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『魔王軍に追放された軍配者、外れスキル〈戦場俯瞰〉で辺境から異世界統一を始める』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第64話 灰色の本営書記は、ゼクトを見ていた

 本営の朝は、辺境よりも静かだった。


 静かすぎる、とハルヴは思うことがある。


 外では兵が動いている。

 馬も鳴く。

 荷車も軋む。

 怒鳴り声だって、探せばいくらでもある。


 それでも、本営の奥にある書記室へ入ると、世界は急に紙の音だけになる。


 羊皮紙をめくる音。

 蝋印を割る音。

 羽根ペンの先が紙を擦る音。

 誰かが咳をして、誰かが小さく舌打ちをする。


 人はいる。

 声もある。

 だが、そこに血の匂いはない。


 だからこそ、ここで扱われる言葉は時々、戦場の血よりも冷たくなる。


 ハルヴは机の上に置かれた三枚の報告を見比べていた。


 一枚目は、正式な辺境報告。

 フロストゲート砦の近況、旧中継小屋の運用、村との連携について。

 文面は硬く、必要以上に飾りがない。


 二枚目は、監査補佐官エドガル・フェインの所見。

 現場判断については慎重な評価をつけつつも、完全否定はしていない。

 むしろ、ところどころに「現地判断として合理性あり」という表現が混じっていた。


 そして三枚目。


 正式な経路ではない紙だった。


 紙質も悪い。

 文字も整っていない。

 いくつかの略号と、場所を示すらしい符丁。

 それでも、ハルヴには意味が読めた。


 北辺境。

 半日小屋。

 灰の舌。

 追放軍配者。

 村帳の女。

 旧敵騎士。

 中継線、生きる。


 ハルヴは小さく息を吐いた。


「……本当に、面倒なことになっているな」


 呟きは、部屋の紙音に紛れた。


 隣の机にいた若い書記が顔を上げる。


「何かありましたか、ハルヴ殿」


「いや。紙が喋りすぎるだけだ」


「紙が、ですか?」


「聞き流せ」


 若い書記は首を傾げたが、それ以上は訊かなかった。

 本営の書記室で長生きしたいなら、聞いていい独り言と聞かない方がいい独り言を覚える必要がある。


 ハルヴは三枚目の紙を折り直し、机の右端へ置いた。


 灰舌の網。


 その呼び名を、彼は好きではなかった。

 あまりに分かりやすすぎる。

 分かりやすい呼び名は、実態を単純に見せてしまう。


 実際には、網というより湿った糸くずの集まりだ。

 運び屋、密商人、逃げ兵、道を覚えた子ども、耳だけが利く老人、どこにも属しきれない荷担ぎ。

 そういう者たちが、自分たちの腹と足で言葉を運んでいる。


 そこに一つの意思などない。

 だが、だからこそ役に立つ。


 一つの意思がある組織は、そこを潰されれば止まる。

 だが、ああいう灰色の流れは止まらない。踏めば散り、散った先でまた別の顔をする。


 ハルヴは、それを利用していた。


 好きだからではない。

 信頼しているからでもない。


 本営に届く正式な報告だけでは、辺境の本当の形が見えないからだ。


 扉が開いた。


 入ってきたのは、ゼクトの側近の一人だった。

 名前はダリオ。

 文官というには鎧の気配が残り、武官というには目が紙ばかり追っている。

 要するに、権力の風向きを読むのが仕事の男だ。


「ハルヴ殿。ゼクト様がお呼びです」


「今か」


「ええ。北辺境の件で」


「分かった」


 ハルヴは机上の紙を整理した。


 正式な二枚は持つ。

 三枚目は持たない。

 その代わり、内容だけ頭に入れておく。


 灰色の情報は、灰色のまま使うべきだ。

 白い机に乗せると、妙な汚れ方をする。


 廊下へ出ると、本営の空気は書記室より少しだけ騒がしかった。


 兵が行き交い、伝令が走り、どこかで上官が若い兵を叱っている。

 それでも、フロストゲートとは違う。

 ここでは、怒鳴り声すら整っている。

 誰が誰に怒鳴る権利を持っているのか、最初から決まっている場所の声だ。


 ゼクトの執務室は、相変わらず広すぎた。


 壁には西方方面軍の戦域図。

 机には整った報告束。

