46 さようなら、青葉ヶ山
「うっし、おわり!」
床の畳を雑巾で丁寧に拭きおわり、空っぽになった六畳の自室をぐるりと見回す。
古い教科書やノート、いつ作ったか分からない工作品が雑然と積み上がっていた学習机も、芳樹から借りていた漫画本や俊蔵と初子が買ってくれた辞書が収まっていた書棚も、服がぎゅうぎゅうに収まっていた箪笥の中も今はもう何もない。
白壁やドアに描かれた消えない落書きや、タロのつけた引っ掻き傷だけがホムラがこの場所で四年の月日を過ごした事だけを物語っている。
中学校の入学式前日となった今日、いよいよホムラが検非違使管轄の養成施設へ入所する時がやってきた。
着替えや服、その他の大きな荷物はすでに宅配便で施設に送っている。自分で持ち込めるサイズの物はリュックサックに詰め込み、それ以外の物は全部片付ける。そう自分で決め、卒業式から家を出る入所日までの間、この部屋や家の中を毎日少しずつ掃除していたのだ。
施設の入所手続きをしてくれた担当者からも、今までに再三確認されていた。
入所しても身の安全を保証はできない。それを承知するならば入所許可を出してもいいと。元々たつジィから言われていた事だ。入所に迷いはなかった。ただ気持ちの整理が完全についたかどうかは別だ。
だから今日この日まで掃除をしながら、少しずつ決意を固めていた。
揺るぎそうになるあの日の覚悟を確かなものにするために。
そして、自分がいつどうなっても後悔しないように。
「ホムラぁ。もうお迎えの時間でねぇかぁ?」
階下から呼びかける俊蔵の声でハッと時計を見る。
今日の午後一時、施設の担当者がホムラ達を送迎するために白狐沼へやってくる。その前に一度白狐と合流する約束をしていた。
急いでリュックサックを背負って階下に降りると、俊蔵はすでに玄関でホムラを待っていた。
「忘れモンねぇか。メシ持ったか。んで財布は……」
「じーちゃん、大丈夫だって。オレ、もう子供じゃないし」
珍しく落ち着きのない俊蔵にホムラがピシャリと言うと、ようやく「んだなぁ。オメェも中学生だもんなぁ」と目尻を下げて頷いた。
「そうだ、ホムラ。悪いがコイツを受け取ってやってくんねぇか」
「何? この袋」
「暁美からの入学祝いだぁ」
暁美と聞いて「うっわ」とあからさまに口を歪ませたホムラに、俊蔵が慌てて「いいから受け取れぇ」と白い紙袋を押し付ける。
どうせまた碌なもんじゃねぇだろ。
そんな強烈な予感がするが、きっと俊蔵の事だ。ここで拒否しても郵送で施設に送り付けてくるだろう。
あとでこっそり捨てよう。
そう思いつつ渋々少し重い紙袋を受け取る。
「ありがと、じーちゃん。じゃ、オレもう行くよ」
「ああ、気ぃつけてな。ちゃんとメシ食うんだど」
まだ履き慣れない真新しいスニーカーを履いて、俊蔵に背を向ける。
「ホムラぁ」
玄関を出たホムラを呼ぶ俊蔵の声に思わず足が止まる。
「オメェの家はここだからな。いつでもけえってこい」
わずかに震えのあるしゃがれ声に足が止まる。
きっと涙を堪えているのだろう。
そう分かってしまった途端、自然と瞼に熱が込み上げてきてしまう。
結局、今日この日まで俊蔵に<裏>の話をする事はなかった。
施設の担当者が俊蔵に説明したのも<表向きの概要>だけで、龍次との修行の話も「少しの間だけ武道を習いたい」と言っただけだ。
この施設が子供達を受け入れている本当の目的も、そもそもホムラがここに入所せざるを得なくなった本当の理由を俊蔵は全く知らない。それはホムラ自身が有耶無耶にしていたからに他ならないのだが、俊蔵も今日までホムラに理由を詳しく聞こうとはしなかった。
ただ一度「本気なのか」と。そう尋ねて、終わりだった。
だが、このまま何も話さずに去って本当にいいのか?
