。「下から掘ってきやがった!」


 三時半である。


 奥のポストから、叫び声と爆弾の破裂音が立て続けに降ってくる。ドン、ドン、ドン。崩れた塹壕の中へ、向こうの爆弾が放り込まれている。


 照明弾が上がる。ぱっと空が白くなり――三秒で消えた。


 その三秒で、真崎は見た。

 稜線の裏から谷筋を下りてきた影が、例の窪みに溜まっている。奥のポストへ入った者の、後に続こうとする者たちだ。これまで、どの砲からも手の出せなかった場所である。


「窪みへ!」真崎は叫んだ。「七と半分!」

「七と半分《セブン・アンド・ア・ハーフ》!」


 ――ドンッ! ドンッ!


 二門が続けて撃った。棒が後ろへ飛び、弾が夜空へ回りながら上がっていく。


 ヒュルルルル――パァンッ!


 窪みの真上で、火の花が開いた。一拍遅れて、ザアアッと雨の降るような音が斜面を叩く。


 ――パァンッ! ザアアアッ!


「次!」

「装填(ローディング)!」


 砲手たちは弾の頭に部品をねじ込み、輪を爪の傷に合わせ、砲口へ落とし込む。オーストラリアの手と、日本の臼砲と、上海から来た真鍮が、一つの動きになって回っていく。


 一方、窪みの底。

「頭を下げておけ! ここには機関銃が届かん。十九日の晩もそうだった」

 セリムの中隊の曹長が、兵を窪みの奥へ押し込んでいた。前のポストへ飛び込んだ組に続く、二番手である。三十人ほどが、底の土に腹をつけて合図を待っている。


 ――ドンッ! ドンッ!

 向こうの斜面で、くぐもった音が二つ鳴った。

「来るぞ! 砲弾だ!」

 兵が一斉に顔を土に押しつける。十九日の晩、この窪みに落ちてきた砲弾は、みな地面で割れた。伏せていれば、破片は頭の上を抜けていく。

 ところが、いつまで待っても、弾が地面を叩く音がしない。

「……ん?」

 曹長が、顔を上げかけた。

 ――パァンッ!

 頭の真上で、空気が裂けた。見上げた夜空に、火の花が開いている。一拍遅れて、灼けた鉄の破片が、雨のように窪みの底へ降ってきた。伏せた背中に、首に、腰に。

「上だ! 上で割れたぞ!」

「散開! 散開ッ! 窪みから出ろ!」

 だが、窪みから斜面へ抜ける道は、一人ずつしか通れない細い谷筋が一本きりである。三十人が一度に這い上がれる幅ではない。兵がもつれ合い、押し合うところへ――

 ――パァンッ! ザアアアッ!

 二発目が、同じ高さで開いた。

「伏せても駄目だ! 出れば機関銃だぞ!」

 誰かの叫びが、三発目の破裂音にかき消される。

 曹長は窪みの縁に手を掛けたところで、背中を灼けた鉄に叩かれ、底へ転がり落ちた。


   *


 十発を過ぎたころ、窪みから出てくる影が途切れた。


 代わりに、斜面の下のほうで、何かが這っている。


 撃つたびに、臼砲は砲口から火を噴く。その火が、ここに何かいる、と向こうへ教えていたのだ。


「来るぞ。十人ほどだ。爆弾持ちだな。臼砲を黙らせに来た」

 いつのまにか、郷田龍一郎中佐が真崎の横にいた。土嚢の上に銃身を据えて、ぶれないように構えている。その銃の上に、見慣れない細い筒が一本載っていた。


「中佐、それは」

「望遠の照準器だ。イギリスの将校が、狩りに使っとったのを持ってきておった」郷田は筒から目を離さずに言った。「休戦の日にもらった煙草と換えた」

「……セリムの煙草を、ですか」

「俺はあまり吸わんからな」

「ですが中佐、夜は暗くて、照準器では何も見えんと」

「照明弾の三秒は、昼と同じだ」


 照明弾が上がる。


 ――パンッ。――パンッ。


 三秒のあいだに、郷田は二度撃ち、筒の中で十字に重なった影が、二つ止まった。次の照明弾でも、その次でも、止まる影は一つずつ増えていった。


 それでも、全部は止まらない。

 黒い球が一つ、闇の中から弧を描いて飛んできて、臼砲の脇に落ちた。


「伏せろッ!」


 ――ドンッ!