 そして、整いすぎた部屋に似合うような顔で、ゼクトが座っていた。


「来たか」


「お呼びと聞きました」


 ハルヴは一礼する。


 ゼクトは机の上にある紙を指で叩いた。


「フロストゲートの件だ」


「はい」


「監査補佐官フェインの報告を読んだ」


 ハルヴは黙っていた。


 ゼクトが続ける。


「歯切れが悪い。

現地判断に合理性あり、だと。

辺境の小砦が勝手に線を伸ばし、村人まで巻き込み、追放軍配者が現場を動かしている。

それを合理性などと書くとはな」


 怒鳴ってはいない。

 だが機嫌は悪い。

 ゼクトは、怒鳴るほど単純な男ではない。

 不快なものを、不快だと認める前に、理屈の衣を着せる。


 ハルヴは静かに答えた。


「少なくとも、現地は持ち直しています」


「それは報告にある」


「旧中継小屋の運用も、一定の効果を出しているようです」


「それも報告にある」


 ゼクトは指先で机を二度叩いた。


「私が聞きたいのは、なぜあの男の名前がこれほど頻繁に出るのか、だ」


 あの男。

 レオルド・ヴァーレン。


 ハルヴは内心で小さく息を吐いた。


 やはりそこだ。


 フロストゲートが持ち直したこと。

 旧中継小屋が生き始めたこと。

 村と砦の連携が進んでいること。

 それら自体よりも、ゼクトは“レオルドの名が報告に残ること”を嫌がっている。


「現地で実務を担っているからでしょう」


「追放した下級軍配者が、か」


「はい」


「ならば、それは統制上の問題だな」


 言葉が来た。


 統制。


 本営の中で、もっとも便利に使われる言葉の一つだ。

 負けた理由にも、勝った者を縛る理由にもなる。


 ハルヴは表情を変えない。


「現地の線を急に変えれば、かえって崩れる可能性があります」


 ゼクトの目が細くなる。


「お前は、あの男を庇うのか」


「庇ってはいません」


「なら何だ」


「現地が持ち直した理由を、壊すべきではないと言っています」


 室内が一瞬、静かになった。


 ダリオが横で目を伏せる。

 ゼクトの機嫌がさらに傾いたことを察したのだろう。


「理由など、後からいくらでも整えられる」


 ゼクトは冷たく言った。


「重要なのは、方面軍の命令系統に従っているかどうかだ」


「従わせるためには、現地が従える形にする必要があります」


「言葉を選べ、ハルヴ」


「選んでおります」


 ゼクトはしばらくハルヴを見た。


 ハルヴも視線を伏せすぎない。

 真正面から睨むほど愚かでもなく、逃げるほど臆病でもない位置に目を置く。


 灰色でいるには、目線一つにも気を遣う。


「増援を送る」


 やがて、ゼクトが言った。


 ハルヴは内心で舌打ちした。


 来たか。


「北辺境へ、ですか」


「当然だ。

持ち直したというなら、今こそ本営の指揮下で整えるべきだろう」


 整える。


 また便利な言葉だ。


「誰を」


 ハルヴが問う。


 ゼクトは少しだけ唇を上げた。


「ヴァレリオ・グランツ」


 名前を聞いた瞬間、ハルヴは嫌な予感が確信に変わるのを感じた。


 ヴァレリオ・グランツ。

 若い。

 家柄は良い。

 書類上の戦歴は綺麗。

 小さな勝利を大きく見せるのがうまく、失敗を部下の判断にするのも早い。


 そして何より、現場を“整える”という言葉が好きな男だった。


「彼を、増援指揮官として?」


「まずは先遣指揮だ」


「現地副官アイザックとの権限調整が必要になります」


「調整など、上位命令で済む」


 ハルヴは少しだけ口を閉じた。


 済まない。

 だが、ここでそう言っても無駄だ。


 ゼクトの中ではもう、フロストゲートは“持ち直した現場”ではなく、“本営が回収すべき成果”になっている。


「旧中継小屋は」


 ハルヴは問う。


「増援隊の運用下に置く」


 やはり。


「現地の線を引き抜く形になります」


「だから、現地へ指揮官を送る」


「……」


「何か不満か」


「懸念はあります」


「述べろ」


 ハルヴは一呼吸置いた。


「フロストゲートの現在の強みは、砦、村、旧中継小屋が一つの流れとして動き始めた点にあります。

旧中継小屋だけを切り取り、増援隊の運用下に置けば、その流れが一度崩れる可能性があります」


