第二十七話 長い夜と、最後の角
あくる日。
夕方になってようやく、テルナー様に呼ばれた。執務室にブレンナー軍務官がいた。机の上にレンカ城の見取り図が広げてある。わたしが大掃除のときに描いたものだ。
「ミーナ殿。城の構造を一番よく知っているのはお前だ。少し見てくれ」
ブレンナー様が見取り図を指さした。
城門、正門、裏門、地下入口。そこに衛兵の配置が赤い印で書き込まれている。
「門に兵を集中させる。門さえ開かれなければ、外からは入れない」
見取り図を見た。門は固められている。でも、わたしの目が一箇所で止まった。
「ブレンナー様。西棟の二階に、物置から屋根に出られる窓があります」
「なに?」
「大掃除のときに確認しました。物置の奥に小さな窓があって、そこから屋根伝いに城壁の上に出られます。物置は普段施錠されていませんでした」
ブレンナー様がわたしを見た。それからテルナー様を見た。
「……知らなかった。施錠させる。衛兵も一人つける」
「あと、地下の通路です。武器庫のさらに奥に、使われていない排水溝があります。人が一人通れるくらいの幅です。大掃除の範囲外だったので手をつけていませんが、もし城の外に繋がっていたら」
「排水溝か。確認する。他にあるか」
見取り図を隅々まで見た。
廊下の幅、扉の位置、階段の数。大掃除で全ての階を歩いた記憶が、頭の中に残っている。
「厨房の搬入口が裏通りに面しています。ここは門ではないので、兵が配置されていないかもしれません」
「うむ、そこはしていない。二人付けよう」
ブレンナー様が赤い印を三つ追加した。西棟の窓、地下の排水溝、厨房の搬入口。
「大掃除の娘に戦術を教わるとはな」
「戦術ではありません。棚の裏に隙間がないか確認しただけです」
「はは、同じことだ」
ブレンナー様が少しだけ笑った。この人が笑うのは初めて見た。
なぜだか頼りにされたのだと実感して、胸の奥がどきりとした。
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それから数時間。書庫で帳簿を読んでいた。
眠れないとわかっていたから、眠ろうとしなかった。
手を動かしていたかった。帳簿を一冊ずつ手に取って、角を確認して、戻す。意味のない作業だ。でも手が動いていれば頭が少しだけ静かになる。
ニクラスさんが隣の机にいた。わたしが落ち着かないのを分かっていて、そばにいてくれる。
いつものように帳面を書いていた。でもペンが止まることが多かった。窓の外を見ている。廊下の物音に耳を傾けている。
夜が深くなっても、松明の灯りが揺れている。城の中が静かだ。いつもの静かさとは違う。息をひそめているような静かさだ。
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物音が聞こえたのは、深夜を過ぎた頃だった。
最初は遠くの金属音。剣が鳴る音だろうか。次に、怒鳴り声。城門のほうから。石壁を通して、くぐもった声が伝わってくる。
ニクラスさんが立ち上がった。
「動くな。ここにいろ」
「ニクラスさん——」
「書庫から出るな。鍵を閉めろ。誰が来ても開けるな。俺かヴォルフか、テルナー様の声以外には開けるな」
ニクラスさんが出ていった。足音が廊下を走っていく。走っている。あの無口な人が走っている。
震える手で、鍵を閉めた。
書庫の中に一人になった。
帳簿が並んでいる。角が揃っている。配置図が壁に貼ってある。
わたしが作った場所だ。わたしが整えた場所だ。大丈夫、ここには隙間はない。どこからも、何もは言って来れない。
遠くでまた音がしている。
金属音。足音。声。何が起きているのかはわからない。でも、これが来ると知っていた。
テルナー様もブレンナー様も準備していた。わたしの図をもとに。
また手が震えている。でも今回は理由がわかっている。怖いのだ。自分の身が不安なのではない。皆のことが心配なのだ。
ニクラスさんが走っていった方角。ヴォルフさんがどこかで動いているはずだ。ブレンナー様も、指揮を取っているはずだ。リーゼ様は東棟にいるはずだ。フリーダがそばにいるはずだ。
わたしにできることはない。
鍵を閉めて、ここにいること。それだけが、今わたしに求められていること。
帳簿を手に取った。角を確認した。揃っている。次の一冊。これも揃っている。次。次。次。
棚を全段確認した。三十分かかった。その間にも、遠くの音は続いていた。
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音が止んだのは、一時間ほど経ってからだった。
急に静かになった。金属音も声も消えた。足音だけが廊下を近づいてくる。
扉を叩く音がした。
「ミーナ殿。俺だ」
ニクラスさんの声だった。鍵を開けた。
ニクラスさんは無事だった。息が上がっているが、怪我はない。書記官は前線には出ないから、そうなのだろうけど。でも走り回っていたのだろう。
「城門は持ちこたえた。グライフ領の手先は捕まった」
廊下の奥からもう一人来た。
ヴォルフさんだった。頬に擦り傷がある。服の袖が破れている。剣を腰に佩いたままだ。
「ミーナ殿。無事か」
