第十六話 知らないことの形
朝、目が覚めて最初にしたのは、扉に耳を当てることだった。
隣の部屋から、紙をめくる音がかすかに聞こえた。ニクラスさんだ。昨夜からずっといてくれたのだろうか。それとも朝早くに来たのか。どちらにしても、音がするだけで安心した。
棚を確認して、顔を洗って、窓を開けた。中庭の庭木。十二本。霜が降りている。そうか、もう、冬が来る。
前にいた場所では、冬になると部屋のものが結露で湿った。布団も服も湿っていた。乾いたものが何もなかった。今は違う。城の石壁は冷たいが、乾いている。毛布も乾いている。乾いているということが、どれだけ贅沢なことか。
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朝食のあと、テルナー財務官の執務室に行った。昨日の紙片のことではない。別の話だ。
「テルナー様。お願いがあります」
「なんだ」
「わたしに、この国のことを教えてください」
テルナー財務官が少し驚いた顔をした。この人が驚くのは珍しい。
「この国のこと、とは」
「政治の仕組みです。城主がいて、財務官がいて、軍務官がいて。でもそれ以外に誰がいて、誰が誰の上にいて、どういう力関係なのか、わたしは何も知りません」
「なぜ、急に」
「昨日の紙を読んで思いました。わたしのことを知っている人がいる。でもわたしは、城の中にどういう人がいるのかも知らない。名前も知らない。顔は覚えていても、立場がわからない。知らないままでは、自分が何を見ているのかもわからない」
テルナー財務官が椅子に座り直した。
「帳簿の数字を並べたとき、わたしは城壁修繕費がずれている、ということの意味がわかりませんでした」
ワンピースのおなか辺りを握りしめる。
「税制の仕組みもですが……もし、人がわざとすることをもっと理解していたら、早く気づけたかもしれません。武器庫のときも、剣や武器がなくなるということは何を意味するのかまるで分かりませんでした。資金の流れの絵を描いたときも、矢印の先にある組織の名前が読めても、それが何を意味するのか、よく分からなかった」
テルナー財務官がしばらくわたしを見ていた。
「お前は、それでも十分に役に立っている」
「役に立っているのは、たまたまです」
驚いた顔がゆっくりと変わっていく。何の顔かわからなかったが、嫌な顔ではなかった。
「お前がそう言うと思っていた。いつか、自分から聞きに来ると」
「思っていたのですか」
「うむ。だから用意してある」
テルナー財務官が棚の奥から一冊の薄い本を取り出した。背表紙に小さな付箋が貼ってある。わたしが読みやすいように、要点に印をつけてくれていたのだろうか。
「レンカ領の統治機構概要。城の新任官吏が最初に読む手引書だ。まずこれを読みなさい」
表紙は簡素で、文字だけだ。ページをめくってみる。
城主を頂点とした組織図。財務、軍務、内務、外務、法務。それぞれの管轄と責任者の役職名。組織図の下に、各部門の予算規模と人員数が表になっている。
「読んでわからないことがあれば聞きなさい。ニクラスにも聞いていい。あいつは教えるのが得意だ」
「テルナー様」
「なんだ」
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
テルナー財務官が言う「どういたしまして」は、すごくスムーズだった。
わたしが最近覚えた言葉を、この人は昔から使いこなしている。
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控室に戻って、手引書を読み始めた。
組織図を眺める。五つの部門が城主の下に並んでいる。棚の五段と同じだ。それぞれの段に、何が入っているかが書いてある。
城主ハインリヒ公のもとに五つの部門がある。財務はテルナー様。軍務はブレンナー様。内務、外務、法務はそれぞれ別の長がいる。名前が書いてある。知らない名前ばかりだ。
内務を管轄しているのはケスラー内務官。城の施設管理、使用人の人事、食料調達。城壁の修繕もここに含まれる。
城壁修繕は内務の管轄だ。
ということは、城壁修繕費の架空支出を行えるのは、やはり内務の人間だ。少なくとも、内務の承認がなければ支出は通らない。承認者を抱き込んでしまえば、とても滑らかに片付くはず……。
手が止まった。
これは、わたしが今考えていいことなのだろうか。テルナー様は「調べるのは私の仕事だ」と言った。わたしは角を揃えるだけ。
