第62話 北へ流れた言葉は、敵陣ではなく本営にも届く
北へ流れた言葉は、戻らない。
サイラスが残したその一言は、夜が明けても小部屋の空気に残っていた。
南西の線は、戻る。
荷を渡し、話を聞き、また別の荷を持って戻る。商いも噂も、行き来することで太くなる。だから、そこには交渉の余地がある。
だが北寄りの線は違う。
片道。
報せ。
査定。
命令。
買い手。
その言葉が並ぶだけで、フロストゲートの空気は重くなる。
朝の軍議には、いつもの面々が集まっていた。
レオルド。
アイザック。
ミレナ。
アイリス。
ガルグ。
リド。
そして、机の端にはロトもいた。
もちろん、自由に座っているわけではない。両手は軽く縛られ、扉の前には兵が立っている。だが、昨日までより扱いは少しだけ変わっていた。
捕虜ではある。
けれど、ただ黙らせる相手ではない。
ロト本人もそれを感じているのか、椅子に座ったまま、落ち着かない顔で机の上の地図を見ていた。
「北寄りへ行った報せは、商人筋じゃない」
アイザックが、昨日のサイラスの言葉を繰り返した。
「そう言っていました」
レオルドが頷く。
「敵軍か、本営か。あるいは、その両方に近い者か」
ミレナの声は硬かった。
「敵だけなら、まだ分かりやすいのにね」
「はい」
「でも、本営にも届いているかもしれない」
誰もすぐに否定しなかった。
敵に情報が流れている。
それなら、対処はまだ戦の中で考えられる。
だが、本営へも同じような“裏の報せ”が流れているなら、話は別だ。
フロストゲートを助けるためなのか。監視するためなのか。ゼクトのような者が利用するためなのか。そこを見誤れば、味方の旗を掲げた者に、自分たちの線を奪われる。
ガルグが露骨に顔をしかめた。
「味方なんだろ、本営って」
その言い方は、苛立ちというより戸惑いに近かった。
アイリスが静かに言う。
「旗の上ではね」
「旗の上って何だよ」
「旗の下にいる人間が、全員同じ方を向いているとは限らないってこと」
ガルグは言い返そうとして、やめた。
最近、彼はこういう言葉にすぐ噛みつかなくなった。
分かりにくい言葉でも、一度自分の中で噛むようになっている。
それは良い変化だった。
「本営にも、いろんな人がいる」
レオルドが続けた。
「フロストゲートを潰したい者。手柄を取りたい者。実情を知りたい者。ゼクトの失敗を探りたい者。
全員を同じ敵と見るのは危険です」
アイザックが低く言う。
「だが、全員味方と見るのはもっと危険だ」
「ええ」
その時、ロトが小さく鼻を鳴らした。
「旗がある連中ほど、裏の道を使いたがる」
昨日も似たことを言っていた。
だが今朝の声には、少し違う響きがある。
レオルドはロトへ視線を向けた。
「あなたは、北の買い手を知っている」
「全部じゃねえ」
「一部は?」
ロトは黙った。
アイザックが軽く椅子を軋ませる。
圧をかけるためではなく、ただ身じろぎしただけだ。だが、ロトはそれを聞いて肩を少し固くした。
レオルドはすぐに言った。
「名前を聞いているわけではありません」
「またその言い方か」
ロトが嫌そうに言う。
「名前を言わずに、性質だけでいい」
「性質?」
「誰が何を買っているのか。そこが知りたい」
ロトは机の地図を見た。
南西の線。
北寄りの線。
旧中継小屋。
フロストゲート。
それらを結ぶ炭の線を、しばらく目で追っていた。
「敵は、場所を買う」
「場所?」
「どこに兵がいるか。どこに荷があるか。どこを通れば見つからねえか。そういうのだ」
リドが小さく息を呑む。
「本営は?」
ミレナが訊いた。
ロトは一瞬だけ口を閉ざしたあと、低く答えた。
「本営筋は、顔を買う」
部屋の空気が変わった。
「顔、ですか」
レオルドが問う。
「誰が何を決めてるか。
誰が誰の言葉で動くか。
誰が不満を持ってるか。
誰の名前が、兵や村に通るか」
ロトはそこで、ちらりとレオルドを見た。
「あんたの名も、たぶん売れる」
ガルグが即座に反応した。
「ふざけんな」
「ふざけてねえよ」
ロトは淡々と言う。
