第二十一話 白い場所と、そばにいた人たち
熱が出た。
結局眠れなかった。朝になって体が動かなかった。寝台から起き上がろうとして、腕に力が入らなかった。額が熱い。喉が渇いている。棚を確認しなければ。水差しの位置を——
扉を叩く音がした。ニクラスさんだった。返事ができないままでいると、扉が開いた。
「ミーナ殿?」
いつもならすぐに返事をして出るから、気になって開けてくれたんだと思う。声が聞こえたが、返せなかった。それ以降のことは、よく覚えていない。
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夢を見た。
暗い場所にいた。床が見えない。足元に何かがある。柔らかいもの。硬いもの。冷たいもの。気持ち悪いもの。
袋。箱。布。全部が積み上がっている。歩けない。進めない。這って進まないとならない。壁が近い。天井が近い。空気が重い。
臭い。あの臭い。甘ったるくて、酸っぱくて、喉に張りつく臭い。
ここはわたしの場所だった。前にいた場所。わたしが住んでいた場所。貧しくて、どうにもならなくて、不安で、溜め込んで、誰もいなくて。
出たい。出られない。窓がどこにあるかわからない。扉がどこにあるかわからない。ものが多すぎて、何がどこにあるかわからない。息ができない。
座り込んだ。床の上の何かの上に。もう立てなかった。立つ場所がなかった。
冷たかった。たしか冬だった。布団がどこにあるかわからなかった。ここにあるはずなのに、ものの下に埋まっていて。手が冷たい。足が冷たい。全部が冷たい。なのに頭だけは茹るように熱かった。
目を閉じた。
次に目を開けたとき、白い場所にいた。
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真っ白だった。床も壁も天井もない。ただ白い。あの臭いがない。空気がきれいだった。
目の前に誰かが立っている。顔が見えない。輪郭はあるが、目も鼻も口もない、光のような人だった。
「おや。来てしまいましたか」
声だけがはっきりしていた。穏やかな声だ。男とも女ともつかない。
「ここは」
「あちらとこちらの間です。あなたは今、あちらを終えたところです」
ああ、死んだのだ。あの場所で。あの臭いの中で。積み上がったものの上で、冷たいまま。とうとう一人で、何もなく終わってしまった。
「悲しいですか」
「……わかりません」
「では、次に行きましょうか。転生特典をひとつ選んでください」
光る文字が宙に浮かんだ。リストが長い。剣聖の才、魔導の極致、不老不死、万能鑑定。どれも派手で強そうだった。けれど、どれにも興味が湧かなくて目が滑る。
「……お片付けに関するものは、ありますか」
沈黙があった。
「……お片付け術(極)、というものが一応ありますが」
「それでお願いします」
「……本当に? 他にも色々ありますよ。剣で戦ったり、魔法を使ったり。そうそう動物を使役したりとか」
「いえ、それで。あの場所みたいなところで死ぬのはもう嫌なので。次は、整った部屋で朝を迎えたいんです」
光の人が黙った。長い沈黙だった。何かを考えているのか、何かを感じているのか。
「わかりました。お片付け術(極)をお渡しします」
「あと、もうひとつだけ」
「なんですか」
「現世の記憶を、あまり持ち越したくないんです。それもできますか」
「……なぜ?」
「覚えていたくないんです。あの場所のことも、あの臭いのことも、何もできなかった自分のことも。全部忘れて、新しい場所で、きれいな部屋で、やり直したい」
光の人がまた黙った。今度の沈黙はもっと長かった。
「出来うる限り薄めてみます。名前も、場所も、人間関係も、薄くします。ただ——」
「ただ?」
「魂に刻まれてしまった傷は、薄めることができません。記憶は消せても、傷は残ります。それは、次の世界で癒すしかない」
「傷、ですか」