でも、角を揃えるためには、何が角なのかを知らなければならない。それは教育であると……身に着けられるものであると、テルナー様自身がそう言っていた。
意を決して読み進める。
軍務の管轄には武器庫の管理が含まれる。ブレンナー軍務官の直轄。武器庫の鍵は軍務官が管理している。
ここでまた止まった。
武器庫の鍵を管理しているのが軍務官なら、武器が不足していることに軍務官が気づかなかったのはどうかんがえても不自然だ。ブレンナー様は、鍵担当のものがいるのに、棚卸しのためにわたしを呼んだ。つまり、ブレンナー様自身は中を確認していなかった。あるいは確認できない事情があった。どうして? もしかしたら、何か、不都合なことが、……。
これも、わたしが考えるべきことではないかもしれない。
でも、読んでしまった。読んで、並べてしまった。
わたしの頭の中で、情報が勝手に棚に収まっていく。
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昼食のあと、ニクラスさんの机に行った。
「ニクラスさん。この本のことで聞いてもいいですか」
「……どうぞ」
「内務官の管轄に『城下町の公共施設の維持管理』とありますが、これは城壁も含みますか」
「含む」
「つまり、『城壁修繕費』とはまた別の予算建てになりますか」
「なる。維持管理のほうは極めて軽度の修繕だ。城壁修繕費は人工が十名を超える規模の修繕が該当する」
「城壁の修繕を発注するのは」
「内務官の裁量だ。金額が金貨百五十枚を超える場合は城主の承認がいる」
「承認の記録は」
「書庫にある。ミーナ殿が整理した棚の、法務の段に」
あの棚だ。わたしが並べた棚。わたしが角を揃えた棚の中に、答えがあるのかもしれない。
「ニクラスさん。わたし、知らないことが多すぎます」
「誰でもそうだ。知ろうとしているだけ、十分だと思う」
短い返事だった。でもニクラスさんがわたしの方を見て言ったのは珍しかった。いつもは帳面に目を落としたまま話す人だ。
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夕方、リーゼ様が控室に顔を出した。フリーダは一緒ではなかった。一人で来ることもあるらしい。
「ミーナ、なんか難しい顔してるね」
「手引書を読んでいました。城の仕組みの」
「あー、あれ退屈じゃない? わたし、小さい頃に読まされて三ページで寝た」
「三ページ……」
「だって、役職名ばっかりで。でもね、実際の人を知ってると面白いのよ」
リーゼ様が椅子を引いて座った。城主の娘は人の控室に遠慮なく座る。
「ケスラー内務官ってすごく几帳面な人で、廊下に花を飾る位置まで決めてるの。花瓶の間隔、三歩おき。掃除の手順書も自分で書いてて、マルタさんは尊敬してるって言ってた」
三歩おき。それは整っている。几帳面な人。手順書を自分で書く人。わたしと少し似ている。
「外務官のドレスラー様はね、声がすごく大きいの。廊下の端にいても聞こえる。今は不在にしてることが多いわね。法務官のヘルマン様は逆に声が小さくて、会議で何言ってるか聞こえないって父上がぼやいてた」
リーゼ様は城の人たちをよく見ている。好奇心旺盛なだけではない。人を観察することが好きなのだ。わたしがものの位置を見るように、この人は人の顔を見ている。
「でもね、ケスラー様、最近ちょっと元気がないの。父上が心配してた」
「元気がない」
「うん。前はもっとにこにこしてたのに。ここ半年くらいかな、顔が険しくなった」
半年。
帳簿の乖離が生じ始めたのも、武器庫の台帳が最後に更新されたのも、半年前だ。
決めつけは良くない、と頭を軽く振る。
偶然かもしれない。偶然でないかもしれない。わたしにはまだわからない。
「リーゼ様、ケスラー内務官にはいつか会えますか」
「会えるよ。城の中にいるんだから。紹介しようか?」
「いえ、そのうち自然に。急ぐ必要はありません」
急ぐ必要はない。でも、知っておく必要はある。
リーゼ様が帰ったあと、手引書を閉じて棚に仕舞った。角を揃えて入れた。
今日はほとんど、片付けの仕事をしなかった。棚も拭かなかった。帳簿も並べなかった。
でも、頭の中の棚に新しい仕切りができた気がする。財務の段、軍務の段、内務の段。人の名前と役職と管轄が、少しずつ収まっていく。
知らないことの形が見えてきた。形が見えれば、棚が作れる。棚があれば、情報を入れられる。情報があれば、ずれが見える。
わたしにできるのは、それだけだ。
でもそれだけのことが、今は前より少しだけ頼もしい。




