第二十二話 焦る手と、動かない体
次の朝にはずいぶん快復した。
寝台から足を下ろして立った。膝が少し震えているが、立てた。
棚に向かって歩く。三歩。巾着とリボンを確認する。水差しを元の位置に戻す。寝込んでいた時は枕元がよかったけれど、戻れたなら、わたしの水差しはここだ。壁際、机の端から五センチ。
窓を開けた。冬の空気が入ってくる。庭木を数えた。十二本。新芽はまだない。
手順はいつも通りだ。体が覚えている。でも手が震えている。まだ熱が残っているのか、それとも別の理由か。
着替えようとして、腕が上がらなかった。服を被るだけの動作が、こんなに重い。
扉を叩く音がした。
「ミーナさん、起きてる?」
フリーダだった。返事をする前に入ってきた。わたしが中途半端な姿勢で服と格闘しているのを見て、何も言わずに手伝ってくれた。
「無理しないでいいのに」
「無理じゃないです。着替えるだけです」
「着替えるだけなのに腕が上がってないでしょ」
全然反論できなかった。フリーダが袖を通すのを手伝ってくれた。衣裳係の手は慣れている。わたしが自分でやるより速い。
「書庫に行かないと。定期確認が——」
「ニクラスさんがやってくれてるよ。昨日も今朝も」
「でもわたしの目で見ないと——」
「ミーナさん」
フリーダが正面からわたしを見た。いつもの明るい目ではない。心配している目だ。
「あなたが焦ってるの、わたしでもわかる。何があったかは聞かない。でも、今のミーナさん、いつもと違う。棚を見る目じゃなくて、何かを探してる目をしてる」
何かを探してる目。そうかもしれない。何を探しているのかはわたし自身にもわからない。答え。あるいは安心。あるいは、手を動かせる場所。
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食堂に行こうとして、フリーダに止められた。
「おかゆ持ってくるから座ってて」
「自分で取りに行けます」
「ミーナさん。階段、下りられる?」
「……無理ではないですが」
控室は中央棟の一階だが、食堂は半地下だ。階段が十二段ある。今の足で下りられるか。下りられるはずだ。でもちょっと自信もない。フリーダの顔が真剣だったので、大人しく座った。
おかゆが来た。フリーダが運んでくれた。温かい。ブルーノさんのおかゆは、かぶを潰して混ぜてある。甘い。食べたけども、半分しか入らなかった。
「食堂でみんなが心配してたよ。大掃除で張り切りすぎたんだって」
そういうことになっているらしい。確かに五日間走り回っていたから、無理もない話だ。地下のことは、テルナー様かニクラスさんがそう説明してくれたのだろう。ブルーノさんが「だから言ったろう、若い娘が無理するなと」と言っていたとフリーダが教えてくれた。
「残していいよ」
「全部食べたいです」
「無理に食べなくていいの」
「無理じゃ——」
「ミーナさん。無理じゃないって言うの、今日三回目だよ」
フリーダに数えられていた。全く反論できなくて、渋々食器を渡すことにした。
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午前中にテルナー様が来た。
「起きたか。まだ寝ていろと言ったはずだが」
「休むのが一番苦手です」
「知っている。だから言っている。寝ていろ」
「テルナー様。あの、お伝えしたいことが」
「なんだ」
「大掃除の五日間、あの使用人がいませんでした。厨房担当の、左の耳に傷のある。食堂にも厨房にも廊下にも、五日間一度も見ませんでした」
テルナー様が黙った。顔が動かない。考えている顔だ。
「兵士のほうも。背が高くて中指が曲がっている人。あの人も、大掃除中に見ていません。……正確には大掃除の前から見かけていませんでしたが、配置や時間帯によって二人とも見つけられないのだと思っていました。けど、全員が揃う大掃除のタイミングでも、姿を見ませんでした」
「間違いなく、二人ともか」
「はい。それと、地下で見たあの部屋のことと、二人がいなくなったことが、頭の中で隣に並んでしまって」
テルナー様がわたしの顔を見た。
「それは、お前が考えることではない」
「わかっています。でも、並んでしまったんです。勝手に。棚の中で同じ分類のものが——」
「同じ段に収まるように。……それも、お前の口癖だな」
「……はい」
「報告は受け取った。あとは私が動く。お前は休め」
「でも——」
「ミーナ殿」
テルナー様の声が低くなった。叱る声ではない。心配している声だ。