「追放された軍配者が、死にかけの砦で線を作ってる。
本営のやつらが好きそうな話だろ。
褒めるにも、潰すにも、使える」
ガルグは黙った。
怒りは消えていないが、ロトの言葉がただの挑発ではないことも分かったのだろう。
アイザックが腕を組んだ。
「つまり、北へ行った報せは、砦の形だけじゃなく、誰が中心になってるかも運んでいる」
「そういうことだ」
「敵より厄介だな」
「旗があるやつらは、面倒なんだよ」
ロトの言葉は雑だが、妙に重い。
レオルドは考える。
敵は場所を買う。
本営筋は顔を買う。
敵は、どこを叩けばいいかを知りたがる。
本営は、誰を押さえればいいかを知りたがる。
それなら、北寄りの報せを放っておけばどうなるか。
旧中継小屋や南の見張り所跡だけではない。
ミレナ、アイザック、ドルゼン、セラ、ガルグ、リド、アイリス。
誰が何を担っているかまで、値札をつけられることになる。
ミレナが、静かに言った。
「村の名前も売れるわね」
誰も返事をしなかった。
「砦と村がどう繋がってるか。
誰が村をまとめてるか。
どこを押せば村が揺れるか。
そういう話も、顔を買う人間には価値がある」
「……はい」
レオルドは頷いた。
ミレナは感情的にはならなかった。
だが、その指先が帳面の角を強く押さえている。
「なら、北は放っておけない」
「ええ」
アイザックが地図へ指を置く。
「見に行くか」
「行きます」
レオルドは即答した。
「ただし、追うのではなく、先に回ります」
「先に?」
「北寄りへ行った者が戻らないなら、報せはどこかで渡される。
直接本営へ行くわけではないでしょう。途中に一つ、受ける場所があるはずです」
ロトが顔をしかめた。
「……嫌な読み方するな」
「当たりですか」
「知らねえ」
「嘘はつかないんですよね」
「黙る自由もある」
「はい」
ロトは苦々しげに視線を逸らした。
アイリスが壁際で小さく笑う。
「分かりやすい」
「うるせえ」
ロトの反応で、レオルドは確信を強めた。
北寄りの報せにも、中継点がある。
おそらく、南西ほど物は動かない。だが、言葉を受けて“買い手”へ渡す場所がある。
問題は、そこがどこか。
ロトは全部は言わない。
だが、地図を見た時の視線、黙り方、言葉の間。
それらを拾えば、候補は絞れる。
レオルドは地図の北寄り、旧中継小屋とフロストゲートの間から少し外れた場所を指した。
「この古い祠跡」
オルダが以前、何気なく話していた場所だ。
今は道から少し外れ、ほとんど使われていない。
だが、昔の荷引きや村人は雨避けに寄ったという。
ロトの目が、わずかに止まった。
ほんのわずかだ。
だが、十分だった。
「ここですね」
「……俺は何も言ってねえ」
「はい。助かります」
「助かってねえだろ」
「かなり」
ガルグがぼそりと言った。
「お前、そろそろ性格悪いって自覚しろよ」
「あります」
「あるのかよ」
少しだけ笑いが起きる。
だが、それは長く続かなかった。
北の古い祠跡。
そこが報せの中継点なら、次に動くべきは早い。
ロトが言った通り、北へ行った報せは二日から四日で意味を持つ。
すでに一日が過ぎている。
向こうが買い手へ渡す前に、せめて中継の形だけでも見ておく必要がある。
軍議は、すぐ具体に入った。
北寄りを見る隊は少数。
レオルド、アイリス、リド。
今回はガルグを外す。
「何でだよ」
予想通り、ガルグが噛みついた。
「南西を見てもらいます」
「は?」
「南西のネリアが動く可能性があります。
あなたは、そちらの方が向いている」
「俺が?」
「はい。
追いすぎない足と、見逃さない目が要ります」
ガルグは言い返しかけて、少しだけ口を閉じた。
ただ外されたのではない。
役割を分けられた。
それは彼にも分かったのだろう。
「……分かったよ」
不満は残っている。
だが承諾だった。
アイザックは砦に残る。
ミレナも村と帳面を動かす。
ドルゼンは旧中継小屋の補修を止めない。
セラは鍋と人の動きを見る。
どこか一つへ全員で寄る段階ではない。
フロストゲートは、もう複数の線を同時に見なければならない場所になっている。
