第三十八話 整えられない書類
鍵が一つ、机の端に置いてあった。
テルナー様の机だ。朝の帳簿を届けると、テルナー様が革紐の結び目を見てから机の左に置く。毎朝そうだ。今日は、帳簿を置く前にテルナー様の手が鍵へ行った。
「外務の鍵だ。ドレスラーが留守のあいだ、私が預かっている」
黒い鍵。書庫の鍵より一回り大きい。
「昨日お話のあった、外務の棚の鍵ですね」
「そうだ。先に、使者から預かった用件を話しておく。西の街道のことだ。グライフ領との境を通っている、あの道だ」
「はい。伺います」
「あの道については、何年もかけて紙に記録してきた。どの荷車が通っていいか。通るなら、いくら取るか。見張りを何人置くか。そのたびに決めて、だ。王都は、それを一つにまとめて提出せよ、とのことだ。先般の騒ぎのあとだ。境の道の決めごとを、全部見ておきたいのだろう。二十日以内だ」
「大きなお仕事ですね。まとめて出すのは、外務のお役目になるのでしょうか」
「そうだ。ドレスラーの仕事……なのだが」
テルナー様が鍵の上に指を置いた。
「テルナー様が代わりにまとめることは、できないのですか」
「王都へ出す紙には、名が二つ要る。城主と、外務官だ。城主の名がなければ、領が出したことにならん。外務官の名がなければ、取り次いだ者がいないことになる。私は財務官だ。どちらの名も書けん」
「ドレスラー様が戻られるのは、いつごろですか」
「早くて十日だ。出した紙が王都へ着くまでに、馬車で三日かかる。戻ってから探し始めたのでは間に合わん。そこで、探すのはミーナ殿に頼みたい。西の街道の紙を、外務の棚から全部だ。ただ、並べ替えないでもらえるか。ドレスラーの棚だ。あれには、あれの並びがあるだろう」
「わかりました。並びには触らずに、探すだけにします。このあとすぐ、見てきます」
「助かる。鍵は、済んだら私の机に戻しておいてほしい」
鍵を受け取った。ひんやりと冷たかった。
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外務官の執務室は、中央棟の二階にある。城主様の書斎とは反対の端。
戸を開けると、光の中で埃がゆらゆらと動いた。
この部屋に入るのは二度目だ。一度目は冬の大掃除で、床と窓を拭いた。棚は触っていない。ドレスラー様が留守で、棚の紙を出す許しをもらえなかったからだ。留守の多い人だ。会ったことがない。声が大きいと、リーゼ様に聞いた。廊下の端まで届く声を、まだ聞いていない。
棚は三段。紙は立てて、段ごとに手前から挿してある。
日付を見た。手前が新しく、奥が古い。ただし束ごとだ。手前の三枚は、紙の日付が三枚とも違う。けれど三枚とも十日のうちに収まっていて、その奥の紙とは日付が大きく離れている。三枚で一つの束だ。旅から戻った日に、持ち帰った紙をまとめて手前へ挿す。それだけの並びだ。旅ごとに一束。
並びは崩さない。一枚ずつ抜いて見て、同じ場所へ戻す。
中は読まない。見るのは頭の一行と、終わりの一行だけにする。頭の一行は紙の名だ。何を決めた紙かは、そこに書いてある。
頭に西の街道とある紙を数えた。上段に七枚。中段に九枚。下段に三枚。十九枚。街道でない紙は、その何倍もある。十九枚のうち一番古い日付は、十二年前だった。
終わりの一行を見て、手が止まった。
見張りの数は、軍務の定めのとおり。
通行の銭は、財務の別紙による。
十九枚のうち、九枚にどちらかの一行があった。文は、どの紙でも同じだった。指している先は軍務に一枚、財務に一枚。数については書かれていない。
見張りが何人か。荷車一台からいくら取るか。決めた紙は、軍務と財務の棚にある。ただここにある紙面上は、定めや別紙があると言っているだけだ。数を変えるときは、それぞれの一枚を書き替えてきたのだろう。
全部揃えても、この棚の中では分からないし、終わらない。
紙を戻した。段の順も手前から何枚目かも、元のまま。
財務の一枚は、おそらく分かる。書庫の財務の帳簿は、去年の秋に年度と項目で分けた。街道の項目は三段目の右。綴じの終わりのほうに、荷車一台の銭を決めた紙を一枚挟んだのを覚えている。心当たりと言えばそれだ。
軍務の一枚は、分からない。軍務の棚を見せてもらうことができるかを、相談しなくては。
