第二十六話 待つ手と、同じ理由
黒板の図を描いたことで、わたしの仕事は終わった。
テルナー様はそう言った。「あとは私たちの仕事だ」と。
ブレンナー軍務官が呼ばれた。城主へ二通目の早馬が出された。街道が封鎖されている以上、迂回路を使う。何日かかるかわからない。ヴォルフさんは朝から姿が見えないから、警備に出ているのだろう。
ニクラスさんだけがわたしのそばにいる。
わたしにできることは、もうない。それが一番つらい。
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朝、リーゼ様に会いに行った。年始の挨拶は明後日だ。
リーゼ様の部屋に着いたら、フリーダがいた。二人で挨拶の原稿を見ていた。フリーダが清書した紙を、リーゼ様が読み上げている。声が小さい。
「リーゼ様。声をもう少しだけ」
「これでも精一杯なの」
「広間は広いですから、後ろの人にも届くように。最初の一文だけ、大きく出してください。最初さえ声が出れば、あとはついてきます」
「ほんと?」
「角を揃えるのと同じです。最初の一冊をまっすぐ置けば、あとは隣に合わせるだけです」
リーゼ様が原稿を持ち直した。深呼吸した。読み上げた。さっきより少しだけ声が出た。
「いいです。その声です」
「ほんと? でも手が震えてる。見て」
リーゼ様が原稿を持つ手を見せた。紙がかすかに揺れている。
「大丈夫です。手は震えていても、声が出ていれば伝わります。領民の方々は手元なんか見ません。顔と声を見ています」
「ミーナさん、先生みたい」
フリーダが笑った。わたしは先生ではない。でも、リーゼ様の声が出たことは嬉しかった。
三回練習した。三回目が一番よかった。声に力があった。リーゼ様自身の言葉が混じり始めていた。原稿をなぞるだけでなく、自分の気持ちが乗っている。
「リーゼ様。その調子なら大丈夫です」
「ミーナがそう言うなら信じる」
ここまでは手伝える。原稿を整理して、声の出し方を一緒に練習する。
でも、明後日の広間にわたしは立てない。リーゼ様が一人で立つ。領民の前で。城主の代わりに。十六歳の娘が。
リーゼ様が本当に心配だ。でも、心配していることを言いすぎると、リーゼ様がもっと不安になる。
だから練習を手伝って、声が出たことを褒めて、お茶を飲んで帰ってきた。帰り際にフリーダが「わたしがそばにいます」と小声で言った。頼もしい。
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控室に戻った。やることがない。
テルナー様は執務室にこもっている。ブレンナー様は兵舎に行っている。ニクラスさんは書庫でいつものように帳面を書いているが、時折廊下に出て衛兵と短い言葉を交わしている。何かの連絡だ。わたしには教えてくれない。たぶん、身を案じてくれているからだ。
手が空いている。手が空いていると頭が走る。
リーゼ様のこと。明後日の挨拶。グライフ領。街道封鎖。城主。ケスラー様。地下の部屋。消えた使用人。全部が頭の中でぐるぐる回る。
棚を拭いた。朝も拭いたが、もう一度。布巾を水で絞って、一段ずつ。上から下へ。帳簿の角を指で確認する。ずれていない。当たり前だ。さっき確認した。
書庫に行った。
「ニクラスさん、書庫を掃除していいですか」
「……今か」
「手が空いていると落ち着かないので」
ニクラスさんがわたしの顔を見て、何か言いかけてやめた。帳面に目を戻した。
「好きにしたらいい。俺も、渡せる仕事は渡す」
テルナー様と同じことを言う。
この人たちは、わたしの手が止まらない理由を知っている。
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書庫を掃除した。
帳簿を全部下ろした。一段ずつ。棚板を布巾で拭いた。隅まで。埃はなかった。大掃除で全部払ったから。でも拭いた。拭いている間は、頭が静かになる。
帳簿を戻した。一冊ずつ。角を揃えて。背表紙の文字が一列に並ぶように。高さを合わせて。隙間を均等にして。
