第60話 南西の待ち場には、敵ではなく商人の影があった
南西へ向かう線は、思っていたよりも細かった。
道と呼ぶには頼りなく、獣道と呼ぶには人の手が入りすぎている。
足元の草はところどころ踏まれ、折れた枝は邪魔にならない高さで払われていた。
だが、誰かが堂々と荷を通した跡はない。荷車の轍もなければ、兵がまとまって歩いたような土の荒れもない。
人ひとり。
せいぜい二人。
小さな包みを背負って、何度も何度も通うための線。
そういう道だった。
レオルドたちは、旧中継小屋のさらに南西へ入っていた。
同行しているのは、ガルグ、アイリス、リド。
アイザックは砦に残り、ミレナは村側で帳面と荷の流れを見ている。今回の偵察は、戦うためではなく“見る”ためのものだ。人数は少ない方がいい。
ガルグが先頭で、草の倒れ方を見ながら進む。
「こっちは兵の道じゃねえな」
「そう見えますか」
レオルドが訊くと、ガルグは足元を顎で示した。
「兵なら、もう少し雑に踏む。まとまって動くからな。こっちは……何ていうか、同じ奴が何度も足を置く場所を選んでる感じだ」
「慣れた運び屋の道、ですね」
「たぶんな」
ガルグは少し不満そうに鼻を鳴らした。
「でも、だからって安全とは限らねえ」
「ええ」
「敵じゃねえかもしれねえって話だったけどよ。敵じゃない奴が、一番面倒な時もあるだろ」
アイリスが後ろから淡々と言う。
「珍しくまともね」
「お前、いちいち一言余計なんだよ」
「褒めてるのに」
「褒めてねえだろ、それ」
リドが少し困ったように二人を見ていた。
だが、以前のようにその空気に飲まれてはいない。会話は会話、見るべきものは見るべきものとして、目はきちんと周囲を拾っている。
レオルドはその様子を、少しだけ頼もしく思った。
人は、急に強くなるわけではない。
怖さを抱えたまま、次に見るものを決められるようになる。
それだけでも、戦場では十分に成長だ。
やがて、ガルグが足を止めた。
「倒木」
ロトが話した場所だった。
大きな木が道を半分塞ぐように倒れている。
ただ、完全な自然倒木ではない。根元は古く腐っているが、人が通れるように枝が払われている。知らない者には障害物に見え、知っている者には目印になる。
その先に、細い水無し沢があった。
沢と言っても水はない。
雨の季節にだけ流れるのだろう。普段は浅くえぐれた土の線で、両側に湿った石が点々と残っている。
その奥――低い岩の陰に、石が三つ並んでいた。
小さな石。
大きさも形も揃っていない。
だが、明らかに自然ではない並び方をしている。
リドが息を潜めた。
「ここですか」
「おそらく」
レオルドは低く答えた。
すぐには近づかない。
ロトが言っていたのは、ここが“二段目の待ち場”だということだ。
つまり、知らない者はもっと手前で待ち、本当に知っている者だけがここへ入る。
なら、ここを不用意に踏むだけで、こちらが“知らない者”ではないと示してしまう。
アイリスが周囲を見回した。
「伏せるなら、あそこ」
彼女が示したのは、水無し沢の上手、少しだけ高くなった土の陰だった。
そこなら石三つの場所が見える。
ただし、近すぎない。
声は拾えないかもしれないが、出入りと仕草は見られる。
レオルドは頷いた。
「そこにしましょう」
四人は音を殺して移動した。
待つ時間が始まる。
昼はまだ高い。
風は弱い。
鳥の声が一度して、それきり消えた。
こういう時、辺境の静けさは妙に人の神経を削る。
何も起きていないのに、何かが近づいている気がする。
何も見えないのに、見られている気がする。
ガルグは黙っていた。
珍しいことではあるが、前回レオルドが言った“数える”を覚えているのかもしれない。指先が、ごくわずかに地面の小石を数えるように動いていた。
リドは目を切らない。
彼の視線は、石三つの場所、倒木の向こう、そして水無し沢の入口を順に巡っていた。
アイリスは、ほとんど動かない。
こういう時の彼女は、元騎士というより、影に近い。
最初に来たのは、昼を少し過ぎた頃だった。