ずっと、このまま――。
「じーちゃん!」
心の中で答えが出る前に振り返っていた。
「ん? 何だぁ? 忘れモンかぁ?」
「そうじゃなくて……オレ……」
きょとんとする俊蔵の姿に言葉が出てこなくなる。
きっと俊蔵は待っている。今も自分が話すことを。
「オレ、本当はもうお狐様に会ってるんだ。ずっと前から」
「お狐様って、あの白狐沼のか?」
思いもよらない名前だったのだろう。
口を少し開けて目を瞬かせる俊蔵にホムラが小さく頷く。
「じーちゃんにその事、ちゃんと話したい。だからオレ頑張ってくるから。いつかウチに帰ってくるから」
もちろんこれで全てを話したとは言えない。
しかし今、ホムラが俊蔵に語れる精一杯の事だった。そもそも裏世界に関わりのない俊蔵がこんな話を信じてくれるとは思えない。
しかし、俊蔵は「そうかぁ」と噛み締めるように呟いて、そして顔を綻ばせた。
「したらじーちゃん、家で待っちょるから。いつか話してくんろ」
温もりのある大きな手に撫でられて、また瞼がじんと熱くなって、周りの景色が滲み始める。
「うん。約束する。オレ、絶対ここに帰ってくるから」
溢れ出そうとする涙を乱暴に拭って、今度こそ俊蔵の元を離れ家を出る。
いつかもう一度、ここに帰ってくる。
その決意を胸に――。
白狐沼に到着したのは、熱い胸の火照りがようやく収まった頃だった。
俊蔵が持たせてくれた腕時計を見ると約束の時間より少し早く着いたようだ。白狐を呼びに沼の中へと足を踏み入れる。
数ヶ月前まで、ここは古臭い伝承が残っている不気味な沼としか思っていなかった。白狐との出会いがなければきっと寄り付きもしなかっただろう。
それが今や、沼のほとりに咲き誇る寒椿や桃、桜達が春の訪れを喜んでいる姿を見ると、自然と心が落ち着くようになった。
そう思えるようになったのは、言い伝えとはまるで正反対のお狐様――白狐という心優しい少女の存在が大きいのだろう。
「春、かぁ」
嬉々と咲く花々を見て何気なく呟いたつもりだった。
「はい、何でしょう」
突然背後から声がして体が飛び上がる。振り向くとそこにいたのは桜色の振袖と花浅葱色の袴を身に纏った白耳の少女――白狐がそこに立っていた。
「おわっ、白狐!?」
「はい。それで何か」
「え?」
「その、私を呼んだのでは……」
「いや、白狐に声かけようとはしてたけど」
ぱち、ぱちと二、三度目を瞬かせてから、白狐の顔がだんだんと真っ赤に染まっていく。
「その、ご、御免なさい。私とした事がとんだ勘違いを……」
「え? あ、うん」
オレ、そんな勘違いさせるような事言ったか?
ひどく狼狽える白狐に疑問が頭に思い浮かぶ。
「そ、それよりもホムラ様。そちらの袋には一体何が入っているのでしょうか」
「袋ってこの白い袋?」
「はい。少々気になったものですから」
「オレの母親が送りつけてきた入学祝い。でもあっち着いたらすぐに捨てる」
「まあ。それは、何故でしょう」
「ろくでなしの親の贈り物なんていらねぇし」
突っぱねるようなホムラの言い草に、白狐は少しの間考えるように口元に手を当てて、それからホムラをまっすぐに見つめた。
「ホムラ様、不躾を承知で申し上げます。今その袋を開けてみませんか」
「え、今?」
「恐れながら、私はホムラ様のお母君を存じ上げておりません。ですがわざわざ贈り物をなさったという事は、どうしても貴方様にお伝えしたい事があるのではないのでしょうか」
「でも......」
「ここで開けずに燃やすも、開けて燃やすも同じ事ですよ。さあ」
そう優しく諭されてしまっては何も言い返せない。
仕方なく開けてみると、紙袋の中にはさらに二つの小箱が入っていた。
一つ目は、細長の頑丈な黒箱に入った赤い万年筆だった。
シックなレッドのボディとゴールドの金具が特徴的なデザインだ。アンティーク雑貨が好きで、ホムラが止めるまで家に溢れるほど飾っていた暁美らしい贈り物だ。
二つ目は、正方形の紙箱だった。少し重みのある箱を開けてみると、そこから出てきたのは丁寧に額縁に入れられた約20センチ四方の小さい絵画だった。きっと暁美本人が描いたものなのだろう。右下には「Akemi」という走り書きのサインが入れられている。
