第二十八話 城主の帰還と、その娘
朝食のスープがいつもよりおいしかった。
ブルーノさんが気合いを入れたのだろう。かぶと鶏肉と豆の煮込みに、香草が二種類入っていた。いつもは一種類だ。
「今日は特別メニューか」
ヴォルフさんが隣で聞いてきた。頬の擦り傷に薬を塗った跡がある。いつもならほっとくのに、と言いながらも手当てを受けたらしい。
「特別だ。昨晩、城を守った朝だ。うまいもの食わなくてどうする」
ブルーノさんが大きな声で言った。食堂のみんなが少し笑った。昨夜のことを全員が知っているわけではないだろうが、何かがあったことは察している。でも朝が来て、スープが温かくて、ブルーノさんがいつも通りで。それだけで空気が柔らかくなった。
マルタさんがわたしの隣に座った。
「ミーナちゃん、顔色いいね。昨日より」
「スープのおかげです」
「ブルーノに言ったら泣いて喜ぶよ」
「泣きはしないと思います」
おかわりをした。二杯目も温かかった。
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早朝。城門の前に馬車が止まった。
わたしは廊下の窓から見ていた。馬車から降りたのはハインリヒ伯だった。旅装のまま。いつもの穏やかな顔ではなく、疲れた顔をしていた。何日も馬車に揺られて、迂回路を走ったのだ。
テルナー様が城門の前で迎えた。二人が短い言葉を交わしているのが見えた。声は聞こえない。でも、テルナー様が頭を下げたのが見えた。深く。城主が、テルナー様の肩に手を置いたのが見えた。
それだけで十分だった。
城主が帰ってきた。城は整っている。門は持ちこたえた。
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午前中、テルナー様が城主に全てを報告した。わたしは呼ばれなかった。黒板の図はそのまま残してあるから、テルナー様がそれを見せて説明しているのだろう。
わたしは書庫の確認をしていた。いつも通りに。帳簿の角を指で触る。ずれはない。
ニクラスさんが隣の机にいた。今日は帳面を書く手が止まらない。いつものペースだ。穏やかな、紙をめくる音が聞こえる。
「ニクラスさん」
「ああ」
「今日はペンが止まりませんね」
「……そうか」
「昨日はよく止まっていました」
「気づいていたか」
「気づかないほうが難しいです」
ニクラスさんが少しだけ口元を動かした。笑ったのかもしれない。
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昼前。広間に領民が集まった。年始の挨拶。
わたしは広間には入らなかった。廊下の端から、開いた扉越しに見ていた。隣にフリーダがいた。フリーダも中には入らず、外から見守っている。
「緊張してるかな、リーゼ様」
「してるでしょうね」
「でもミーナさんが練習してくれたから。大丈夫」
「わたしは原稿を整理しただけです」
「出た、その台詞」
広間の奥に、高い台がある。そこにリーゼ様が立った。年始の正装。フリーダが仕立てた衣裳だ。髪を編み込みにしている。いつもの明るい顔ではなく、少し硬い顔。でも背筋が伸びている。
その後ろに、ハインリヒ伯が立っていた。旅装から着替えて、城主の正装。疲れた顔はもう消えている。穏やかな目で娘の背中を見ている。
広間が静まった。領民が顔を上げている。何百人もの目がリーゼ様を見ている。
リーゼ様が口を開いた。
最初の一文が、大きく出た。
わたしが教えた通りだ。最初の一冊をまっすぐ置けば、あとは隣に合わせるだけ。リーゼ様の声が広間に響いた。震えていない。いや、少しだけ震えている。でも届いている。後ろの人にも届いている。
挨拶の内容は、難しいことではなかった。新しい年の始まり。領民への感謝。城主の帰還。これからもこの城はこの街と共にある。そういう言葉を、リーゼ様は自分の声で言った。原稿にはない言葉も混じっていた。練習のときに出てきた、リーゼ様自身の気持ち。
