第十五話 鉢植えの下の紙
朝、テルナー財務官の執務室を訪ねた。
扉を叩く手が少し震えた。数字の報告なら慣れた。帳簿の一覧表なら紙に書いて渡せる。でも今日持っていくのは紙に書けないものだ。
「テルナー様。少しお時間をいただけますか」
「なんだ」
「食堂で気になることがあって、ずっと言えなかったのですが」
テルナー財務官が書き物の手を止めた。椅子をこちらに向けた。聞く姿勢だ。
「厨房の若い使用人と、兵士の一人が、食堂で目配せを交わしているのを見ました。一度ではなく、何度かです」
「目配せ」
「はい。それと、廊下ですれ違ったとき、使用人が兵士に紙片のようなものを渡していました。すれ違いざまに、立ち止まらずに。食堂では目を合わせるのに、廊下では合わせません。場所によって振る舞いを変えています」
テルナー財務官が黙っている。
「あと、動線がおかしいんです。あの使用人は厨房の担当で、兵士のテーブルの側を通る用事がないはずです。なのに、わざわざ兵士の列の端を通って出ていきます。毎回です」
「毎回か」
「はい。ただ……数字ではないので、確信がありません。ただ、ずれている感じがするんです。全体のなかで、あの二人だけ別の法則で動いている気がして」
テルナー財務官が指で顎を撫でた。考えている顔だ。
「いつから気づいていた」
「城に住み始めてすぐです。報告すべきかずっと迷っていました。数字にできないことを報告していいのかわからなくて」
「昨日、些細なことでもいいと言われたから、話してくれたということか」
「はい」
テルナー財務官が立ち上がって、窓のほうに歩いた。外を見ている。しばらく黙っていた。考えているのだろう。この人が黙るときは、頭の中で何かを組み立てている。
「食堂で目配せをしていたのは、いつ頃の話だ」
「最初に気づいたのは、城に住み始めて三日目くらいです。それから気になって見ていたら、二日に一度くらいの頻度で」
「二日に一度。規則的か」
「はっきりとは。ただ、曜日で区切っている感じではなくて、どちらか一方が食堂にいるときに、もう一方が来る。逆はないんです。合わせているように見えます」
テルナー財務官が振り返った。目が鋭い。
「それは、連絡を取る側と受ける側が決まっているということだ」
「そう……なんですか?」
「上下関係があるということだ。対等な仲間ではない」
わたしにはその発想がなかった。目配せの方向まで見ていたが、それが意味することには気づいていなかった。テルナー財務官は、わたしの観察を別の角度から読んでいる。
「ミーナ殿。よく話してくれた」
「ただの感覚です。間違いかもしれません」
「感覚でいい。お前の感覚は、これまで一度も外れていない」
いつもの落ち着いた顔に戻っていた。
「使用人の名前はわかるか」
「名前は知りません。若い男で、髪が短くて、左の耳に小さな傷があります」
「兵士のほうは」
「背が高くて、右手の中指が少し曲がっています。おそらく昔の骨折です」
テルナー財務官が少しだけ目を見開いた。
「……名前を知らなくても、身体的特徴をそこまで覚えているのか」
「目に入ったものは覚えています。覚えようと思ったわけではないんですが」
「恐ろしい子だ」
「また言われてしまいました……」
「また褒めている。――この件は私が調べる。お前はこれまで通りに過ごしてくれ。何も変えるな」
「はい」
「それと、今日は帰宅日だったな。ヴォルフに送らせる。気をつけていけ」
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午後。ヴォルフさんと馬車に乗って城下町に向かった。
秋が深まっていて、通りの木々が色づいている。カティさんの仕立屋の前に新しい看板が出ていた。冬物の受付を始めたらしい。
仕立屋の角を曲がって、自分の部屋がある建物に近づいた。二階の窓は閉まっている。前回帰ったときと同じだ。
玄関脇の鉢植えに目がいった。
