最終話 整った朝
すがすがしい朝。
すんなりと目が覚めた。石の天井。城の控室の天井。わたしの部屋の、天井。
寝台から起き上がった。足を床につけた。石の床が冷たい。でも冬の冷たさではない。春の冷たさだ。すぐに温まる。
棚を確認した。水差し。壁際、机の端から五センチ。合っている。棚の上に、薄い青の巾着。
巾着を手に取った。口を開けてリボンを出した。薄い青。リーゼ様とお揃いのもの。
鏡の前に立った。
髪を結んだ。リボンを巻いて、蝶結びにした。フリーダに教えてもらった結び方。最初は下手だったが、毎日やっていたら手が覚えた。
鏡を見る。
亜麻色の髪。薄い青の目。そばかす。素朴な顔だ。でも今日は、少しだけいい顔をしている。
前の顔を思い出そうとした。黒い髪だったことは覚えている。もう、それだけだ。それ以上は浮かんでこない。
もう浮かんでこなくていい。あの人が言っていた。「出来うる限り薄めます」と。今はもうほとんど消えた。
今感じられるのは、温かいものが好きなことと、整った部屋で朝を迎えたいということ。それだけが残った。それだけで十分だ。
窓を開けた。春の空気が入ってきた。冬の空気とは違う。柔らかくて、少しだけ甘い。庭木を数えた。十二本。全部の枝に新芽がついている。小さくて硬い芽が、光のほうを向いている。ケスラー様の花瓶の花みたいに。
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食堂に行った。
温かい汁物があった。春の野菜が入っている。若い菜っ葉がたくさんで、これはこれでとても美味しいと思った。ブルーノさんが大きな鍋を持って食堂を回っている。
「食え」
「食べます。おいしいです」
「当たり前だ」
マルタさんが隣に座った。
「ミーナちゃん、今日もリボン似合ってるね」
「ありがとうございます」
「書庫のほう、最近どう?」
「整ってます」
「あんたがいるからね」
おかわりをした。二杯目を飲んでいたら、ニクラスさんが向かいに座った。帳面を持っている。どこにでも帳面を持ち歩く人だ。
「おはようございます、ニクラスさん」
「……おはよう」
短い挨拶。でも毎朝言ってくれるようになった。最初の頃は挨拶もなく正面に向かっていた。少しだけ変わった。
ヴォルフさんが食堂に入ってきた。朝食とパンをトレーに載せている。わたしの向かい、ニクラスさんの隣に座った。双子が並ぶと、やはり瓜二つだ。でも見分けはつく。
「おはようございます」
挨拶すると、ヴォルフさんが無言で頷いて、パンを齧った。
こういう振る舞いが、ヴォルフさんだなと思える。
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書庫に行った。
帳簿の確認。一段ずつ。角を指で触る。ずれはない。配置図と一致している。
ニクラスさんが隣の机で帳面を書いている。ペンが紙の上を走る音が聞こえる。静かで、規則的な音。この音を聞きながら棚を確認するのが、わたしの朝だ。
確認が終わった。ずれはなかった。
「ニクラスさん。今日もずれなしです」
「……そうか」
昼前に、リーゼ様が書庫に来た。フリーダが一緒だ。
「ミーナ、今日お茶しよう!」
廊下を走ってきたらしい。息が切れている。フリーダが後ろから「リーゼ様、廊下で走らないでください」と追いかけてきた。毎回同じことを言っている。毎回聞いていない。
「午後でいいですか。今、帳簿の新規配架が」
「午後ね。約束だよ」
「約束です」
リーゼ様が笑って、走って帰っていった。フリーダが「すみません」と言って追いかけていった。
ニクラスさんが帳面から目を上げた。
「……賑やかだな」
「いつものことです」
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午後。テルナー様の執務室に書類を届けに行った。
テルナー様の机は片付いていた。五段の棚に書類が分類されている。革紐で括られた束の角が揃っている。あの日わたしが持っていった革紐。まだ使ってくれている。
「テルナー様。新規の帳簿を配架しました」
「ご苦労。最近、新しい内務官の候補が見つかったらしい。城主が面談するそうだ」
「そうですか」
「ケスラーほど几帳面な人間ではないかもしれないが、まともな人間だそうだ」
「十分だと思います」
「お前が内務官の執務室も整えてくれているからな。誰が来ても、最初から使いやすい状態で始められる」
それは嬉しい。仕組みを作れば、人が変わっても続く。カティさんの作業部屋と同じだ。
執務室を出ようとしたら、テルナー様が声をかけた。
「ミーナ殿」
「はい」
「カティ殿から手紙が来ている。新しい依頼だそうだ。春物の衣替えで裏の作業部屋をもう一度見てほしいとのこと」
カティさんから依頼。春物の衣替え。裏の作業部屋。あの仕立屋で初めて片付けをした場所だ。
「行ってもいいですか」
「もちろんだ。ヴォルフに——」
「送ってもらいます。きっと、通り道ですから」
テルナー様が少しだけ口元を緩めた。
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控室に戻った。上着を整えた。髪を確認した。リボンが少し緩んでいたので結び直した。
鏡を見た。亜麻色の髪。薄い青のリボン。薄い青の目。そばかす。
この顔が、わたしの顔だ。前の顔はもう思い出せない。思い出せなくていい。この顔で、この場所で、生きていく。
窓を開けた。春の空気。城の向こうに城下町が見える。カティさんの仕立屋がある通り。青果屋のおばさんがいる市場。パン屋の煙突。交易路を馬車が行く。
わたしの特技ですか? 整理整頓です。
棚を拭いて、角を揃えて、ものを正しい場所に戻す。それだけのこと。
でも、それだけのことが、誰かの助けになることがある。誰かの声を拾うことがある。誰かの場所を守ることがある。
わたしは今、整った部屋で朝を迎えている。温かい汁物がある。友達がいる。帰る場所がある。待っていてくれる人がいる。
それだけで、十分な幸福だ。