「この城は、たくさんの人の手で守られています。わたしも、その手の一つでありたいと思います」
原稿にはなかった。リーゼ様が、自分で付け足した言葉だ。
広間から拍手が起きた。大きな拍手だった。長く続いた。領民の顔が見える。笑っている人がいる。頷いている人がいる。安心した顔がある。城主の娘が立っている。城は大丈夫だ。そう思ってくれているのだとわかった。
廊下で見ていたフリーダが、隣で泣いていた。声を出さずに。わたしも少しだけ目が熱くなった。
ハインリヒ伯が、後ろで静かに頷いていたのが見えた。父親の顔だった。一歩も前に出なかった。娘の場所を奪わなかった。
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挨拶が終わったあと、リーゼ様が廊下に飛び出してきた。
「ミーナ! できた! できたよ!」
「できましたね」
「声、出てた? 後ろまで届いてた?」
「届いていました。最初の一文が特によかったです」
「ミーナのおかげ!」
「わたしは原稿を整理しただけです」
「だからそれがすごいって言ってるの!」
リーゼ様がわたしの手を握った。力が強い。初めて会ったときと同じだ。手のひらが少し汗ばんでいた。緊張していたのだ。やっぱり。でもやり遂げた。
フリーダが後ろから追いついてきた。目が赤い。
「リーゼ様、素晴らしかったです。衣裳も完璧でした」
「フリーダも泣いてるし」
「泣いてません。目にゴミが入っただけです」
三人で笑った。廊下で。城主の挨拶が終わったあとの広間から、まだ拍手の余韻が聞こえている。
ブレンナー軍務官が廊下を通りかかった。わたしを見て、足を止めた。
「ミーナ殿」
「はい」
「昨夜、西棟の窓から侵入しようとした者がいた。お前が指摘した場所だ。衛兵を配置していなければ突破されていた」
「棚の裏の隙間を確認しただけです」
「同じことだ。——ありがとう」
ブレンナー様が頭を下げた。大きな体が少しぎこちなく傾いた。この人が頭を下げるのを見るのは初めてだ。武器庫のときは疑ってきた人だ。それが今、礼を言っている。
「どういたしまして」
ブレンナー様が少し驚いた顔をして、それから「そうか」と言って歩いていった。
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午後。城主がわたしを呼んだ。
書斎に入った。前回と同じ部屋。ハインリヒ伯が座っていて、テルナー様が隣にいた。
「ミーナ。テルナーから全て聞いた」
「はい」
「帳簿の整理から始まって、武器庫の数字、資金の図、使用人の動線、城の弱点の指摘。お前がやったことの全てが、この城を守った」
「角を揃えただけです」
「そうだな。角を揃えただけだ。だが、お前が揃えた角のおかげで、わたしは帰ってくる城があった」
ハインリヒ伯の声が少しだけ震えた。城主の声が震えるのを初めて聞いた。すぐに戻った。
「ブレンナーが言っていた。城の弱点を三箇所指摘されたそうだな。大掃除で得た知識だと」
「棚の裏の隙間を確認しただけです」
「テルナーも同じことを言う。『あの子は角を揃えただけだと言うだろう』と。お前たちは示し合わせているのか」
「示し合わせてはいません」
「だろうな。だがお前の角揃えは、この城の百年の歴史で一番役に立った角の揃え方だ」
ハインリヒ伯がお茶を注いでくれた。前回と同じ、花の香りがするお茶。城主が自分で淹れるお茶。
「それと、リーゼの挨拶は見事だった。あれはお前が手伝ったのだろう」
「原稿を整理しただけです」
「……本当にその台詞しか言わないな。だが、リーゼの声は自分のものだった。お前が整理して、あの子が自分で立った。それでいい」
「ありがとうございます」
「こちらこそ。ありがとう」
「……どういたしまして」
自然に出た。もう迷わない。
本棚を見た。右から三列目の四段目。前回横向きだった本が、きちんと立っていた。誰かが直したのだ。城主自身が、帰ってきてすぐに直したのかもしれない。
この城は整っている。みんなが整えている。わたしだけではない。




