第58話 二つに割れた足跡は、二つの敵を示していた
朝の砦は、いつもより音が少なかった。
風がないわけではない。
炊事場ではセラが鍋を動かしているし、東柵ではドルゼンの怒鳴り声も一応聞こえる。門番の交代も、旧中継小屋へ出る荷の確認も、いつも通りに進んでいる。
それでも、どこか静かだった。
理由ははっきりしている。
昨夜、消えた運び屋の足跡を追いに来た者たちは、ロトを追わなかった。
足跡を数歩見て、外套の切れ端を見つけ、それでも深追いせず、合図だけを残して二つの線へ分かれた。
一つは南西へ。
もう一つは北寄りへ。
その意味を、まだ誰も軽く扱えなかった。
小部屋の机には、泥の乾かないうちに写した足跡の図と、ガルグが炭で描いた新しい合図の形が置かれていた。粗い。だが、粗いからこそ妙に生々しい。
レオルドはしばらく黙って、それを見ていた。
「二つ、か」
アイザックが腕を組んで言う。
「はい」
レオルドは頷いた。
「ロトが戻らなかった時、相手は一つの線だけで処理しなかった。確認役を出し、そのあと二方向へ分けています」
「それくらい慎重な連中ってことか」
ガルグが椅子にもたれながら言った。
椅子の後ろ脚だけで器用に体を揺らしている。落ち着きがないのはいつものことだが、今日は苛立ちよりも考え込む色が強い。
ミレナがすぐに睨んだ。
「椅子、壊さないで」
「壊さねえよ」
「前に壊した」
「あれは古かったんだよ」
「座り方が悪かったの」
そこで会話が止まる。
いつもなら誰かが軽く笑うところだが、今はすぐ地図へ意識が戻った。
レオルドは、南西へ流れる線を指した。
「こちらは、おそらく商いか密かな物資の流れです」
「敵兵じゃないってことか?」
ガルグが眉をひそめる。
「敵兵だけの線ではない、ということです。塩、薬草、針、小さな刃物、紙片。そういったものが通るなら、兵より商人や流れ者の匂いが濃くなる」
アイザックが低く言う。
「南西は利で動く連中か」
「たぶん」
「で、北は?」
部屋の空気が、そこで少し重くなる。
レオルドは指を北寄りの細い線へ移した。
「こちらは、旧中継小屋やフロストゲートの動きを探る線に見えます」
ミレナが静かに息を吐く。
「つまり、監視ね」
「はい」
「敵側への?」
「それもあります」
アイザックが目を細めた。
「“それも”って言い方が嫌だな」
「私も嫌です」
レオルドは正直に答えた。
「北寄りというのが気になります。敵陣へだけ流れるなら、もう少し南東へ寄ってもいい。ですが、北寄りへ抜けた。旧中継小屋と砦の線を横から見るような動きです」
ミレナの指が、机の端を小さく叩いた。
「本営?」
誰もすぐには答えなかった。
本営。
その言葉は、敵より厄介な時がある。
エドガルは去った。
けれど、去ったことで本営の視線が消えたわけではない。むしろ、フロストゲートが無視できない場所になった以上、どこかの誰かが別の目で見ていても不思議ではない。
壁際に立っていたアイリスが、ぽつりと言った。
「敵味方で線を分けない方がいいわ」
ガルグが顔を上げる。
「どういう意味だよ」
「南西が商いで、北が軍。そう切るのは早いってこと」
「でも、今そういう話してたろ」
「線はそう見える。でも通る人間はもっと混ざる。商人が軍に売ることもあるし、軍の人間が商人を使うこともある。流れ者が両方に顔を出すことだってある」
アイリスは地図を見たまま続けた。
「王国側にもあったわ。正式な斥候じゃ動かせない場所を、商人や運び屋に見させる。兵の印を使わず、荷の印で伝える。そうすると、捕まっても“商いの揉め事”で済ませられる」
セラがいつの間にか入口に立っていた。鍋杓子を持ったまま、嫌そうな顔をしている。
「嫌な知恵だねえ」
「よくある知恵よ」
「よくあるから余計に嫌なんだよ」
セラはそう言って、ロトの分らしい薄い粥の椀を机の端へ置いた。
「食べさせるんだろ? なら冷める前に持っていきな」
「ありがとうございます」
「礼はいいよ。食わせた方が喋るなら、その方が鍋の使い道としてはまだ納得できる」
そう言い残し、彼女はさっさと出ていった。
ガルグがぼそりと言う。
「鍋の使い道って何だよ」
「この砦では、たぶん重要な考え方です」
レオルドが答えると、ガルグは心底変なものを見る顔になった。