「わたしは書庫にいただけです。ヴォルフさんこそ、怪我——」
「かすり傷だ」
ヴォルフさんの声はいつも通り短い。
でも目がわたしの顔を確認するように動いた。無事を確かめている。
「ブレンナー様の指揮が的確だった」
とニクラスさんが続けた。
「門を開けようとした兵士二人を取り押さえた。外から来た連中は門の前で止まった。数が少なかった。本隊はまだ来ていなかったらしい」
「まだ来ていない?」
「先遣隊だけだった。ブレンナー様の読み通りだ。挨拶の日に合わせて作戦を立てたのだろう。こちらが先に動けた」
「……ケスラー様は」
「拘束された。抵抗しなかった」
「だから、もう終わった」
終わった。わたしはその言葉でようやく息ができるようになった。
それと同時に、ケスラー様にどうしてもお会いしなければ、と立ち上がった。
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ケスラー様との面会はすんなり実行された。ニクラスさんが一緒に来てくれた。
中央棟の一室に、ケスラー内務官がいた。
椅子に座っている。手が縛られてはいなかったが、部屋の外に衛兵が二人立っている。
ケスラー様は、わたしを見て少しだけ目を閉じ、やや間をあけてそっと開いた。
「来たか」
「はい」
「図を、描いたのだな」
「はい。全部、黒板に書きだしました」
「……そうか。見えたか」
「見えました。よくできた計画でした」
ケスラー様の口元がわずかに動いた。笑ったのかもしれない。苦い笑いだ。
「お前に褒められるとは思わなかった」
「褒めていません。角が揃っていたと言っただけです。でも、一箇所だけ揃っていませんでした」
「……ああ」
「南東の村への送金。あれは、ご家族への仕送りですか」
ケスラー様が目を伏せた。長い沈黙だった。
「……消せなかった。他の全ては計画通りに隠せた。でもあれだけは、消せなかった。消したら、何も届かなくなる」
「わざと残したのではないのですか」
「わざと、か。そうかもしれない。消せなかったのか、消さなかったのか、もうわたしにもわからない。ただ、お前のような目を持つ人間が来たとき、あれに気づいてくれるかもしれないとは思っていた」
ケスラー様がわたしを見た。隈の深い目。痩せた頬。でも、目の奥に何かが戻っていた。諦めとも安堵ともつかない何かが。
「角を揃えただけです。わたしは」
「角を揃えることが、どれだけのことか。わたしにはわかる」
「ケスラー様。あなたの部屋は、整っていました」
「……ああ。部屋だけは」
「部屋だけでも。それがあなたの声だったんだと思います。誰にも言えないことを、窓枠を拭くことで叫んでいたんだと」
ケスラー様が目を閉じた。今度は長く閉じていた。開けたとき、目が濡れていた。
「ヴォルフという兵士が、家族の救出に向かっている。テルナーが手配した」
「……そうか」
「ヴォルフさんは強い人です。大丈夫です」
「お前は、なぜそこまで、わたしに気を掛ける」
「……似ていると思ったからです。わたしは、角を揃えることしかできない人間です。あなたは角を揃えるほか、内務管として責務を果たしていました。でもわたしには、角が揃わなくなったとき手を差し伸べてくれる人がいました。あなたには、いなかった。……きっとそれだけの違いです」
ケスラー様が何も言わなかった。ただ、椅子の上で少しだけ姿勢を正した。背筋を伸ばした。几帳面な人の姿勢だ。
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部屋を出た。廊下の窓から外を見ると東の空が白み始めていた。夜が明けるのだ。
ニクラスさんが隣にいた。頬の影が松明の灯りに照らされている。
「ニクラスさん。ヴォルフさんの怪我、ちゃんと手当てを受けるよう言ってくださいね」
「あいつは放っておいても大丈夫だが……言っておく」
控室に向かって並んで歩いた。城の中がゆっくりと動き始めている。衛兵が交代している。厨房から灯りが漏れている。ブルーノさんがもう起きているのだろう。朝食の準備だ。何があっても朝は来る。朝が来れば、ブルーノさんはスープを作る。それが城の日常だ。
控室に着いた。ニクラスさんが扉を開けてくれた。
「ニクラスさん」
「ああ」
「ありがとうございました。書庫の鍵を閉めて待っていました」
「知っている。帳簿を全部確認していたろう」
「……なぜわかるんですか」
「お前がすることは、もうだいたいわかる」
ニクラスさんがふっと笑う。部屋に戻っていった。
私も控室に入った。棚を確認した。巾着とリボン。水差し。全部そのまま。
城は静かだ。嵐のあとの静かさだ。でも、壊れてはいない。門は持ちこたえた。棚は整っている。帳簿の角は揃っている。ケスラー様は生きているし、ヴォルフさんが彼のご家族を迎えに行っている。街道の封鎖を解くよう、王都にも連携と要請が行ったはず。城主が帰ってくる。もうすぐだ。
窓を開けた。空が少しずつ明るくなっていく。長い夜が終わる。
夜明けの空気を吸った。冷たいが、流れている。庭木が見える。十二本。枝の先に、何かが膨らみかけている。まだ芽とは呼べない。でも、冬の枝に春の気配がある。
長い夜だった。でも朝が来た。




