第二十話 地下の異臭と、動かない手
大掃除が終わった翌日。
城は見違えるほどきれいになった。廊下の隅まで埃がない。棚の角が揃っている。窓がぴかぴかしている。マルタさんが「今年は城中がミーナちゃんの基準になった」と笑っていた。わたしの基準が特別だとは思わないが、みんなが気持ちよさそうにしているのを見ると、やってよかったと思う。
ただ、一箇所だけ心残りがあった。
地下の奥のほう。手順書では「季節装飾品の倉庫」までを対象にしたが、その先にまだ通路が続いている。部屋がいくつかあるはずだ。大掃除では時間が足りなくて手をつけられなかった。
気になる。片付けなかった場所がある、というのは靴の中に小石が入っているような感覚だ。歩けるけれど、ずっとそこにある。
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朝食のあと、ニクラスさんに声をかけた。
「地下の奥に、大掃除で手をつけなかった倉庫がいくつかあります。確認だけしたいのですが、一緒に来てもらえますか」
「……地下か」
「松明が要りますが、片付けはせずに見て回るだけです。半日もかからないと思います」
ニクラスさんが少し間を置いた。考えている顔だ。それからひとつ頷いた。
「行こう」
松明を二本持って、地下に降りた。大掃除で掃いた通路はきれいだ。季節装飾品の倉庫まではわたしの配置図が貼ってある。その先。
通路が暗くなった。松明の灯りが壁に揺れる。石壁が湿っている。空気が冷たい。ここから先は、大掃除の範囲外だ。
倉庫が三つ並んでいた。扉はどれも閉まっている。一つ目を開けた。空だった。棚もない。壁と床だけ。埃が厚く積もっている。長い間誰も入っていない。
二つ目。古い家具が積まれていた。壊れた椅子、脚が折れた机、割れた鏡。使えなくなったものが放り込まれている。分類されていない。ただ捨てられている。いつか片付けたい。今日ではないが。
三つ目。扉の前で、足が止まった。
ひどい臭いがした。
扉の隙間から漏れてくる臭い。腐ったもの。食べ物が腐った臭い。そして、もうひとつ。古い布が湿って、乾いて、また湿って、を繰り返した臭い。閉め切った空間に、ものと人の気配が混ざり合って腐っていく臭い。甘ったるくて、酸っぱくて、喉の奥に張りつく。
知っている。
この臭いを知っている。体の底のほうが、ぞわりと震えた。
ニクラスさんと無言のまま目が合う。ニクラスさんも臭いに気づいている。眉をひそめている。
ニクラスさんが何か言いかけた。でも扉に手をかけたわたしのほうが先だった。重い。錆びた蝶番が軋んだ。
開けた瞬間から臭気が壁のようにぶつかってくる。胃が縮まった。口の中に酸っぱいものがせり上がる。
松明の灯りが部屋の中を照らした。
狭い部屋だった。三畳もない。窓はない。換気口もない。壁に——爪の跡があった。石壁を、扉を引っ掻いた跡。何度も何度も同じ場所を。爪が割れるまで。
床に毛布が丸まっていた。汚れきっている。元の色がわからない。隣に木の椀と木の匙。椀の中に何かが乾いてこびりついている。
壁際に、足枷が落ちていた。鉄の輪と、壁に打たれた鎖の残り。鎖は途中で切れている。
部屋の隅に、腐った食べ物が放置されていた。パンの残骸。黒く変色した果物だったもの。水の入っていた瓶が横倒しになっている。虫がいた。
誰かがここにいた。閉じ込められていた。足枷をつけられて、この窓のない部屋に。爪で壁を引っ掻いて、出ようとした。出られなかった。
——開けるべきではなかった!
膝が折れた。松明を取り落とした。石の床に金属の音が響く。
あの紙切れの言葉が頭をよぎった。『余計なものを見る目は、閉じておいたほうがいい』。見てしまった。また見てしまった。これに気づいたことで、もっと危ないことが起きるのではないか。わたしだけではなく、わたしの周りの人に。
臭いが喉まで入ってきた。吐き気が本格的にせり上がる。手で口を押さえずにいられない。
恐怖と吐き気と、臭いの記憶が全部同時に来た。
心臓が跳ねた。一回。二回。三回目から数えられなくなった。速すぎる。胸の中で暴れている。息ができない。吸おうとしても浅いところで止まる。背中から冷たい汗が噴き出した。服の内側を汗が伝っていく。
息が吸えないのは悲鳴のせいだった。自分の口から出ていると気づくのにしばらくかかった。短い、引きちぎられたような声だった。
這いつくばったまま、目の前がぐらぐらしている。部屋の中を見ている。見ているのに、目に映るものが変わっていく。爪の跡が、積み上がったものに変わる。毛布が、袋の山に変わる。足枷が、床の上の全部に変わる。全部が散らかっている。出られない。窓が開かない。床が見えない。埃っぽくて、ベタベタとしていて、臭い。臭い。息が——!
