第四話 黙った駐屯地
八日目。
一行は、第十五駐屯地へ向かった。
ダルド村から北へ、半日。
道は、途中から道でなくなった。
舗装がなくなり、轍がなくなり、最後には獣道になった。
「……ここ、本当に駐屯地があるの?」
「地図にはある」
「地図が古いんじゃない?」
「三年前の版だ」
「三年で道って消えるものなの?」
「消えない」
レインは、そう答えた。
「人が通れば、消えない」
「三か月ですな」
グレイが、馬上から言った。
「三か月通らなければ、夏の草はこうなります」
彼は、鞍から身を乗り出して、草の丈を見た。
「膝の高さです。ちょうど三か月分だ」
「よくわかりますね」
「辺境勤務を三度やりますと、草の丈で日数を数える癖がつきます」
「便利ですね」
「便利ではありません」
グレイは、そう言った。
「便利だと思ったことは、一度もありません」
駐屯地は、丘の南面にあった。
木の柵で囲われた、小さな砦だ。
中に建物が三つ。兵舎と、倉庫と、物見櫓。
柵の門が、開いていた。
押し開けられたのではない。内側から開けられ、そのままにされていた。
「……ケリム、ハウル。左右を」
「はい」
「グレイさん、俺と。フィーナは後方。ノエルとユートは馬の脇」
「わかった」
ユートは、素直に頷いた。
頷いて、馬の脇に立った。
立って、また半歩、ノエルの前に出た。
今度は、ノエルが気づいた。
気づいて、何も言わなかった。
柵の内側は、荒れていた。
といっても、戦った跡ではない。
物が散らばっている。木桶が転がり、干していた洗濯物が地面に落ち、竈の火の跡が黒く残っている。
「……アルディス隊長」
グレイが、洗濯物を拾った。
「三か月分の雨に打たれています」
「三月に出た、というのは合っていますね」
「合っています」
兵舎の扉は、開いていた。
中に入った。
寝台が、十六台。
そのうち十四台が、ひっくり返っていた。
「……荒らされてますね」
ハウルが言った。
「違う」
グレイが、首を横に振った。
「荒らした跡ではありません。逃げた跡です」
彼は、いちばん手前の寝台に近づいた。
「寝台の下に、私物を入れる箱があります。これが全部、引き出されている」
彼は、箱の一つを覗いた。
「中身は、半分残っています」
「半分?」
「持っていけるものだけ持っていった」
グレイは、そう言った。
箱の中には、櫛と、木彫りの人形と、片方だけの靴下が入っていた。
「櫛は置いていく。靴下は片方だから置いていく」
彼は、木彫りの人形を取り上げた。
「これを置いていったのは、たぶん、慌てていたからです」
レインは、兵舎の床を見た。
泥の足跡が、残っていた。
全部、外へ向かっていた。
一つも、内側へ向かっていなかった。
「……全員、逃げたのか」
「そう見えます」
「では、なぜ報告が来ない」
「……」
グレイは、答えなかった。
答えないことが、答えだった。
逃げた先で、届かなかったのだ。
「隊長」
ケリムが、兵舎の奥から声をかけた。
「壁に、なんか書いてあります」
兵舎の奥、寝台の並びの終わりの壁に、字が並んでいた。
炭で書かれていた。
名簿だった。
『十五駐屯地 三月十一日現在』
その下に、名前が十六。
そのうち十五に、線が引かれていた。
消したのではない。横に線を引いて、その脇に『退』と書き足してある。
残る一つには、線がなかった。
いちばん上の名前だった。
『ダグ・ヴェレン 十人隊長』
「……ダグ・ヴェレン」
ユートが、その名を読んだ。
声に出した。
「十人隊長。……なんで一人だけ線がないんだ」
「退いていないからだ」
レインは、そう答えた。
「……退いてない?」
「残った、ということだ」
その時、外でハウルの声がした。
「隊長! 倉庫の扉が!」
倉庫の扉には、閂がかかっていた。
外側から。
「……外から閉めてある」
レインは、閂に手をかけた。
「隊長」
グレイが、止めた。
「中に何かいる可能性が」
「わかっています」
「開けますか」
「開けます」
レインは、剣を抜いた。
グレイも抜いた。
「フィーナ」
「準備できてる」
「三つ数える。二で下がって、三で開ける」
「わかった」
「一」
ケリムとハウルが位置につく。
「二」
全員が、半歩下がる。
「三」
閂を外し、扉を引いた。
何も、出てこなかった。
中は、暗かった。
埃の匂いと、それから、別の匂いがした。
レインは、火をつけた松明を、中に投げ入れた。
照らされたのは、樽と、麻袋と、それから——
「……人だ」
奥に、人がいた。
座っていた。
壁にもたれて、座ったまま、死んでいた。
男は、駐屯地の兵だった。
制服を着ていた。階級章から、十人隊長だとわかった。
膝の上に、木の板が乗っていた。
その板に、字が刻まれていた。
彫ったのだ。刃物で、板に直接。
インクがなかったのだろう。あるいは、凍っていたのだろう。
レインは、松明を近づけた。
『三月十一日。駐屯地放棄を決定。俺は残る。誰か来たら読め』
次の行。
『魔物の数が増えている。だが問題はそこじゃない。統率されている』
レインは、息を止めた。