一人。
小柄な影。
リドがほとんど息だけで言った。
「来ました」
ロトが言っていた通りだった。
小柄。
足が速い。
文字は苦手だが、符号は覚える。
嘘は下手。
遠目でも、それらしい雰囲気があった。
年は若い。十代後半から二十歳になるかならないか。
外套は大きすぎて、体に合っていない。髪は短くまとめられ、顔には泥を塗っている。女か男か一瞬分からなかったが、仕草の軽さと体つきから、おそらく女だろう。
背負っている荷は小さい。重くはない。
けれど、空でもない。
彼女は倒木の手前で一度止まり、周囲を見た。
そのあと、何もないような顔で倒木を越え、水無し沢へ入ってきた。
迷いはない。
石三つの前まで来ると、彼女は膝をつき、石の一つをほんの少しだけずらした。
そこに薄く畳まれた油紙があった。
中身を確認する。
その動きは速い。
だが雑ではない。
アイリスが小声で言った。
「慣れてる」
レオルドは頷いた。
若い。
だが素人ではない。
少なくとも、この待ち場を初めて使う者ではなかった。
小柄な運び手は油紙を懐へ入れると、代わりに別の小さな包みを石の下へ差し込んだ。
それから立ち上がる。
その時だった。
別の方向から、かすかな足音がした。
南西の奥。
水無し沢のさらに下。
小柄な運び手が顔を上げる。
現れたのは、二人組だった。
一人は中年の男。
商人風だが、普通の商人より身軽な服装をしている。
もう一人は護衛か荷運びだろう。短い棒を持っている。
大きな荷はない。だが、腰の袋が少し膨らんでいる。
小柄な運び手は、露骨に警戒した。
「……遅い」
声は聞こえない。
だが、口の動きはそう見えた。
商人風の男は、両手を少し上げて笑ったようだった。
軽い仕草。
だが、足は一定の距離より近づかない。
互いに慣れているが、信用しきってはいない。そういう距離だった。
ガルグが低く唸る。
「敵兵じゃねえな」
「ええ」
レオルドはその二人の荷を見た。
男が布包みを一つ出す。
小柄な運び手はそれを受け取らない。まず、地面に置かせる。
次に自分の包みも置く。
互いに一歩下がる。
それから、相手の置いたものを確認する。
交換のやり方が決まっている。
布包みの中から少しだけ見えたのは、針。
小さな刃。
乾いた薬草。
塩の塊らしきもの。
そして、細く折られた紙。
リドが小さく言った。
「武器ではない……?」
「武器にもなります」
アイリスが答える。
「でも主目的は違う。生活物資と、細い情報」
まさに南西線だった。
利で動く流れ。
敵というより、腹を満たすための線。
だが、紙が混ざっている以上、ただの商いでもない。
商人風の男が、小柄な運び手へ何かを言った。
彼女は首を横に振る。
男が肩をすくめる。
護衛のような男が一歩前へ出かけた瞬間、小柄な運び手は素早く腰へ手を伸ばした。
短い刃だ。
場の空気が一瞬で変わる。
レオルドは動かなかった。
今出れば、すべてが壊れる。
だが、刃が抜かれれば別だ。
小柄な運び手は刃を抜かなかった。
抜く寸前で止めた。
商人風の男が護衛を手で制し、何かを短く言う。
護衛は不満そうに下がった。
それで緊張は解けた。
交換は終わり、商人風の男たちは南西へ戻っていく。
小柄な運び手は少し遅れて、別の細い線へ抜けようとした。
そこで、リドが息を呑んだ。
「石に印」
彼女が去る直前、石の側面へ指で何かを擦りつけたのだ。
泥だ。
ただの泥に見える。
だが、形がある。
レオルドは目を細めた。
細い横線。
その下に点。
そして小さな擦り。
合図だ。
何を示すかはまだ分からない。
だが、交換が成立した印である可能性が高い。
小柄な運び手が去ったあと、しばらく待った。
誰も来ない。
レオルドは、やっと小さく息を吐いた。
「戻ります」
ガルグが顔をしかめる。
「え、接触しねえのか」
「今日はしません」
「目の前にいたんだぞ」
「だからです」
レオルドは低く言った。
「今接触すれば、“フロストゲートが二段目の待ち場を知っている”と伝わります。