「ミーナ殿!」
声がした。大きい声。ニクラスさんの声がこんなに大きいのを初めて聞いた。
ニクラスさんが床の松明を拾い上げた。それからわたしの肩に手を置いた。掴んではいない。でもしっかりしている。震えている体を支えるように。
「出ろ、今すぐ!」
短い声。でも強い。ニクラスさんが声を荒げるのを初めて聞いた。
「立てるか」
立てなかった。膝に力が入らない。ニクラスさんがわたしの腕を取って、ゆっくり引き上げた。足が震えている。半ば抱えられる形で部屋から出た。ニクラスさんが大急ぎで扉を閉める。
通路を引っ張られるように歩いていく。ニクラスさんがわたしの腕を離さない。倉庫の前を通り過ぎ、角を曲がり、臭いが薄まるところまで。
階段の手前でようやく立ち止まった。ここまで来ると、上から降りてくる空気が流れている。冷たいけれど、流れている。
「息をしろ。吸って。吐いて」
言われた通りにした。流れている空気を吸った。浅い。吐いた。また吸った。今度は少しだけ深く入った。きれいな空気だ。あの臭いはもう届かない。
「もう一回。ゆっくり」
もう一回吸った。ニクラスさんの手が肩にある。その重さだけが、今わたしをここに繋ぎとめている。流れている空気を吸えるだけで、涙が出そうになった。
壁に背をつけて、ずるずると座り込んだ。膝を抱えると自分の形がよくわかる気がして、ぎゅうぎゅうと締めた。手がまだ震えている。額に冷たい汗が張りついている。心臓がまだ速い。服の背中が汗で濡れている。
階上へ上がれる状態ではなかった。この顔で食堂の前を通れない。誰かに見られたくない。
「……すみません。すみません」
「謝るな」
「体が、勝手に。止められなくて」
「わかっている。無理もない」
ニクラスさんが隣に座った。松明を壁の受けに立てた。二人分の影が通路に伸びている。
二人ともしばらく何も言わなかった。地下は静かだった。松明の炎が揺れる音と、わたしの荒い呼吸だけが聞こえる。
少しずつ、心臓が落ち着いてくる。吐き気も引いていく。背中の汗が冷えて寒い。でも寒いということは、体が戻ってきているということだ。
石壁の感触が背中から伝わってくる。この冷たさは、閉じ込められた冷たさとは違う。通路の冷たさだ。出口がある冷たさだ。階段を上がれば食堂がある。マルタさんがいる。ブルーノさんがいる。温かい汁物がある。
少しずつ、自分がどこにいるのかが戻ってきた。
「ニクラスさん」
「ああ」
「あの部屋に、誰かがいたんですよね」
「ああ」
「閉じ込められていました。足枷がありました。爪で壁を引っ掻いた跡がありました」
「……ああ」
「わたしは、あの臭いを知っています。なぜ知っているのかはわかりません。でも、体が覚えています。頭ではなく体が。ずっと前に見たものが、目の前に現れたような……そういうものを見ました」
ニクラスさんが黙っている。何も聞かない。なぜ知っているのかを問わない。ただ隣にいる。この人はそういう人だ。書庫でも黒板の前でも、必要なことだけをして、余計なことを聞かない。今もそうだ。
「テルナー様に報告しましょう」
「俺から報告する。すぐに休め」
「あの部屋は、あのままにしておくのですか」
「……今は、触らずに置いておくべきだと思う。証拠となる」
証拠。そうだ。あの部屋は片付けてはいけない。散らかっているままだからこそ意味がある。散らかったままにしておくべきものが、この世にはある。
わたしには一番つらいことだ。
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控室に戻った。ニクラスさんが扉の前まで送ってくれた。
「何か要るか」
「……温かいものが飲みたいです」
「持ってくる」
ニクラスさんが去って、戻ってきたのは十分後だった。温かいお茶と、ブルーノさんの焼き菓子が一つ。
「ブルーノが、食え、と」
「ブルーノさんには何と説明したんですか」
「体調が悪いと言った」
「嘘では」
「嘘ではない」
確かに。体調が悪い。手はまだ少し震えている。お茶を持つと、水面が揺れるのでわかる。
お茶を飲んだ。温かい。体の芯に届く。焼き菓子を食べた。甘い。甘いものは、匂いを上書きしてくれる。
棚を見た。巾着とリボンが並んでいる。水差しの位置は朝のまま。ここは整っている。ここはわたしの場所だ。
毛布を引き上げて、目を閉じた。まぶたの裏にまだ爪の跡が見える。でも、匂いは薄れてきた。お茶と焼き菓子の甘さが、少しだけ上書きしてくれている。
眠りかけたとき、ふと思い出した。
大掃除の五日間。食堂で、厨房で、廊下で、城中の人と顔を合わせた。マルタさん、ブルーノさん、フリーダ、リーゼ様。顔と名前が一致する人が増えた。
でも、……一人だけ見かけなかった。
あの使用人だ。テルナー様に報告した、厨房担当の若い男。髪が短くて、左の耳に小さな傷がある。
大掃除の五日間、食堂にも厨房にも廊下にも、あの顔がなかった。
あの部屋は、檻だった。出ることもできず、助けも望めず、爪で壁を引っ掻くしかなかった。
その人は今どこにいるのだろう。鎖は途中で切れていた。逃げたのか、移されたのか、それとも……。
——わたしは今、整った部屋にいる。お茶がある。焼き菓子がある。扉の向こうにニクラスさんがいる。
前にいた場所で、わたしはあの場の中にいた。出られなかった。誰も来なかった。最後はあの悪臭の中でこと切れたのだ。だから、もしその人が、あの場で最悪の結果を迎えていたのだとしたら……どれほどに無念なことだっただろう。
今は出られる。扉は開く。温かいものがある。
それだけのことが、今日はいつもより重い。重いけれど、重さの意味がわかる。これは、持っているものの重さだ。失くしたものの重さではない。
あの部屋の足枷。途中で切れた鎖。腐った食べ物。誰かがいた痕跡。
いなくなった人間と、誰かがいた部屋。
繋がるかどうかはわからない。繋がってほしくない。でもわたしの頭の中で、二つの情報が勝手に隣り合わせに並んだ。棚の中で、同じ分類のものが同じ段に収まるように。
わたしはほとんど、気絶するように意識を手放した。