『三月八日、群れが陣形を組んだ。前に大型、後ろに小型。俺は十二年ここにいるが、魔物が陣形を組むのを見たことがない』
『三月九日、同じ群れが柵の弱い場所だけを狙った。三日前に俺たちが補修した場所は、避けた』
『避けた。学習ではない。避けたのだ』
『学習なら、補修した場所を一度は試すはずだ。試さずに避けた。つまり、見て、判断している』
字が、そこから乱れていた。
『三月十日、南から来た。南だ。奴らは北から来るものだと、俺たちは十二年思っていた』
『南は、村がある方だ』
『三月十一日、全員に退避を命じた。十五名。全員、南へ向かわせた。俺は残る』
『残る理由は二つある』
『一つ。誰かが来た時に、これを渡すため』
『二つ。俺が一緒に行くと、十五名が俺の指示を待つ。待つと遅くなる。俺がいなければ、あいつらは自分で走る』
レインは、そこで一度、目を閉じた。
『食料は三日分持たせた。俺の分は置いていった。だから俺はここまでだ』
『倉庫の閂は、外から誰かにかけさせた。中から開かないようにするためだ』
『理由は、俺が途中で気が変わるかもしれないからだ』
最後の行は、ほとんど読めなかった。
彫る力が、残っていなかったらしい。
『指示を出しているものがいる』
誰も、動かなかった。
松明の火が、ぱちりと鳴った。
「……レイン」
ユートが、板を落とした。
拾おうともしなかった。
「なあ、これ」
「ああ」
「指示って、なんだよ」
「……」
「魔物に指示出す奴なんて、いないだろ」
レインは、木の板を、そっと男の膝から取った。
取って、両手で持った。
裏を返した。
裏面に、もう一行だけ、小さく彫られていた。
『北の谷に、穴がある』
「……レインくん」
ノエルが、後ろから言った。
「その方、いつから」
「三月十一日に書いている。今は、八月だ」
「五か月」
「五か月、ここにいた」
レインは、男の顔を見た。
目が、閉じられていた。
自分で閉じたのだろう。最後に。
ノエルは、屈み込んだ。
男の手首に、指を当てた。
当てて、すぐに離した。
わかりきっていることだった。
それでも、彼女はやった。
「……この方」
「なんだ」
「怪我をしていません」
「……」
「餓死です。たぶん」
彼女は、そう言った。
「あの、レインくん」
「なんだ」
「三日分の食料を、十五人に持たせたと書いてありました」
「書いてある」
「自分の分は置いていった、とも」
「……ああ」
「置いていったんじゃありません」
ノエルは、そう言った。
「分けたんです。三日分が十五人分あったのではなくて、この方の分も含めて十六人分あったものを、十五人で割ったんです」
彼女は、男の手を、そっと膝の上に戻した。
「そうしないと、三日分になりません」
誰も、何も言わなかった。
ケリムが、倉庫を出ていった。
出て、外で何かを蹴る音がした。
樽だった。
彼は、樽を蹴って、それから、その場に座り込んだ。
しばらく、動かなかった。
ハウルが、そばに立っていた。
何も言わずに、立っていた。
「……ハウル」
「はい」
「下向いてろ」
「……はい」
「俺も向くから」
倉庫の中で、ユートは板を拾っていた。
拾って、埃を払って、そして、書き始めた。
書きながら、彼は言った。
「レイン」
「なんだ」
「この人、名前わかったよな」
「わかった」
「兵舎の壁だろ。ダグ・ヴェレン」
「そうだ」
「合ってるかな」
「……合っている」
「なんでわかる」
「階級が合っている」
レインは、そう答えた。
「壁の名簿で、線が引かれていなかったのは一人だ。その一人が十人隊長だった。ここにいるのも十人隊長だ」
ユートは、頷いた。
頷いて、板に書きつけた。
『第十五駐屯地 十人隊長 ダグ・ヴェレン』
『三月十一日、駐屯地放棄を決定。部下十五名を南へ退避させ、自らは残留』
『食料は十五名に分配。本人の分を含む全量を分けたものと推定』
『五か月後、当隊が発見。餓死』
書いて、彼は羽根ペンを止めた。
「……レイン」
「なんだ」
「この人の家族、どこにいると思う」
「わからない」
「調べられる?」
「騎士団の名簿にはある。辺境勤務者の出身地は記録されている」
「じゃあ、書いとくわ」
ユートは、そう言った。
そして、書き足した。
『要・遺族への通知。本部名簿にて出身地照会のこと』
レインは、その一行を見た。
「ユート」
「なんだよ」
「お前、昨日も同じことを書いていたな」
「昨日?」
「ダルド村の、四つの空欄だ」
ユートは、板を閉じた。
「……見てたのか」
「見た」
「趣味悪いな」
「隊長だからな」
「……」
ユートは、頭を掻いた。
「別に、たいしたことじゃねえよ」
「たいしたことだ」
「やめろって」
「なぜだ」
「褒められると、俺、変な気になるんだよ」
彼は、そう言った。
「変な気になると、期待するだろ。期待して、それでできなかった時が、いちばんきついんだよ」
レインは、彼を見た。
ユートは、板を抱えて、倉庫の外を見ていた。
「ユート」
「なんだよ」
「期待する」
「おい」
「もう、している」
「やめろって言ってんだろ!」