荒々しい筆致で、キャンバスに大胆に置かれた色とりどりの油絵の具。一見してまとまりがないようで、しかし彼女の巧妙な計算のもとで置かれたと思しきそれらは、真白のキャンバスを見事に濁りなく染め上げていた。
筆の穂先につけた絵の具を一点一点執念深く載せ切ったそれは、まさしく暁美にしか描けない前衛芸術の類だった。この突き抜けた芸術が一体何を表現しているのか。一度目にして理解できる者はそう多くないだろう。
しかし、幼少期から暁美のアトリエに入り浸り、そして彼女の手から生み出される作品の数々に触れていたホムラにはすぐに分かった。
これは、真っ赤な焔だ。
暗闇にただ一つ、灯火のようにそこに在る焔。
それは学校で悪鬼に飲み込まれてしまったホムラ達が、<核>を燃やすために生み出した浄化の焔にとてもよく似ている。
あたかも、これを描いた暁美がその場に居合わせていたのかと錯覚してしまう程に。
「何だよあのバカ母親。いつもふざけたハガキだけの癖に……」
額縁の中で煌々と燃え盛る<焔>を持つ手が震える。
ホムラの知る暁美は、自由奔放で自己中心的な母親だった。
家族よりも自分の自由を。そして自分の芸術を何よりも愛し、そしてそれを真っ先に優先する人間だった。だから五年前の今日、自分を青葉ヶ山に置き去りにしたのだ。母親ではなく、ただ画家として生きるために。
「なんと勇悍な焔でしょうか。まるでホムラ様のようです」
絵画を恍惚とした表情で見つめながら白狐が微笑む。
しかしこの絵は画家としての暁美の作品ではない。
母親としての暁美がホムラへと贈る、この世でただ一つの絵だ。
「これで母親気取りとか、ズレてんだよ……」
暁美は、仕事以外で作品を創る事はほとんどしない。知り合いや親戚に頼まれても、いつも何かと理由をつけて断っていた。
だからこの絵がどれだけ特別なのか。
それをよく知っているから、どんな気持ちでいたらいいのか分からなくなる。
「お捨てになりますか」
改めて白狐に問いかけられると、今度はなぜかすぐ答えられなかった。
いっそ迷いなくこの絵を叩き割ってこの場で燃やせれば、どんなに楽だっただろう。
「わかったよ。でも保留にするだけだからな」
「はい」
声を弾ませる白狐になぜか居た堪れなくなり、せっせと紙袋に暁美の贈り物を入れ戻していると、ふと白狐が「私には、真名があるのです」と唐突に語り始めた。
「マナって、白狐の本当の名前?」
「はい。私の真名は、ハル。お父様とお母様が私に授けて下さった、ただ一つの宝物です」
そう愛おしげに語る白狐の表情は、一番大切な物をぎゅっと抱きしめる純真無垢な子供そのものだった。<ハル>という名前は、白狐にとってそれだけ特別なものだろう。
「あのさ、俺も白狐のこと名前で呼んでいいか?」
「は、はい?」
「白狐だって俺のこと名前で呼んでんだろ。ダメなの?」
「いえ、駄目という訳では……。ただ母さま以外に真名で呼ばれた事がございませんので、その……」
顔をかっと紅潮させて慌てふためく姿は、笑花や芳樹に初めて呼び捨てされて恥ずかしがる遠い昔のホムラのようだった。最初はどこか嬉しいのにむず痒くて、しかし同じ時を過ごす度に名前を呼び合う事が固い絆になっていく。
白狐とも、そんな関係になっていけるだろう。
「ハル」
「は、はい!」
白耳をピンと真っ直ぐに立てながら固く返事をする白狐に思わず苦笑してしまう。
「そろそろ時間だし、行こうぜ。ハル」
「はい。参りましょう、ホムラ様」
白狐――ハルが喜色の笑みを浮かべたその刹那、春の柔らかな風が白狐沼を通り抜けた。
舞い散る桜の花吹雪に歓迎されるように、二人は新しい始まりの道を歩み出した。
第四章 さようなら、青葉ヶ山 完
ここまで白光の焔 第四章をお読み下さりありがとうございました。
次章、【白光の焔 第五章】は、執筆準備が完了次第開始の予定です。
その間にはイラストや番外など別コンテンツの公開も順次行ってまいりますので、そちらもぜひお楽しみ頂きつつ、本編更新まで今しばらくお待ち頂ければ幸いです。
(別コンテンツや詳しい公開開始日については、作者のSNSにてお知らせします)
引き続き、白光の焔をよろしくお願い致します!




