第三話 火のない夜
「……火なしですか」
ハウルが訊いた。
「なしだ」
「寒くなりますが」
「毛布を二枚使え」
レインは、そう言った。
「あの村を片付けたものが、まだ近くにいる可能性がある。火は遠くから見える」
「……はい」
「見張りは二人ずつ。四交代。俺とグレイさんが最初」
「隊長、休んでください」
グレイが言った。
「昨夜も、あなたは寝ていない」
「寝ました」
「寝ていません。私は隣にいました」
レインは、口を閉じた。
「……二番目に入ります」
「三番目です」
「グレイさん」
「三番目です」
グレイは、譲らなかった。
「隊長が倒れると、六人が困ります。これは私の判断ではなく、算数です」
結局、レインは三番目になった。
二番目までの間、彼は毛布を被って横になっていた。
眠れなかった。
丘の上からは、ダルド村が見えた。
灯りは、ひとつもない。
黒い塊が、平地に浮かんでいるだけだった。
「……眠れないんですか」
グレイの声がした。
見張りの位置から、こちらを見ずに言っていた。
「眠れません」
「そうでしょうな」
グレイは、そう言って、それきり黙った。
しばらくして、彼は懐から何かを取り出した。
紙だった。
暗いのに、彼はそれを膝の上に広げた。
「……グレイさん」
「はい」
「それは」
「手紙です」
「読めますか、この暗さで」
「読んでいません」
グレイは、そう答えた。
「広げているだけです」
レインは、体を起こした。
「……娘さんですか」
「二人おります」
グレイは、紙を撫でた。
「上が十四、下が九つ」
「手紙は」
「上のが書きます。下のは、まだ字が下手なので、絵を描きます」
「絵」
「はい」
グレイは、少し紙を持ち上げた。
闇の中で、輪郭だけが見えた。
「これは、犬の絵らしいです」
「らしい、というのは」
「本人がそう言っております」
グレイは、そう言った。
「私には、鹿に見えます」
レインは、少し笑った。
笑って、それから、訊いた。
「グレイさん」
「はい」
「なぜ、この任務に手を挙げたんですか」
グレイは、しばらく答えなかった。
「……挙げていません」
「え」
「団長に指名されました」
彼は、紙を畳んだ。
「二十年、辺境勤務を三度やっております。北東の地理を知っている騎士が、本隊には三人しかおりません。そのうち二人は、五十を超えて馬に乗れません」
「……そうですか」
「ですが」
グレイは、そう続けた。
「断ることはできました」
レインは、彼を見た。
「娘さんが、いるのに」
「いるから、です」
グレイは、闇の方を向いた。
「あの村を見ましたな」
「見ました」
「あれが、王都に来ないという保証はどこにもありません」
彼は、そう言った。
「私が行かなければ、誰かが行く。その誰かが北東の地理を知らなければ、道に迷う。迷えば遅くなる。遅くなれば、王都に着くのも遅くなる」
彼は、紙を懐に戻した。
「私は、算数で動いております」
レインは、その言葉を、しばらく噛んでいた。
「……グレイさん」
「はい」
「俺は、算数が下手です」
「知っております」
グレイは、あっさりと言った。
「あなたは、目の前の人間を助けようとします。それは算数ではありません」
「……」
「ですが、隊長というのは、算数をする役です」
彼は、そう言った。
「二十日で覚えろとは言いません。ただ、覚えてください」
二番目の見張りは、ケリムとハウルだった。
交代の時、ケリムは妙に無口だった。
いつもなら、交代の合図に何か軽口を挟む男だった。
◆
その夜は、何も言わなかった。
三番目の見張りに立った時、レインは彼が眠っていないことに気づいた。
毛布の中で、目を開けていた。
「……ケリムさん」
「起きてますよ」
「眠ってください」
「眠れませんね」
ケリムは、そう言って、体を起こした。
「アルディス隊長」
「はい」
「俺、さっき、ハウルに『下向いてろ』って言ったでしょう」
「言いました」
「あれ、自分に言ってたんですよ」
彼は、頭を掻いた。
「あいつの肩掴んでなかったら、俺が膝ついてました」
「……」
「十二年やってるんですけどね。慣れませんね、ああいうのは」
「慣れる必要がありますか」
「ないでしょうね」
ケリムは、そう答えた。
「でも、慣れてる顔はしないといけないんです。俺、中堅なんで」
彼は、笑った。
笑い方が、うまくなかった。
「若いのが見てるんですよ、こっちを。ハウルとか、詰所のあの兄ちゃんとか」
「ユートですか」
「そうそう。あの記録係の」
ケリムは、ユートの寝ている方を見た。
「あいつ、寝てないですよ」
ユートは、毛布を被って丸くなっていた。
動いていなかった。