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軍務の部屋は一階にある。門に近い端だ。
戸口に兵が二人立っていた。名を言うと、一人が中へ通した。
軍務官のブレンナー様が、大きな地図を巻いているところだった。机の幅より長い紙を、端から巻いていく。巻きながら、目だけこちらへ向けた。
「ブレンナー様、お仕事中に失礼します。西の街道の見張りの数を決めた紙は、こちらにありますか」
巻き終わってから、棚の一番上の筒を一つ下ろした。中から紙を一枚出して、机に置いた。判が押してある。
「これだ。西の街道の見張りは、この一枚で決めてある」
「判があるということは、こちらは原本でしょうか」
「そうだ、原本だ。軍務の管轄ゆえ、出せん」
「お借りしたいのではありません。在処を書き留めさせていただければ、それで足ります」
「在処を書いて、どうする」
「テルナー様から、西の街道の紙を探すよう頼まれました。どこに何枚あるかを、目録にしています。外務に十九枚。財務に一枚。こちらに一枚。紙は動かしませんので、ご安心ください」
ブレンナー様がわたしを見た。
去年、この人はわたしを疑った。武器庫で、数が合わないと言ったときだ。あとで頭を下げてくれた。今日は、疑う目ではない。ただ見ている。
「写しでいいなら、持っていけ」
引き出しから、もう一枚出した。同じ紙だ。判がない。
「……原本と、同じ中身ですか」
「同じだ。二枚作ってある。一枚は、貸すためのものだ」
判のある原本は筒に。貸すための写しは引き出しに。なるほど、しっかり備えている人だ。
「ありがとうございます。でも、お借りせずに済みます。日付と頭の一行と、見張りの数を控えさせてください」
控えて、ブレンナー様の写しを返した。数の横には、今日の日付を書き添えた。
「持っていかんのか。そのための写しだ、遠慮はしなくていい」
「いえ、まずはドレスラー様が見つけやすいようにしているところですので。写しが要るときは、改めてお借りしに伺います」
「なるほど。外務官の仕事と判断に必要な材料集め、ということだな。それならまた声を掛けてくれ」
「では、失礼します」
ブレンナー様が、写しを引き出しに戻した。
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書庫の机で、一枚の紙を出した。
頭に、西の街道と書いた。棚の札は、その段に何が入っているかを書く。この目録はその逆で、紙の名から在処を引く。
その下に、一行に一枚。左に日付。次に、何を決めた紙か。右に在処。外務の上段の奥から三枚目。外務の中段の奥から六枚目。奥から数える。あの棚は、手前に増える。二十一行。財務の一行は、書庫の財務の棚の三段目の右にある街道の綴じの終わり。軍務の一行は、軍務の棚の一番上の筒。写しは引き出し。
紙は一枚も動かしていない。それでも、この一枚があれば三つの部屋を迷わずに回れる。
もう一枚、同じ目録を書いた。
目録そのものがどこにあるかは、どこにも書いていない。一枚きりなら、前にいた場所では積んだ物の下に埋もれていたと思う。だから二枚にして、別々の場所に置く。
「ニクラスさん。お手数ですが、この目録を清書していただけますか。二枚ぶんです。紙が増えて行を足すとき、ニクラスさんの細い字のほうが詰められます。今日は一枚をテルナー様の机に、一枚を外務の棚に置いておきます。棚のほうは、明日こちらへ持ってきます」
ペンが止まった。紙の上に、インクの染みが一つできた。
「……ああ、わかった。明日の朝でいいか」
「はい、明日の朝で間に合います。お忙しいところを、ありがとうございます」
書庫を出て、外務の部屋へ戻った。一枚は、棚の上段の板の上に平らに置いた。手前には挿さない。旅の紙ではないからだ。戸に鍵をかけた。もう一枚は、鍵と一緒にテルナー様の机へ。
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夕方、テルナー様が書庫に来た。手に目録と鍵を持っている。
「ニクラス。これのとおりに集めてきてもらえるか。外務の十九枚と、書庫の一枚だ。この目録で集められるかを、見たい。軍務の一行は、原本の在処が合っているかだけ見てきてほしい」