「お前、たまに本気で分かんねえ」
「よく言われます」
「それで済ませるな」
少しだけ、部屋の空気が緩んだ。
だが、それもすぐ戻る。
今回の足跡は、それだけ軽くない。
アイザックが机に片手をついた。
「ロトに聞くか」
「聞きます。ただ、答えは選ぶでしょう」
「黙るか?」
「嘘は少ないと思います」
ミレナが目を上げる。
「どうして?」
「彼は、運び屋としての信用を守っている。自分を守るためなら黙る。でも、運ぶ言葉そのものを歪めることは嫌がるはずです」
「誇りみたいなもの?」
「近いと思います」
ミレナは少し考えて、短く言った。
「厄介ね」
「はい」
「でも、そこが分かれば話せる」
「ええ」
レオルドは椀を持った。
「行ってきます」
アイザックが言う。
「俺も行く」
「いえ」
レオルドは首を横に振った。
「最初は少人数の方がいい。アイリスだけ来てください」
「私?」
「ええ。あなたの方が、彼には通じるかもしれません」
アイリスは一瞬だけ目を細めたが、すぐに肩をすくめた。
「いいわ」
ガルグが不満そうに言う。
「俺は?」
「待機です」
「何でだよ」
「あなたがいると、ロトが喋る前に喧嘩になります」
「ならねえよ」
ミレナが小さく言った。
「なるわね」
「お前まで言うな」
今度は少しだけ、笑いが生まれた。
ロトは兵舎奥の小部屋にいた。
昨夜より拘束は緩い。
逃げられるほどではないが、必要以上に痛めつけてはいない。扉の外には兵が一人。中には椅子と小さな机。窓はないが、息が詰まるほど狭くもない。
ロトはレオルドの持つ椀を見て、皮肉げに笑った。
「また飯か」
「食べないと話せません」
「俺が話す前提なんだな」
「話さない自由はあります」
「それを言うやつほど、話させる気がある」
「はい」
ロトは呆れたように息を吐いた。
「正直すぎて逆に嫌だな」
「よく言われます」
「便利な返しだ」
レオルドは椀を置いた。
ロトはしばらくそれを見たあと、縄の範囲で器用に手を伸ばして食べ始める。急いではいない。毒を疑う素振りもない。腹が減っているのに、がつかない。
こういうところにも癖が出る。
食べ終えるのを待ってから、レオルドは机の上へ炭で写した図を置いた。
「ロトが消えたように見せたあと、確認役が二人来ました」
ロトの手が、わずかに止まった。
「……そうか」
「一人は南西へ。もう一人は北寄りへ」
ロトは答えない。
アイリスが壁にもたれたまま言った。
「顔に出てるわよ」
「出てねえ」
「出てる。南西の方は予想してた顔。北で少し嫌な顔をした」
ロトは黙った。
その沈黙は、さっきまでの軽口とは違う。
レオルドは畳みかけず、少し待った。
急がせれば口を閉ざす。
待てば、沈黙の中から相手の都合が浮かぶ。
ロトはやがて低く言った。
「南西は、流す方だ」
「物を?」
「物も、言葉も。けど、あっちは利で動く。誰が強いかより、どこが太いかを見る」
「商人筋ですか」
「商人だけじゃねえ。密売り、流れ者、荷崩れした元兵、道だけ知ってる老人。そういうのが混じってる」
レオルドは頷いた。
思った通りに近い。
だが、問題は北だ。
「北は」
ロトは口を閉ざした。
アイリスが静かに言う。
「そこは言いたくないのね」
「言いたくねえんじゃない」
「じゃあ?」
「言ったら、俺だけの話じゃなくなる」
部屋の温度がわずかに落ちた。
レオルドはその言葉を、慎重に拾った。
「北は、誰か個人に繋がる?」
ロトは答えない。
「敵兵ですか」
「……違うとは言わねえ」
「本営ですか」
ロトの視線が初めてはっきり動いた。
それで十分だった。
アイリスが小さく息を吐く。
「やっぱりね」
ロトは唇を歪める。
「全部が本営ってわけじゃない」
「全部ではない」
レオルドが繰り返す。
「つまり、一部は繋がる」
「……あんた、嫌な拾い方するな」
「軍配者なので」
「軍配者って、そういう仕事なのかよ」
「最近、そうなってきました」
ロトはしばらく黙った。
やがて、自分でも嫌そうに言う。
「北へ行ったやつは、たぶん戻らねえ」
レオルドは目を細めた。
「どういう意味です」
「南西は戻ってくる。利があるからな。荷も言葉も、往復して太る。けど北は違う」
「報せる方」
アイリスが言った。
ロトは短く頷いた。