 土と鉄が跳ねた。伍長は腕を押さえて転がり、その向こうで、ユラノスケを聞き違えて一番に噴き出した若い砲手が、うつ伏せのまま動かなくなっていた。


 壁の上に、人影が立った。


 オスマン兵が一人、塹壕の中へ飛び降りてくる。着地した場所が、ちょうど真崎の目の前だった。軍刀も拳銃も、抜く暇が無い。

 真崎の手が掴んだのは、井坂が抱えて寝ていた潜望鏡銃だった。


 ガシャン、と鏡の枠が男の頭で砕けた。

 男がよろめく。真崎は潜望鏡銃を放り出し、壁に立てかけてあった砲手の小銃を掴むと、死んだ砲手の腰から銃剣を抜いて、銃口の下へ叩き込んだ。カチリ、と留め金が鳴る。


 男が、体勢を立て直して掴みかかってくる。

 真崎は、その胸へ突き入れた。


 手応えは、思っていたよりずっと鈍く、重い。男の体が、銃剣の先で真崎のほうへ倒れかかってくる。

 真崎は小銃を握ったまま踏み込み、その重みごと、男を塹壕の底へ押し倒した。男の背中が土を打つ。袖を一度だけ掴んできた手が、ゆっくりと離れていく。

 銃剣を抜いたとき、男はもう動かなかった。


 しばらく、真崎は小銃を握ったまま立っていた。

 人を突いたのは、初めてである。精神で突撃するな、弾で戦え、と言い続けてきた男が、鏡で殴って、銃剣で突いた。


「……だから言うたろう」郷田が、次の弾を込めながら言った。「銃剣は、当たらんときに使うものだ」


 その言葉が終わらないうちに、壁の上にもう一つ人影が立った。

 郷田は弾を込めかけた小銃をくるりと持ち替え、腰の銃剣を抜いて着けると、飛び降りてきた男の胸を下から突き上げた。そのまま銃を振り上げる。男の体は、干し草でも放るように、ひょいと壁の向こうへ消えていった。


「このようになあッ!」

 郷田は、何事も無かったように照準器を覗き直した。

「貴様の銃剣捌きも、なかなかじゃないか」


 真崎は、何も言い返せなかった。


「撃て!」伍長が、片腕で装填しながら怒鳴った。「まだ一門は生きてるぞ!」


 臼砲が、また撃ちはじめる。窪みの上で、火の花が開く。


 ――オスマンの攻撃が止まった。


 夜が白みはじめたころ、奥のポストのほうから長い歓声が上がった。


「マサキ! ニューサンスのおかげだ! ブラボーだ!」

 ラフティが、泥だらけの顔で段を下りてきた。

「窪みの連中が来なかったから、奥のポストは、中へ入った奴らだけ片付けりゃよかった。あいつらが来てたら、ポストは今ごろ向こうのもんだ」


   *


 朝になって、こちらの数が届いた。


「三十三だ」ラフティが言った。「奥のポストで死んだ、うちの兵の数だ。最初の爆発で、塹壕ごと生き埋めになったのが十一。掘り出したときにゃ、みんな息をしてなかった」

 ラフティは、その先を言わなかった。


 臼砲の脇では、あの若い砲手の上に、毛布が掛けてある。その少し先の塹壕の底には、真崎が突いた男が、何も掛けられないまま横たわっていた。


 真崎は、井坂の潜望鏡銃を拾い上げた。

 上の鏡は割れて、半分しか残っていない。壁の下に頭を沈めたまま、下の鏡を覗くと、ひびの入った鏡が窪みを映していた。


 鏡の中は、朝の光で明るい。

 塹壕のすぐ外の斜面に、郷田が放った男が、うつ伏せに転がっている。その先の窪みの底に、昨夜の影たちが、そのまま残っていた。上から降ったものを、身を伏せる場所の無い地面で受けたのである。動いているものは、一つも無い。

 鏡を持つ手が、細かく震えていた。止めようとして、真崎は止められなかった。


 真崎は鏡から目を離し、銃を井坂に返した。

「……もろうたばかりなんですが」

「すまん」


 臼砲の脇では、伍長が、包帯を巻いた腕で、爪の傷を釘でもう一度なぞっている。

「マサキ。こいつは、あと何晩撃てる」

「部品の残りからすると、夏の半ばまでです」

「夏の半ばか」伍長は、釘をしまった。「ニューサンスは、本当にいい仕事をしたな」


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