それより、今日は南西線の正体を持ち帰る方が大きい」
ガルグは言い返そうとしたが、結局舌打ちだけで済ませた。
「……分かったよ」
リドはまだ石の方を見ていた。
「あの小柄な人、ロトの言っていた人ですよね」
「可能性は高いです」
「捕まえなくてよかったんですか」
「捕まえるより、どう動くか見た方がいい相手です」
アイリスが言う。
「あの子、たぶん嘘は下手ね」
「見ただけで分かるんですか」
リドが訊くと、アイリスは少しだけ口元を上げた。
「顔に出るタイプ。交渉には向かない。けど、符号と道を覚えるのは早そう」
ロトの言葉と一致する。
文字は苦手。
符号は覚える。
嘘は下手。
レオルドはその小柄な運び手の動きを、頭の中で反芻した。
あれは、南西線の末端ではない。
末端にしては、待ち場の扱いに慣れすぎている。
だが上位でもない。
上位なら、あの商人風の男とあそこまで剥き出しにはやり合わない。
中間。
道と符号を知るが、交渉の駆け引きはまだ下手な運び手。
使い方を間違えれば逃げる。
だが、うまく接触できれば、南西線への入口になる。
砦へ戻った時、アイザックはすぐに報告を聞いた。
「敵兵はいなかったか」
「少なくとも、今日見た範囲では」
「商人か」
「商人の影です。
ただし表の商人ではない。生活物資と小さな文を同時に動かしています」
ミレナが顔をしかめる。
「塩や薬草があるなら、村の人間も欲しがるわね」
「そこが問題です」
レオルドは頷いた。
「南西線は、敵にするには惜しい。
でも放っておくと、敵にも本営にも売られる」
ガルグが不満そうに言う。
「結局、面倒ってことだろ」
「かなり」
「やっぱりな」
その場に、少しだけ苦笑が落ちた。
だが、すぐにレオルドは机の上へ一つの写しを置いた。
石に残されていた泥印を、帰る前に遠目で写したものだ。
アイリスがそれを見て言う。
「成立の印、かしらね」
「たぶん」
「誰に向けて?」
「次に来る者へ」
アイザックが腕を組む。
「南西は往復する。
ロトの言った通りだな」
「はい」
ミレナは少し考え込んでから言った。
「サイラスは、この流れを知っていると思う?」
レオルドはすぐには答えなかった。
だが、頭の中にはすでに商人の顔が浮かんでいる。
サイラス。
胡散臭く、道と利をよく見る商人。
彼がこの南西線をまったく知らないとは考えにくい。
「知っている可能性が高いです」
レオルドは答えた。
「関与しているかは別として」
ドルゼンが鼻を鳴らす。
「商人ってのは知らないふりが仕事みたいなもんだからな」
セラが入口から顔を出す。
「鍋の前でやられると一番腹立つやつだね」
「何で鍋基準なんだよ」
ガルグが突っ込むと、セラは当然のように返した。
「腹が減ると人は余計なことを喋るからだよ。鍋の前は情報が集まるんだ」
妙に説得力があった。
レオルドは小さく頷く。
「では、サイラスを呼びましょう」
アイザックが言う。
「知らないと言うぞ」
「でしょうね」
「それで?」
「知らないふりの仕方を見ます」
ガルグが露骨に嫌そうな顔をした。
「またそういうやつか」
「はい」
「お前、戦うよりそういうの好きだろ」
「必要なので」
「否定しねえんだな」
レオルドは少しだけ考え、答えた。
「嫌いではありません」
部屋の中が、一瞬だけ静かになった。
そしてアイザックが低く笑った。
「最悪だな」
「褒め言葉として受け取ります」
「褒めてない」
夜、記録帳にこう残す。
【第六十日 所見】
・ 南西の二段目待ち場を確認
・ 小柄な運び手が出入り。ロトの証言と一致
・ 待ち場では塩、針、薬草、小刃、紙片などが交換されていた
・ 敵兵拠点ではなく、密商いと情報の混じる流通点
・ 石に交換成立と思われる泥印あり
・ サイラスがこの流れを知っている可能性高い
最後に、一文。
【所感】
南西の待ち場には、敵ではなく商人の影があった。
ただし、その影は敵にも味方にも伸びる。
だからこそ、早くこちらの火に照らして、形を見なければならない。