昼過ぎ、レオルドたちは北寄りへ出た。
道は南西とは違った。
南西は、腹と荷の匂いがした。
塩、薬草、汗、湿った布。
人が生きるために通る線だった。
北寄りは、もっと乾いている。
足跡が少ない。
草があまり倒れていない。
だが、必要なところだけ枝が払われている。
誰かが通るためではなく、誰かが見落とさないために整えている感じがあった。
「気持ち悪い道ね」
アイリスが小声で言った。
「ええ」
「人が生活のために通る道じゃない」
「報せる線だからでしょう」
リドは緊張した顔で周囲を見ていた。
「南西より、静かですね」
「はい」
「でも、こっちの方が怖いです」
その感覚は正しい。
南西には人の欲があった。
北には、誰かが人を測る冷たさがある。
やがて、古い祠跡が見えた。
祠といっても、もう形はほとんど残っていない。
低い石積み。
半分崩れた屋根。
人が一人、雨を避けるには心許ない程度の陰。
だが、その手前に小さな石が二つ、妙な位置で置かれていた。
リドが囁く。
「印ですか」
「たぶん」
アイリスが目を細める。
「南西より、ずっと地味」
レオルドは頷いた。
「知らない者にはただの石。
知っている者にも、長居はさせない印ですね」
近づかない。
少し離れた斜面に身を伏せる。
待つ。
北の線は、南西と違ってなかなか動かない。
半刻。
一刻。
それでも何も起きない。
リドの呼吸が少し浅くなった頃、アイリスが低く言った。
「来る」
東寄りの細い木立から、男が一人現れた。
兵ではない。
だが、商人でもない。
外套は質素。足運びは静か。荷はほとんどない。
ただ、腰に小さな筒を下げていた。
紙筒。
濡れを避けるためのものだ。
男は祠跡の前で膝をついた。
石を二つ、わずかに動かす。
そして石積みの隙間から、小さな包みを取り出した。
それを筒に入れる。
代わりに、別の細い紙を差し込む。
動きは短い。
祈るような素振りもない。
祠に敬意など払っていない。
完全に、中継点として使っている。
レオルドは息を潜めた。
男は立ち上がると、周囲を見た。
その視線が、一瞬こちらの斜面を掠める。
見つかったわけではない。
だが、ただの運び役より警戒が深い。
そして男は、北へは行かなかった。
西へ折れた。
フロストゲートの直接の方向ではない。
だが、本営へ向かう広い道へ合流できる線だ。
アイリスが小さく言った。
「軍の匂い、ね」
「ええ」
レオルドは頷いた。
「敵陣ではありません」
リドが息を呑む。
「じゃあ、本営……?」
「可能性は高いです」
男の姿が消えるまで、誰も動かなかった。
その後、さらに少し待つ。
誰も来ない。
十分だった。
北の線は、敵陣へまっすぐ流れていない。
少なくとも一部は、本営へ近づく道へ向かっている。
砦へ戻る頃には、日が傾いていた。
報告を聞いたアイザックは、しばらく黙っていた。
「本営、か」
「まだ断定はしません」
レオルドが言うと、副官は苦く笑った。
「お前がそう言う時は、半分以上断定してる時だ」
「……そうかもしれません」
ミレナは静かに言った。
「味方に売られているかもしれない、ってことね」
「はい」
「腹が立つわね」
声は静かだった。
だが、その静けさがかえって強かった。
レオルドは地図の北寄りへ印をつける。
古い祠跡。
本営へ合流できる線。
紙筒を持つ男。
つながってしまった。
南西の利の線。
北の報せの線。
そして本営。
それらはすでに、フロストゲートの外で絡み始めている。
夜、記録帳へ書く。
【第六十二日 所見】
・ 北寄り線の候補地、古い祠跡を確認
・ 紙筒を持つ男が報せを回収
・ 男は敵陣方向ではなく、本営方面へ合流可能な西寄りの線へ抜けた
・ 北の報せは、敵陣だけでなく本営側にも届く可能性高い
・ 本営筋が買うのは“場所”ではなく“顔”
・ フロストゲート内の役割、人間関係、村との連携が売られる危険あり
最後に、一文。
【所感】
北へ流れた言葉は、敵陣だけを目指していなかった。
味方の旗の下へ届く言葉ほど、扱いを誤れば厄介な刃になる。