だが、呼吸の間隔が、眠っている人間のそれではなかった。
「……そうですね」
「あの兄ちゃん、面白いですね」
ケリムは、そう言った。
「昼間、広場の入口から動けなかったでしょう」
「動けませんでした」
「でも、逃げなかった」
彼は、そう言った。
「普通、あそこまで怖けりゃ、村の外まで下がるんですよ。でもあいつ、入口から動かなかった。動けないなりに、いちばん近いところにいた」
レインは、ユートの方を見た。
「……気づきませんでした」
「隊長は、忙しかったですからね」
ケリムは、毛布を巻き直した。
「まあ、俺の勝手な感想ですけど」
ケリムが寝入った後、フィーナが起きてきた。
毛布を巻いて、レインの隣に座った。
「見張りは二人でしょ」
「グレイさんが向こう側にいる」
「じゃあ、私は三人目ね」
彼女は、そう言って、膝を抱えた。
しばらく、二人とも黙っていた。
「ねえ、レイン」
「なんだ」
「私、さっき、吐いたのよ」
レインは、彼女を見た。
「広場の裏で。誰にも見られてないと思う」
「……」
「魔導兵団に入って二年、死体は何回も見た。魔物の死骸も、人の死体も。平気だと思ってた」
フィーナは、ダルド村の方を見た。
「あれは、駄目だった」
「……ああ」
「なんでかな。傷が少ないからかな」
彼女は、少し首を傾げた。
「傷だらけの方が、まだましだったのよ。あれ、なんか——」
彼女は、言葉を探した。
「——大事にされてるみたいで」
レインは、その言葉に、背筋が冷えるのを感じた。
「フィーナ」
「なによ」
「今の、記録に残していいか」
「……え」
「お前が今言ったことは、事実じゃない。感想だ。だが、重要だ」
レインは、そう言った。
「積み方が丁寧だった、と誰かが書いても、王都の人間はぴんと来ない。だが『大事にされてるみたいだった』と書いてあれば、伝わる」
フィーナは、しばらく黙っていた。
「……好きにして」
「ありがとう」
「でも、名前は出さないで」
「なぜだ」
「魔導兵団の女が感想を書いたって知られたら、『情緒的だ』って言われるから」
彼女は、そう言った。
淡々と言った。
「二年で、五回言われた」
レインは、彼女を見た。
「……フィーナ」
「なによ」
「名前は出す」
「はあ?」
「出す」
レインは、そう言った。
「情緒的だと言われたら、俺が答える。『では、あなたは何と書きますか』と」
フィーナは、口を開いた。
開いて、閉じた。
しばらく、何も言わなかった。
「……あんた」
「なんだ」
「ほんと、そういうところなのよ」
彼女は、膝に顔を埋めた。
「ねえ」
「なんだ」
「あんた、怖くないの」
レインは、少し考えた。
「怖い」
「嘘」
「本当だ」
「そう見えない」
「見えないように立ってる」
レインは、正直に言った。
「指揮官が怖がっていると、六人が怖がる。だから、見えないように立つ。それだけだ」
フィーナは、彼の横顔を見た。
見て、それから、ふいと目を逸らした。
「……そういうの、疲れない?」
「疲れる」
「……」
「だが、慣れた」
「慣れないでよ、そういうのは」
彼女は、そう言って、毛布を巻き直した。
巻き直して、少しだけ、レインの方に寄った。
寄った距離は、拳ひとつ分だった。
「……ムギ、元気かな」
しばらくして、フィーナが言った。
「犬か」
「そう」
「元気だろう」
「なんでわかるのよ」
「わからない」
「わからないのに言わないでよ」
「……悪い」
「いいけど」
彼女は、少し笑った。
「あの子ね、荷袋の紐を噛むのよ。私が出かける支度してると、必ず噛みに来るの」
「そうか」
「行くなってことなのかな、あれ」
「かもしれない」
「……そう思うと、ちょっと」
彼女は、そこで言葉を切った。
切って、空を見上げた。
星が出ていた。
「レイン」
「なんだ」
「私、帰るからね」
「ああ」
「あんたも帰りなさいよ」
「帰る」
「即答しないで」
「なぜだ」
「即答する人って、たいてい考えてないから」
その頃、ユートは毛布の中で目を開けていた。
開けたまま、天幕の外の会話を聞いていた。
聞くつもりはなかった。
声が、聞こえてくるだけだった。
半刻ほどして、彼は起き上がった。
板を持って、天幕の外に出た。
月明かりで、字が書けるかどうかを試した。
書けた。
彼は、丘の斜面に座って、書き始めた。
しばらくして、隣に誰かが座った。
「……起きてたのか」
ノエルだった。
「眠れなくて」
「……そっか」
ユートは、板を膝に置いた。
「起こしていいって言ったけどさ。俺が起きてたら意味ないよな」
「……ふふ」
ノエルが、少し笑った。
「意味、ありますよ」
「あるの?」
「はい」
彼女は、膝を抱えた。