 ゼクトは鼻で笑った。


「辺境の村と砦が少し噛み合った程度で、大げさだな」


 その言葉を聞いた瞬間、ハルヴは思った。


 駄目だ。

 この男には、線が見えていない。


 場所しか見ていない。

 誰の名で、どの場所を、どの権限で押さえるか。

 それだけだ。


 レオルドは、たぶん逆に見ている。

 場所ではなく、流れ。

 権限ではなく、動いている人の癖。


 だからこそ、あの死にかけの砦で勝ち始めた。


 ハルヴは表情を消したまま答える。


「承知しました。文書を整えます」


「急げ」


「はい」


「それと、レオルド・ヴァーレンについての過去記録をもう一度まとめろ。

現地で勝手な判断が増えるようなら、いつでも処理できる材料が要る」


 処理。


 ハルヴはその言葉を、頭の片隅へ冷たく置いた。


「承知しました」


 執務室を出ると、廊下の空気が少しだけ軽く感じた。


 けれど、胸の奥は重い。


 ダリオが後ろから追ってきた。


「ハルヴ殿」


「何だ」


「ヴァレリオ殿の派遣、問題がありますか」


「問題がない増援などない」


「それは……」


「冗談だ」


 ハルヴは言ったが、声は冗談に聞こえなかったらしい。

 ダリオは曖昧に笑って下がった。


 書記室へ戻ると、ハルヴは扉を閉め、机の前に座った。


 正式文書を整える。

 それが仕事だ。


 増援派遣。

 旧中継小屋の暫定運用権限。

 現地副官との協議。

 北辺境の統制強化。


 綺麗な言葉はいくらでも並べられる。


 だが、その下で何が起きるかを考えると、羽根ペンの先がほんの少し重くなる。


 彼は机の右端へ置いた三枚目の紙を、もう一度開いた。


 灰の舌から来た断片。


 追放軍配者。

 村帳の女。

 旧敵騎士。

 半日小屋。

 中継線、生きる。


 ハルヴは小さく呟いた。


「レオルド、お前は本当に面倒な場所で、面倒な勝ち方をする」


 勝つなら、もっと分かりやすく勝てばいい。

 砦だけを守った、敵だけを退けた、そういう報告なら本営も扱いやすい。

 だが、レオルドは砦を守り、村を繋ぎ、旧中継小屋を生かし、商人と流民の流れにまで触れ始めている。


 本営が一番嫌がる勝ち方だ。


 現場が自分で意味を持ち始める勝ち方。


 だからゼクトは焦る。

 だから増援という名の縄を投げる。


 ハルヴはしばらく紙を見ていた。


 自分は何をしているのか。

 ゼクトを裏切っているわけではない。

 レオルドを助けているわけでもない。

 ただ、本営の中で何が起きているかを見ている。

 ゼクトがどこで無理をし、どこで現場を潰そうとするのかを、紙の隙間から見ている。


 それだけだ。


 それだけのはずだった。


「灰色、か」


 自嘲気味に呟く。


 白ではない。

 黒でもない。

 だが、灰色でい続けるのは、思ったより難しい。


 夕刻、ハルヴは一通の短い紙片を書いた。


 正式文書ではない。

 署名もない。

 ただ、灰舌の網へ流せる程度の、ごく短い言葉。


 ――北より縄。若き整え手、半日小屋を欲す。


 それだけ。


 意味を知る者なら分かる。

 本営から増援が来る。

 若い指揮官が、旧中継小屋を握ろうとしている。


 誰へ届くかは分からない。

 届く保証もない。

 途中で値をつけられ、歪められ、別の形になるかもしれない。


 それでも、何もしないよりはましだった。


 ハルヴは紙を小さく折り、蝋で留めず、机の下にある古い書類束の間へ挟んだ。


 夜には、誰かが持っていくだろう。

 持っていかないなら、それまでだ。


 彼は再び正式文書へ向き直る。


 増援隊派遣通知。

 その文面は整っていた。


 整いすぎて、吐き気がするほどに。


 夜、書記室の窓の外には、遠い兵舎の明かりが揺れていた。


 フロストゲートはさらに遠い。

 そこでは今頃、レオルドたちが別の紙、別の道、別の顔を見ているのだろう。


 ハルヴは羽根ペンを置き、誰にも聞こえない声で呟いた。


「間に合えよ。

お前の嫌な勝ち方が、本営の綺麗な縄に潰される前に」

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