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2. 古い建物ですので

 一睡もできないまま朝が来た――と書きたいところだが、実際は四刻ほど眠った。眠れてしまう自分の神経が恨めしい。


 寝床の中では、一応、あらゆる逃げ道を検分した。水盤の誤検分は、あり得ない。名錘の彫り違いも、私に限ってあり得ない。残る望みは夢だが、夢なら朝には覚める。……覚めなかった。以上、検分終わり。私は起きて、顔を洗った。


 鑑定官の手元は寝不足を嫌う。名錘の手入れを済ませ、水盤の間を拭き上げて、私は職務の顔を装着する。


「本日、宰相閣下のご視察です。皆、粗相のないように」


 局長は今朝も白い。名目は「王命案件の進捗の検め」だそうで、進捗も何も、始まって二日目である。局長の胃の心配をしていたら、廊下の先の空気が、しん、と改まった。おいでになったのである。


 宰相カシミール閣下。間近で見ると、思ったより背が高い。敷居のところで黒手袋を指先から外し、目礼ひとつ。所作に無駄がない。政の頂点というものは、こういう歩き方をするらしい。手袋を外すのが癖なのか、礼儀なのか――検分の目が、勝手にそんなものを拾う。


 そして、その瞬間である。


 水盤の水面が、さわ、とさざめいた。棚の検分用グラスが、りん、と澄んだ音で鳴く。(すずり)の脇の水差しまで、ちりちりと小さく震えている。


 水気のものが、一斉に。


 私は背筋を伸ばした。慌てるな。慌てる鑑定官は、手元より先に顔が滲むのだ。


「鑑定官どの」


「はい」


「この局は、よく物が鳴りますね」


「古い建物ですので」


 嘘ではない。築二百年である。鳴っているのが水気のものばかりだ、という点については――問われていないので、申し上げない。


 閣下は水盤とグラスを順に眺めて、一拍おいてから、仰った。


「……なるほど」


 なるほどの中身は、追及しないことに決めた。追及して得をする気が、まるでしない。


 卓を挟んで、検分計画の打ち合わせに入る。大水盤は部屋の中央、検分用の小盤と青銅の道具棚が壁際、卓はその間に置かれている。名簿の綴りは指の厚さで三冊、百二十名。局長は末席で、置物のように静かに胃を押さえている。


「手順を伺いたい」


「候補のお名前の名検め(なあらため)に、こちらから出向きます。ご本人と家紋、洗礼名の検分にございます。名錘を彫り、局の水盤で対鑑定。基準は週に四名」


「一年で百二十名。……ぎりぎりですね」


「予備の週を見込んでおります。名簿が正しければ、間に合います」


 閣下の指が、綴りの背を一冊ずつ、静かに撫でていった。検分するような手つきである。


「名簿が正しければ、とは?」


「名簿は、人がお作りになるものですので」


「あなたの目から見て、この名簿に偏りは?」


「釣り合いという名の、派閥の見本市にございます」


 末席で局長が小さく咳き込んだ。閣下の口の端が、ほんの少し動いた気がする。笑ったのかもしれない。検分し損ねたのが、少し悔しい。


 閣下は次に、道具棚の前で足を止めた。彫りかけの名錘が、布の上に並んでいる。


「名錘は、すべてあなたが?」


「主任の職掌ですので」


「……名を彫られる側の気分というのは、妙なものでしょうね?」


「彫られた方に、伺ったことがございません」


 私は真顔で答えた。目の前に一人いらっしゃるが、伺うわけにはいかない。


「期限は、星祭までと陛下は仰せだ」


「間に合わせます」


「間に合わなければ?」


「……名簿の外を、探すことになります」


 短い沈黙が落ちた。棚のグラスが、りん、と余計な相槌を打つ。古い建物である。


 打ち合わせの間も、グラスは思い出したように、りん、りん、と鳴き続けている。そのたびに私は「古い建物ですので」の顔を維持した。頬の筋が、地味な労働をしている。給金に、頬の分は入っていない。


 帰りがけ、閣下の目が私の文机の隅で止まった。読みさしの私物――『北天航海記』。潮と星の紀行文である。


「『水盤概論』では、ないのですね」


「休憩に概論を読みますと、休憩になりませんので」


「……一理ある」


「お読みになるなら、六章がよろしいですよ。義理抜きで笑えますので」


 閣下は答えず、表紙を指の背で一度だけ叩いて、卓へお戻しになる。


 玄関まで、見送りに立つ。閣下は敷居の手前で足を止め、振り向かずに言った。


「あなたの手順には、無駄がありませんね」


「恐れ入ります」


 馬車の音が遠ざかってから、私はようやく、肺の底まで息を吐いた。廊下の奥で局長が生き返る気配がする。振り返ると、棚のグラスはもう鳴いていない。水面も、静かなものである。


 ……そういうことなのだ。あの方が敷居を跨いだときだけ、この建物は「古く」なる。理屈は知らない。知らないが、検分の目は帳尻というものを覚えてしまう。名簿が尽きるまで、あの方は視察にみえるのだろう。みえるのだろうな。困る。何がどう困るのかは、検分しないでおく。


       ◇


 宰相府の執務室。秘書官クレメンスは予定表に「星見局視察」と書き加えて、首をひねった。就任三年、縁のなかった離宮の奥である。


「星の相が悪いそうだ」


 主は書類から顔も上げない。相が悪いのは閣下の嘘のほうです、とは、有能な秘書官は言わない。


 カシミールは筆を置き、窓の外を見た。下命の夜、回廊から見た光。沈んでいた名錘は、二つ。


 ――水に、人生を決めさせるつもりはない。


 それは、あの鑑定官も同じらしい。


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