「北へ行ったやつは、報せる方だ。一度行ったら、戻る必要がない。少なくとも、同じ線では戻らねえ」
それは大きい情報だった。
南西は流通。
北は報告。
つまり二つに割れた足跡は、同じ組織の二方向ではなく、性質の違う二つの流れを示していたのだ。
レオルドは静かに問う。
「誰へ報せる」
「そこは言わねえ」
「知らないのではなく?」
「知ってる名前もある。知らねえ名前もある。けど言わねえ」
「理由は」
ロトは顔を上げた。
「俺が運び屋だからだ」
その声には、これまでで一番はっきりした芯があった。
「俺は捕まった。そこは俺の失敗だ。
けど、運んだ先の名を売ったら、俺はもう運び屋じゃねえ。
ただの口の軽い死に損ないだ」
アイリスが、少しだけ目を伏せた。
「騎士みたいね」
「一緒にするな」
「同じじゃない。でも似てる」
ロトは嫌そうな顔をしたが、完全には否定しなかった。
レオルドは机上の図を引き寄せた。
「では、名前は聞きません」
ロトが怪訝そうに見る。
「聞かねえのか」
「今は」
「何が聞きたい」
「北へ行った報せが、どれくらいで意味を持つか」
ロトの目が少し変わった。
「時間か」
「はい」
「……早けりゃ二日。遅くても四日」
「何が起きる」
「買うやつが動く」
「情報を?」
「そうだ。北へ行く報せは、すぐ兵を動かすとは限らねえ。先に買い手が動く。どの情報が値になるか見る」
「買い手……」
レオルドは小さく呟いた。
本営か。
敵か。
商人か。
あるいはその全てか。
ロトは言った。
「北は、正しい旗を立ててる連中が買う。南西は、腹を満たす連中が使う。そう覚えとけ」
アイリスが眉をひそめる。
「正しい旗、ね」
「皮肉か?」
「半分は」
ロトは視線を逸らした。
「旗があるやつほど、裏の道を使いたがるんだよ。自分の旗を汚したくないからな」
その言葉は、妙に重かった。
聞き取りを終えたあと、小部屋を出ると、アイザックがすぐに寄ってきた。
「どうだった」
レオルドは短く答えた。
「二つの線は、性質が違います」
そして小部屋で聞いたことを説明した。
南西は、利で動く流通線。
北は、報せる線。
北へ行った者はおそらく戻らない。
そして報せは二日から四日で意味を持ち始める。
アイザックは黙って聞いていたが、最後に低く言った。
「つまり、時間がない」
「はい」
「二日から四日の間に、何かがこっちを見る」
「そうなります」
ミレナも合流し、話を聞いたあとに呟いた。
「二つの敵、ね」
ガルグが顔をしかめる。
「敵なのか? 南西の方は商人とか流れ者なんだろ」
ミレナは地図を見たまま答えた。
「敵になるかもしれないものよ」
アイリスが頷く。
「南西は利で動く。利をこちらに向ければ味方にもなる。敵が高く買えば敵にもなる」
「面倒くせえな」
「辺境ですから」
レオルドが言うと、ガルグは半眼になった。
「お前のそれ、うつってきてるぞ」
「誰に」
「全員にだよ」
その場に少しだけ苦笑が広がった。
けれど、すぐにまた地図へ戻る。
レオルドは二つの線を見比べた。
南西は、太らせれば使える。
北は、放っておけばこちらを売る。
同じ“灰舌の網”に見えても、性質が違う。
ならば叩き方も違う。
「南西は叩きません」
レオルドが言うと、ガルグが目を丸くした。
「は?」
「まだ叩かない。むしろ、先に話す相手を探します」
「敵にかよ」
「敵と決まっていません」
アイザックが腕を組む。
「北は」
「見ます。できれば、報せの買い手が動く前に」
ミレナが言う。
「両方やるのね」
「はい」
「欲張り」
「必要なので」
「やっぱりうつってるわ」
ミレナの小さな皮肉に、今度はレオルドが少しだけ口元を緩めた。
夜、記録帳にはこう残した。
【第五十八日 所見】
・ ロトより、南西線と北寄り線の性質が異なると判明
・ 南西線は利で動く流通線。商人、密売り、流れ者、元兵などが混じる
・ 北寄り線は報せる線。一度流れた者は同じ線では戻らない可能性高い
・ 北へ行った報せは二日から四日で意味を持つ
・ 敵は一つではない。利で動く者と、報せを買う者がいる
最後に、一文。
【所感】
二つに割れた足跡は、二つの敵を示していた。
ただし片方は、まだ敵と決めるには早い。
敵にするか、こちらの流れに変えるかは、次の数日で決まる。




