プロローグ ~三万年前のある夜~
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~三万年前のある夜~
ヒトは火のまわりで輪になっていた。
焚き火は光と熱をくれた。
危険な獣たちを遠ざけ、肉の調理を可能にした。だが、それ以上に夜に明かりをもたらしたことで、「他人の心を読む時間」を与えた。
狩猟採集民たちは、食料や子育てを共有し、語り合い、笑い、嫉妬した。
群れの中で誰が信頼に値するのか、誰が仲間を裏切るのか─その判断は、生き延びるための技術だった。
ある若い男がいた。狩りはうまくない。
体力も腕力も、群れの中では平凡だった。
だが、彼は人の気配に敏感だった。
誰が誰を見ているのか。
誰の話に笑いが起き、誰の失敗が注目されたか。
彼は、観察していた。無意識のうちに、だ。
ある日、彼は焚き火のそばで、年かさの女に燻された肉をもらった。
「よく気がつく子だね」と言われて、はじめて気づいた。
他人を見ることは、自分を見つけてもらうことなのだ、と。
観察する力。共感する力。
小さなジェスチャーを手がかりに、心の奥を推し量る力。
それは道具を作る手とともに、ヒトをヒトにした。
焚き火のまわりで育まれたこの能力は、
今日も会議室で、カフェで、電車の中で、静かに発揮されている。
たとえば─
ひとりの青年が「なぜ自分は好かれないのか」と首をかしげていた。
その横で、別の誰かが「なぜあの人ばかり好かれるのか」と観察していた。
そんな風に、焚き火の火はまだ消えていない。
いまこの瞬間も、誰かが誰かを観察している。
もしかしたら、あなたのことも─。