「はい。すぐに集めてきます」
ニクラスさんが目録と鍵を持って出ていった。
いくつかの綴じをしている間に、ニクラスさんが戻ってきた。両手に紙の束。後ろにブレンナー様がいた。
「ニクラス殿が軍務の一行を確かめに来た、と言うのでな。ミーナ殿の目録というのを、見に来た」
ニクラスさんが束を机に下ろした。一番上に目録。鍵は、テルナー様の手に戻った。
「問題なく、一度で済みました。軍務の筒も、在処のとおりでした」
ブレンナー様が束の上の目録を取った。在処の列に指を置いて、動かさない。それから顔を上げて、わたしを見た。
「去年、武器庫では数えただけだと言ったな」
「はい。あのときは、そう申し上げました」
「今年は、これを何と言う」
「紐づけた、と言えると思います」
ブレンナー様が、目録をもう一度見た。
「在処はどれも、元の棚のままだ。棚には手を付けずに、これを書いたそうだな。何と何を紐づけたと言うのだ」
「三つの部屋に散っていた書類の名と在処です。一枚の紙で紐づけました。どこに何があるかが、これを見れば分かります」
ブレンナー様が黙った。長かった。地図を巻いていたときの手が、机の端で止まっている。
「テルナー。軍務の棚にも、これが要る。いずれ、ミーナ殿の手を借りたい」
「王都へ出す紙が済むまでは、ミーナ殿を貸せん。話はそのあとで聞こう」
ブレンナー様の目は、わたしのほうを向いたままだった。
「わたしに直に頼んでは、いけないのですか」
「軍務の仕事を財務の者に頼むなら、テルナーを通す。それが筋だ」
ブレンナー様が目録を束の上に戻して、出ていった。すれ違いに、開いたままの戸からザビーネ様が入ってきた。内務の束を一つ、戻しにきたところだ。保管棚の前で段の札を見て、束を戻した。
「手が要るときは、言ってください。貸し借りではありません。丁寧な仕事をする人には、手を貸したくなるものです」
ブレンナー様とのやりとりを、聞いていたのだろう。わたしにというより、貸せんと言ったテルナー様に向けた言葉に聞こえた。
「ありがとうございます。そのときは、お願いします」
ザビーネ様が出ていった。丁寧な仕事。人に言われたのは、初めてだ。
テルナー様が束を抱えた。二十枚と、目録。
「西の街道の話が出るたびに、何年も三つの部屋を回ってきた。ドレスラーは借りた紙を机に積んで、戻すのを忘れる。そのたびに、私がドレスラーの机まで取りに行ったものだ。……なんだかんだと面倒になる手間だったが、それも今日で片づいたようだ」
テルナー様が、何か言いかけたが続かなかった。なんとなく、ドレスラー様へのちょっとした文句が漏れそうになっていたのかも、と思う。
「目録は、外務の棚にも一枚置いてあります。ドレスラー様がお戻りになったら、棚の前でも引けます」
そう伝えると、テルナー様が束の上の目録に目を落とした。在処の列を、上から下までたどった。
「そうか。集められたなら、このとおりに戻せるな。ドレスラーが戻った日に、本人に確かめさせてから一枚ずつ元の在処へ返せばいい。それまで、束は私の手元に置く。まとめは私が書く。名は書けんが、下書きは書ける。明日から取りかかって、ドレスラーが戻った日に名を入れるだけにしておく。添える写しは、ニクラスに取ってもらう」
軍務で書いた控えを出した。
「見張りの数は、軍務で控えてきました。書き替えられているかもしれないので、今日の日付を添えてあります。ドレスラー様が名を入れる前に、原本を目視でご確認いただくのがよいかと思います」
「助かる。仮であっても、数はこれで書ける。原本のことは、ドレスラーに伝えておく。束と鍵は、私の机に置いておく」
日が暮れる前に、テルナー様は城を出た。使者の来た日は、暮れても出なかった。
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控室に戻った。
今日、棚を片付けていない。外務の棚も、軍務の棚も。それなのに、すっきりと片付いた気がする。
丁寧な仕事。
ザビーネ様の言葉を、もう一度思い出した。
窓を開けた。庭木は十二本。葉が重なって、影が葉の形でなくなっている。一本ごとに、黒い塊が一つ。
目を凝らすと、その塊のひとつひとつに、葉の輪郭が見えた。
窓の外に、まだ日があった。