配置図と照合した。一致している。当然だ。わたしが作った配置図で、わたしが並べた棚だ。ずれているはずがない。
でも確認した。全段。全冊。指で触って、目で見て、位置を確かめた。
三時間かかった。三時間、手を動かし続けた。
終わったとき、書庫は塵ひとつなかった。棚板が光っていた。帳簿の角が完璧に揃っていた。
息をついた。手はも震えていなかった。
ニクラスさんが帳面から目を上げて、書庫を見回した。
「……きれいだな」
「きれいです」
「前よりきれいだ」
「前もきれいでした。今日はもっときれいです」
ニクラスさんが何か言いかけて、やめた。今日はよくやめる。
言いかけてやめる人だとは知っていたが、今日は特に多い。わたしのことが心配なのだろう。
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きれいに磨き上げた書庫の棚を見ていて、ふとケスラー様の執務室を思い出した。
あの部屋も、こうだった。塵ひとつなかった。棚板が光っていた。窓枠に埃がなかった。書類の角が完璧に揃っていた。花が光のほうを向いていた。
テルナー様が言っていた。「あれだけ消耗している人間の部屋が、なぜあそこまで完璧なのか」。
今ならわかる。
あの人も同じだったのだ。手が空くと頭が走る。家族のこと。グライフ領のこと。自分がしていること。自分がしなければならないこと。全部が頭の中でぐるぐる回る。止められない。だから棚を拭く。窓枠を拭く。書類の角を揃える。花の向きを直す。手を動かしている間だけ、少しだけ静かになるから。
わたしが今やったことと、ケスラー様が毎日やっていたことは、同じだ。同じ理由で。同じ手つきで。
あの人の部屋が完璧だったのは、几帳面だからではなかった。追い詰められていたからだ。整えることでしか自分を保てなかったのだ。
わたしと同じだ。
わたしも今、書庫を塵ひとつなく磨き上げることで、ようやく息ができている。頭を静かにするために手を動かしている。あの人も、そうだった。半年間、毎日。毎日窓枠を拭いて、毎日花の向きを直して、毎日書類の角を揃えて。そうしないと壊れてしまうから。
違いがあるとすれば、わたしにはそばに人がいる。ニクラスさんが隣の机にいる。テルナー様が待てと言ってくれる。フリーダが服を持ってきてくれる。リーゼ様がお茶を淹れてくれる。ブルーノさんが湯たんぽを持ってきてくれる。
ケスラー様には、誰がいたのだろう。あの完璧な執務室で、一人で窓枠を拭いていたのだろうか。花の向きを直すとき、誰かがそばにいただろうか。
目の奥が熱くなった。なんだかすごく、泣きそうになった。ケスラー様の人の部屋がきれいだったことの意味を、今やっと理解してしまった。
あの部屋は、整理整頓の成果ではなかった。孤独の形だったのだ。
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夕食の時間になった。食堂に行った。
ブルーノさんのスープをそっと飲む。温かかった。隣にマルタさんが座った。
「書庫がぴかぴかだったけど、また大掃除したの」
「少しだけ」
ニクラスさんが向かいに座った。いつもはもう少し離れた席に座るのに。今日は近い。
「明日、テルナー様から話がある。朝、執務室に来てくれ」
「わかりました」
「……今日はよく休め。明日からまた忙しくなる」
ニクラスさんの声が少しだけ、普段より柔らかかった。「忙しくなる」という言葉の裏に何があるのかは聞かなかった。
控室に戻ってから湯たんぽをブルーノさんのところに持っていって、湯を入れてもらった。
「明日も食え」
「食べます」
ブルーノさんは、何度かしっかり頷いて、背中を何度か軽くたたいて部屋へ送り出してくれた。
湯たんぽを抱えて、寝台に入る。
温かい。
明日からまた忙しくなる。手が動く。それだけでいい。
行方不明になった兵士たちや地下のあの部屋のことを遠ざけながら、目を閉じた。