「お前は地下であんなものを見て、丸一日以上寝込んで、今朝やっと起き上がったばかりだ。体がまだ戻っていない。顔色が悪い。手が震えている。それでも動こうとしている。お前のその性分は知っている。止まったら怖いのだろう。何もしていない時間が怖いのだろう」
息が詰まった。見透かされている。
「だが、今は止まれ。止まっても大丈夫だ。向こう見ずに動き回るのは得策ではない。お前の代わりに動ける人間がいる。私がいる。ニクラスがいる。ヴォルフがいる。お前が整理した情報は、もうこちらにある。角は揃っている。あとは私たちの仕事だ」
「……はい」
「飯を食え。寝ろ。棚を拭きたければ拭け。それ以上のことは、今はするな」
テルナー様が出ていった。
椅子に座ったまま、手を見た。震えている。握ったり開いたりした。止まらない。
止まっても大丈夫だと、テルナー様は言った。でも、何もしていない時間が怖い。手を動かしていないと、あの臭いが戻ってくる気がする。目を閉じると壁に爪の跡が見える。だから動こうとする。でも体がついてこない。体がついてこないのに頭だけが走る。
頭の中で情報が勝手に並んでいく。
使用人の顔。兵士の顔。鎖。足枷。資金の矢印の先。城主の不在。ケスラー様の隈…………。
棚を拭いた。布巾を手に取って、一段ずつ。上から下へ。拭いた。拭いても震えは止まらなかったが、拭いている間は少しだけましだった。
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午後にはリーゼ様とフリーダが来た。
「ミーナ。お茶持ってきた。飲める?」
「飲めます」
リーゼ様がお茶を淹れてくれた。この人は城主の娘なのに、いつも自分で淹れる。フリーダが菓子を出してくれた。三人で控室に座った。
「ミーナ、焦ってるでしょ」
「……わかりますか」
「わかるよ。目が泳いでる。ミーナの目がきょろきょろしてるの初めて見た。いつもは棚しか見てないのに」
リーゼ様は人の顔を見る目を持っている。わたしがものの位置を見るように、この人は人の表情を見ている。
「大掃除で張り切り過ぎたからってだけでないのは、何となく分かる。けど何も聞かないことにするわ。わたしには難しいことだと思うから。でもお茶は淹れられるから、さ」
「ありがとうございます」
「フリーダもいるし。ね?」
「はい! もちろんいます!」
フリーダが明るく言った。膝の上の布を握っている。看病のときもそうだった。この人は不安なとき、手元の布を握る。
お茶を飲んだ。温かい。焼き菓子を食べた。今度は全部食べられた。柔らかい焼き菓子は、お茶と一緒にするんと入って行った。
「リーゼ様」
「うん」
「城主様は、いつお戻りになりますか」
リーゼ様の表情が少し曇った。
「まだわからない。手紙は来てるから無事だとは思うけど、予定より遅れてて」
「……そうですか」
城主がいない。戻りが遅れている。それが何を意味するのか。わたしの頭が勝手に並べようとする。止まれ、とテルナー様は言っていたのに。
棚は拭いたし、温かいお茶も飲んだ。美味しい菓子も食べた。近くにリーゼ様とフリーダがいてくれる。
でも手はまだ震えている。もう少し、もう少しだけ時間がかかるみたいだ。
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夕方。リーゼ様とフリーダが帰ったあと、控室が静かになった。
窓の外が暗くなっていく。冬の日は短い。松明の灯りが廊下から漏れている。
棚を拭いた。今日四回目だ。同じ場所を何度拭いても、きれいさは変わらない。わかっている。でも手を止めると、頭が走り出す。あの部屋。あの臭い。あの鎖。消えた使用人の顔。城主が戻らない理由。全部が繋がろうとする。繋げてはいけない。今はテルナー様の仕事だ。わたしの仕事ではない。
でもわたしの頭はわたしの言うことを聞かない。勝手に棚を作って、勝手にものを入れて、勝手に角を揃えてしまう。
扉を叩く音がした。
「ミーナ殿」
ニクラスさんだった。
「書庫の定期確認をしておいた。配置図通りだ」
「……ありがとうございます」
「それと、これを」
湯たんぽだった。ブルーノさんの陶器の湯たんぽ。湯が入っている。
「ブルーノが、忘れるなと」
「忘れてました」
「そうだな。だから持ってきた」
ニクラスさんが湯たんぽを机に置いて、出ていった。足音が廊下に消える。隣の部屋に入る音がした。今夜もいてくれるのだろう。
湯たんぽを抱えた。温かい。体の芯にゆっくり届く。
手の震えが少しだけ収まった。完全にではない。でも、湯たんぽの温度のぶんだけ。
明日は書庫を自分で確認しよう。
自分の目で。自分の手で。角を揃えに行こう。
それだけでいい。今はそれだけでいい。