「あなたが怖いと思うもの。苦しいと思うもの。体が覚えてしまったもの。それは記憶ではなく、あなた自身の一部になっています。わたしにはそこまで手を入れられません」
「……わかりました」
「次の世界で、少しずつ。整えていってください。部屋だけでなく、あなた自身も」
白い場所が遠くなっていった。光の人の輪郭がぼやけていく。声だけが最後に聞こえた。
「いい朝を迎えられますように」
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目が覚めた。
天井が見える。石の天井。城の控室の天井だ。白い場所ではない。ここはわたしの部屋だ。
体が重い。熱はまだあるが、起き上がれない程ではなさそうだった。汗をかいている。服が替わっていた。誰かが着替えさせてくれたらしい。枕元に水差しがある。位置がいつもと違う。寝たまま手が届く場所に置いてある。
横を見た。椅子にフリーダが座っていた。膝の上に布を抱えて、眠っている。首が傾いている。長い時間そうしていたのだろう。
起き上がろうとしたら、反対側から声がした。
「まだ動くな」
ヴォルフさんだった。扉の横に立っている。腕を組んでいたのを解いて、わたしの額に手の甲を当てた。大きくて冷たい手だ。
「熱がある。もうしばらく寝てろ」
「……どのくらい寝ていましたか」
「丸一日と半日」
丸一日と半日。棚を確認していない。水差しの位置を——いや、位置が変わっている。誰かが意図的に動かした。寝ているわたしが飲みやすいように。
「棚はニクラスが確認した。水差しは俺が位置を直した。だから動くな」
棚を、確認してくれた。水差しの位置を、直してくれた。わたしの代わりに。
「テルナー様には」
「報告済みだ。地下の件も。お前は寝てろ」
フリーダの体ががくんと揺れて、目を覚ました。
「あ、ミーナさん! 起きた!」
「すみません、心配を」
「心配に決まってるでしょう。ニクラスさんが血相変えて駆け込んできたときは何事かと」
あのニクラスさんが。
「俺も騒ぎを聞きつけて来てみたら、ミーナ殿は顔が真っ白で、汗だくで」
「リーゼ様が医者を呼んでくれたんですよ。熱があるだけで命に別状はないって言われて、みんな少し落ち着いて。ブルーノさんがおかゆを作って持ってきてくれて、マルタさんが替えのシーツと着替えを持ってきてくれて。着替えはわたしとマルタさんで。あ、男の人たちはちゃんと外に出しましたから」
みんなが来てくれた。わたしが寝ている間に。入れ替わりで。わたしが棚を確認できない間、わたしの代わりに、わたしと部屋を整えてくれた。
「テルナー様も来てくれたんですよ。少しだけ。あ、そうだ。おかゆ、食べられそう?」
「……食べたいです」
「よかった。持ってくる」
フリーダが出ていって、ヴォルフさんが椅子に座った。大きな体が小さな椅子に収まっている。
しばらく黙っていた。
「ヴォルフさん」
「なんだ」
「夢を見ました」
「どんなだ?」
「前にいた場所の夢です。最後の日の……。それと、そのあとの……なにもない、ところ」
ヴォルフさんは何も聞かなかった。ニクラスさんと同じだ。この人も、待ってくれる人だ。
だから安心して、話すことができる。気になることを尋ねることができる。
「わたしは、整った部屋で朝を迎えたかったのです。それだけが望みでした」
「そうか」
「今、この部屋は整っていますか」
「整っているとも。皆が確認して、整え直した。それにリーゼ殿が花を一輪置いていった。そこの窓際に」
窓際を見た。小さな花瓶に白い花が一輪。知らない花だった。整うだけとは違う、美しいと思える変化。
「……ありがとうございます」
夢の中の光の人が言っていた。
『次の世界で、少しずつ。整えていってください。部屋だけでなく、あなた自身も』
部屋は整っている。みんなが整えてくれた。わたし自身は、まだ途中だ。
でも、たった一人で整える必要はないのかもしれない。
フリーダが運んでくれたおかゆは、すこししょっぱくて温かかった。