「起きてる人がいるって、それだけで違います」
二人は、しばらく黙っていた。
丘の下に、ダルド村があった。
黒い塊が、そこにあった。
「……ユートくん」
「なに」
「何を書いてるんですか」
「え」
ユートは、板を隠そうとした。
隠しかけて、やめた。
「……たいしたことじゃない」
「見せてもらえませんか」
「いや、これは、その」
「見せてください」
彼は、しばらく渋った。
渋って、それから、板を差し出した。
ノエルは、月明かりでそれを読んだ。
『ダルド村 推定人口一四〇』
『確認遺体 一二七』
『生存報告 九』
『所在不明 四』
その下に、名前を書く欄が作ってあった。
空欄が、四つ。
「……これは」
「四人、わかんないだろ」
ユートは、そう言った。
「百二十七人は、あそこにいた。九人は生きてる。あと四人、どこ行ったかわかんない」
「……はい」
「その四人、名前がないと、たぶん誰も探さないんだよ」
彼は、板を受け取った。
「『所在不明四名』って書いたら、それで終わりだろ。数字だから。でも、名前があったら、誰か探すかもしれない」
「……名前は、わかりますか」
「わかんない」
ユートは、あっさり言った。
「だから、欄だけ作った。生き残った九人に聞けば、たぶんわかる。誰かがいつか聞く。その時のために、欄だけ空けとく」
ノエルは、その板を、しばらく見ていた。
見て、それから、両手を口元に当てた。
「……ノエルちゃん?」
「すみません」
「え、なに、泣いてる?」
「泣いてません」
「泣いてるだろ」
「泣いてません」
彼女は、そう言い張った。
言い張りながら、袖で目を押さえた。
「……あの、ユートくん」
「なに」
「私、今日、百二十七人の手首に触りました」
「……うん」
「三十人を過ぎたあたりから、顔を見なくなりました」
彼女は、そう言った。
「六十人を過ぎたあたりから、数えなくなりました」
「……」
「百人を過ぎた時には、もう、ただ触ってるだけでした」
彼女の声が、震えていた。
「私、あの人たちを、数にしました」
ユートは、何も言わなかった。
言葉を探しているのが、傍目にもわかった。
彼は、板を持ち上げた。
持ち上げて、四つの空欄を指した。
「……あのさ」
「はい」
「これ、俺が作ったんだけど」
「はい」
「作った理由、さっき言ったのと違うんだ」
彼は、そう言った。
「本当は、俺が耐えらんなかったからだよ」
ノエルが、顔を上げた。
「百二十七って書いた時にさ、なんか、すげえ嫌だったんだ」
ユートは、板を見ていた。
「百二十七って書いたら、百二十七人が消えるんだよ。数字になるから」
「……」
「だから、四人だけでも欄を作った。四人だけでも、名前が入る場所を作った」
彼は、頭を掻いた。
「俺、それしかできなかった」
ノエルは、彼を見た。
しばらく、見ていた。
「……ユートくん」
「なに」
「あなたも、数にしたくなかったんですね」
ユートは、答えなかった。
答えずに、鼻の頭を掻いた。
「……なんかさ」
「はい」
「俺、この任務、来る前は、めちゃくちゃ嫌だったんだよ」
彼は、そう言った。
「怖いし、寒いし、疲れるし、絶対途中で泣くと思ってた」
「……」
「実際、全部当たってる」
彼は、少し笑った。
「でもさ、なんか、来てよかったのかもしれない」
「なぜですか」
「わかんない」
ユートは、そう答えた。
「わかんないけど、俺が書かないと、あの四人の欄、誰も作らないだろ」
ノエルは、しばらく黙っていた。
黙って、丘の下を見ていた。
やがて、彼女は言った。
「ユートくん」
「なに」
「あの、明日、朝ごはんの時に」
「うん」
「隣、座ってもいいですか」
ユートは、板を落とした。
「え」
「駄目ですか」
「駄目じゃない! 全然駄目じゃない!」
「じゃあ」
「うん!」
「ではおやすみなさい」
「おやすみ!」
ノエルが天幕に戻った後、ユートは板を拾った。
拾って、しばらく座っていた。
それから、丘の斜面に仰向けに寝転がった。
空を見た。
星が出ていた。
「……くそ」
彼は、そう言った。
「なんで今日なんだよ」
その言葉の意味を、レインは知らない。
見張りの位置から、彼が寝転がったのだけが見えていた。
◆
翌朝。八日目。
ユートは、朝食の時、ノエルの隣に座った。
座って、一言も喋らなかった。
喋れなかった。
フィーナが、それを見て、心底不審そうな顔をした。
「……あんた、どうしたの」
「なんでもない」
「気持ち悪いわね」
「なんでもないって言ってるだろ!」
「大声出さないでよ!」
ノエルは、その横で、静かにパンを食べていた。
食べながら、ほんの少しだけ、口の端を上げていた。




