影の鏡、名前なき夜
王都ルメル。
聖王宮の高塔、その最上階にて――
神導リアナは、静かに祈りを捧げていた。
眼前には一枚の“神鏡”。
女神レリアと繋がるとされる聖具。
その表面に映っていたのは、勇者レオナの姿だった。
「……まだ、不完全」
リアナの声は、冷たくも美しかった。
「魂に“裂け目”がある。……だが、それでこそいい」
神鏡が微かに脈動する。
(神は完全を求めない。
不完全こそが、調整しやすく、物語を導きやすい)
「この勇者は、いずれ“正しい絶望”に至る」
それが、教会の方針だった。
祈りの名のもとに――勇者という“役割”を完遂させるために。
⸻
その頃、レオナは王宮の一室にいた。
祝宴の準備のために着替えを命じられていたが、彼の手は止まっていた。
(……俺は、どうして戦ってる?)
魔物を斬った。
人々に称えられた。
けれど、心が追いつかない。
「“勇者様”」
控えの間から声がする。
白いローブの神官が、優しく微笑んでいた。
「お支度は進んでいますか?」
「……はい」
無意識に応えていた。
もう、否定することも、意味を持たないと知っていた。
けれど。
(“あの声”は、なんだったんだろう)
初任務の帰り、広場の影で――
彼は確かに、誰かに“見られていた”気配を感じた。
言葉も、音もなかった。
けれど、あれは――呼ばれていた。
(俺を……見透かすような、瞳だった)
彼はまだ知らない。
それが、“魔王”の視線だったことを。
⸻
一方、黒神城では。
リヴァンは、玉座の間にいた。
左手の黒神盤が、低く唸っている。
「……何かが、動いたな」
アルヴィアが姿を現す。
「神鏡の力が作動しました。女神教会の内部、勇者の意識に干渉が始まっています」
「つまり、“物語”を強制している」
リヴァンは目を細めた。
「なら――俺も“干渉”しよう」
ネグレウスが笑う。
「王が動く、ということだね?」
「いや。まずは“彼女”を動かす」
その言葉に、アルヴィアとネグレウスが一瞬だけ視線を交わす。
リヴァンは、玉座の間の片隅に立つ少女へ目を向けた。
ルシア。
白い髪に、静かな紅の瞳。
何も言わず、ただリヴァンの背後に立ち続けていた存在。
「ルシア」
その名を呼ぶと、彼女は小さく首を傾げた。
「あなたに――“記憶”が戻ったら、何を見ると思う?」
「……わかりません」
「なら、思い出してみるか? お前の中にある“真実”を」
黒神盤が唸り、空間に黒い歪みが走る。
その中心で、ルシアの瞳が揺れた。
「……私が何者で、なぜここにいるのか……」
その声には、微かに震えがあった。
「必要なら、記憶を暴いてやってもいい。だが――選ぶのはお前だ」
ルシアは、しばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「……いいえ。まだ、知りたくありません」
「理由は?」
「知らないままで……あなたのそばにいたい、から」
静かだった。
だが、その言葉の奥にある“意志”だけは、確かにリヴァンに届いていた。
(……異物、か)
かつて、自分も世界の異物だった。
なら、この少女もまた――。
「なら、いい」
リヴァンは立ち上がる。
「いずれすべての偽りが暴かれる。その時、お前が選べばいい」
ルシアは静かに頷いた。
⸻
「王」
ネグレウスが前に出る。
「準備は整っています。王都への“次の仕掛け”……例の“記録の幻廊”を使えば、今度は神導たちに直接揺さぶりをかけられる」
「やれ。真実は一つずつでいい。だが確実に、“見せつける”」
「了解」
ネグレウスが笑う。その顔にあったのは、ただの愉悦ではなかった。
(この王なら、本当にすべてを壊すかもしれない)
黒神盤が静かに、だが確かに脈動していた。
物語は、ゆっくりと転がり始めていた。
誰もが――“自分の役目”から逃れられないままに。