位置は合っている。壁から十二センチ。扉の端から八センチ。ずれていない。
でも、何かが違う。
鉢植えの底。陶器と地面の間に、白い切れ端が覗いている。紙だ。鉢植えの下に紙が差し込まれている。
前回はなかった。前回、ヴォルフさんと一緒に確認したとき、鉢植えの下には何もなかった。
「ヴォルフさん」
「どうした」
「鉢植えの下に紙があります」
ヴォルフさんの目が変わった。祭りの夜と同じ目だ。わたしの前に出て、周囲を見回してから、鉢植えをそっと持ち上げた。
紙片が一枚。折り畳まれている。
ヴォルフさんが開いた。わたしの横に立って、二人で読んだ。
短い文だった。
『角を揃えるのは得意なようだが、次は鉢植えでは済まない。余計なものを見る目は、閉じておいたほうがいい』
指先が氷漬けになったみたいに、冷たくなった。
鉢植えは動いていない。位置は完璧だった。前回ずれていたのとは違う。今回は、わざとぴったりの位置に戻してある。壁から十二センチ。扉の端から八センチ。正確に。
わたしが必ず鉢植えの位置を確認することを知っている。位置が合っているから安心する。安心したところで、ふと違和感を覚える。鉢植えの下に白い切れ端が見える。見つける。読む。
わたしの習慣を知っている人間がやったことだ。しかも、わたしの特技を知っている。「角を揃えるのは得意なようだが」。これはわたし自身がいつも言っている言葉だ。誰かがわたしの話を聞いている。あるいは、わたしの話を聞いた誰かから伝わっている。
「ミーナ殿。家には入らないでくれ」
「……はい」
「この紙は持ち帰る。テルナー様にも、報告する。安心してくれ」
ヴォルフさんが紙片を畳んで、懐に入れた。鉢植えを元の位置に戻した。壁から十二センチ。正確に。
馬車に戻った。城へ引き返す。窓の外を夕日が染めていた。通りを歩く人たちはいつもと変わらない顔をしている。誰かの日常が普通に流れている。
「ヴォルフさん」
「なんだ」
「わたし、今朝テルナー様にとある報告をしたんです。些細な、けれどもしかしたら……何かのきっかけになるかもしれないことを。あの報告したから、あの紙が来たんでしょうか」
ヴォルフさんが少し考えた。
「報告したことを、あの紙を置いた人間が知っているとは限らない。帰宅日は決まっている。紙を仕込むタイミングは報告の前から計算できる」
「……そうですか」
「だが、今後は帰宅日を変えたほうがいい。テルナー様とニクラスに相談しよう」
城に着いた。ヴォルフさんが先に降りて、テルナー財務官の執務室に向かった。紙片を届けに行くのだろう。わたしは控室に戻った。
棚を確認した。水差しの位置を見た。巾着とリボンが並んでいる。全部そのままだ。
ここは大丈夫。ここは城の中だ。石壁があって、衛兵がいて、テルナー様がいて、ニクラスさんとヴォルフさんがいる。
でも今日は、棚が整っているだけでは足りなかった。
角を揃えるのが得意だと、あの紙は言っていた。わたしのことを知っている。わたしの特技を知っている。わたしの習慣を知っている。
知っているのに、名前は書いていなかった。誰が置いたのかわからない。わたしの目は、ものの位置のずれは見えるけれど、人の顔の裏側は見えない。
扉を叩く音がした。小さな音。
「ミーナ殿」
ニクラスさんの声だった。
「ヴォルフから聞いた。……大丈夫か」
扉越しの声。開けてはこなかった。開けないまま、確認だけしに来た。この人はそういう人だ。
「大丈夫です。ありがとうございます」
「何かあれば呼んでくれ。隣の部屋にいる」
足音が遠ざかった。隣の部屋。ニクラスさんの仕事部屋はもっと先のはずだ。今夜はわざと近くにいてくれるのだろう。
毛布を引き上げて、目を閉じた。明日テルナー様と話そう。今夜は、これ以上考えない。整理できないものを無理に整理しようとすると、散らかる。それは前にいた場所で学んだ。
扉の向こうに、ニクラスさんがいる。壁一枚隔てて、誰かがいる。
それだけで、少しだけ眠れそうだった。




