第50話 名前を失った見張り所へ
名前を失った場所には、二種類ある。
本当に死んだ場所。
そして、まだ死に切っていないのに、誰からも正しく呼ばれなくなった場所だ。
前者は、風と雨に削られて静かに土へ還る。
後者は、忘れられたふりをしたまま、誰かが勝手に使い始める。
辺境で厄介なのは、たいてい後者だった。
第四十九日の夜に、南の無名の線を次の目標候補と定めてから、フロストゲート砦の朝はまた少しだけ張り詰めていた。
大きな敵襲が来たわけではない。
本営から新しい書状が届いたわけでもない。
旧中継小屋が燃えたわけでもなければ、村に死人が出たわけでもない。
それでも空気が違うのは、次に噛みにいく場所が決まったからだろう。
人は、漠然と不安な時より、危険の形が定まった時の方が妙に静かになることがある。
逃げ道のない怖さではなく、どこを見るべきか分かった怖さに変わるからだ。
朝の内庭では、ドルゼンが旧中継小屋へ回す予定だった短材を前にして、露骨に機嫌の悪い顔をしていた。
「だから言ってるだろうが、長さを揃えろと!」
若い兵が肩をすくめる。
「揃えたら運びにくいんだよ」
「運びにくかろうが使えなきゃ薪だ!」
横からラグが口を挟んだ。
「だったら最初から薪用と材用で分けろよ」
ドルゼンがぴたりと動きを止める。
「……お前、今ちょっとだけまともなこと言ったな」
「“ちょっとだけ”が余計だ!」
その怒鳴り合いを聞きながら、レオルドは小さく息を吐いた。
良い兆候だ。
怒鳴っている。
だが、その怒鳴りの中身が“どうすれば回るか”へ向いている。
最初の頃のフロストゲートなら、こういうやり取りはもっと空疎だった。苛立ちがそのまま苛立ちへ返るだけで、何も積み上がらなかった。
今は違う。
皆が自分の役割の中で文句を言っている。
それはもう、ただの不満ではなく現場の会話だった。
「見てるな」
背後からアイザックの声がした。
「少し」
「少しって顔じゃない」
副官はレオルドの隣に並ぶと、内庭の騒がしさを見渡した。
「で。決まりか」
「何がです」
「次に見る場所だ」
レオルドは頷いた。
「ええ。
ただし、本当にそこが“旧見張り所跡”か、“崩れた関所跡”かまではまだ分かりません」
「名前はどうでもいい」
アイザックは短く言う。
「使われてるかどうかだ」
「その通りです」
副官は少しだけ口元を歪めた。
「最近、お前にそう言われると腹が立たなくなってきた」
「それは良い変化でしょうか」
「少なくとも悪くはない」
二人の視線が、机の上の地図へ落ちる。
フロストゲート砦。
村。
旧中継小屋。
その先、南へ細く折れていく道。
そしてガルグが見つけた“見慣れない布の目印”の位置。
「今日行くのか」
「はい」
「人数は」
「前回と同じが基本です。
ただ、今回はもう少し“見て戻る”に徹する必要があります」
「旧中継小屋の時よりもか」
「はい。
向こうは、まだ本当に何がいるかも見えない。
ただの目印かもしれないし、荷のやり取りかもしれない。
あるいは、敵と流れ者と商いの線がもっと複雑に混じっている可能性もある」
アイザックは地図の南端を指で叩いた。
「つまり、余計に面倒だ」
「かなり」
「やっぱりその返しは腹立つな」
だが、その顔には少し笑みがあった。
出る面子は、結局前回とほぼ同じになった。
レオルド。
アイザック。
ガルグ。
アイリス。
リド。
この五人が、今のフロストゲートで最も“線の先を見る”のに向いている。
それはもう、砦の中でも暗黙の了解になりつつあった。
門前でミレナが短く言う。
「今度は深追いしないで」
ガルグが反射的に言い返す。
「誰に言ってんだよ」
「全員よ」
ミレナは一歩も引かない。
「特にあんた」
「何でだよ」
「あんたが一番、“変な匂いがする”で前に出るから」
ガルグは舌打ちしたが、否定はしなかった。
アイリスが横で小さく笑う。
「図星ね」
「うるせえ」
「でもそこは嫌いじゃないわ」
「褒めるならちゃんと褒めろ」
レオルドはそのやり取りを聞きながら、少しだけ安心する。
不揃いではある。
だが、この不揃いさはもう崩れやすさではなく、役割の差になり始めている。
リドは出発前に弓弦を確かめながら、小さく訊いた。
「今回は、旧中継小屋より遠いですよね」
「ええ」
「戻り、遅くなるかもしれませんか」
「可能性はあります」
若い弓兵は少しだけ喉を鳴らし、それから頷いた。
「分かりました」
その返事の仕方が、前よりずっと安定していた。
怖がらなくなったわけではない。
だが怖さを抱えたまま、役目を先に置けるようになってきている。
セラは水袋を二つ持ってきて、いつものように無造作に押しつけた。
「今日は乾きやすい風だよ。
水をケチるな」
「助かります」
レオルドが受け取ると、彼女はついでのように言う。
「あと、“見て戻る”なら、ちゃんと戻ってきな。
鍋が一つ多く炊けるようになったばっかりなんだから」
それはたぶん、今のフロストゲートにおける最大限に近い“気をつけて”だった。
道は、旧中継小屋までならもう見慣れたものになりつつあった。
崩れ沢。
細い旧道。
途中の目印代わりに使う白い石。
どこで足を軽くし、どこで息を殺すかも、五人とも前よりよく分かっている。
問題は、その先だった。
旧中継小屋を越え、さらに南へ下ると、空気が変わる。
砦の影響が薄くなる。
村の流れも細る。
そこから先は、まだこちらの手が十分には届いていない場所だ。
人の通った跡はある。
だが“こちらの人が通った跡”ではない。
その曖昧さが、地面の踏まれ方や枝の払われ方ににじんでいる。
旧中継小屋で一度、軽く周囲を確認したあと、五人は南へ折れた。
そこからは、街道と呼ぶには痩せすぎた線になる。
草に食われ、泥に切れ、ところどころで人が無理やり繋いだような細さだ。
馬車は無理だ。
荷車も厳しい。
人と、せいぜい背負い荷が通れる程度。
「本当に死にかけてるな」
ガルグが前を見たまま言う。
「ええ」
レオルドが答える。
「でも死んではいません」
「そういうの、匂いで分かるのか」
「匂いでも、足でも」
「気持ち悪いな」
アイリスがすぐ後ろから口を挟む。
「今さらでしょ」
「うるせえ」
そんなやり取りをしながらも、皆の目は笑っていなかった。
ガルグが見つけた布の目印――それが本当にただの布切れならいい。
だが辺境で、木に布が結ばれている時は、だいたい誰かの意味がある。
進むにつれ、地形が少しだけ持ち上がった。
なだらかな高み。
周囲よりほんの少しだけ見通しが良く、風も抜ける。
見張りを置くには悪くない。
逆に言えば、昔そこが見張り所だったという話にも納得がいく。
「止まれ」
ガルグが低く言った。
五人がぴたりと足を止める。
前方の木、その幹に、細く裂いた布が結ばれていた。
褪せた灰色。
遠目にはただの朽ちた布だ。
だが近づけば、それが意図を持って結ばれているのが分かる。
リドが小声で言う。
「これ……」
「触るな」
レオルドが即座に言う。
若い弓兵が手を止める。
アイリスが布を見ながら目を細めた。
「王国式じゃない」
「分かるんですか」
「ええ。
もっと雑。
でも雑なりに“見落とさせない位置”にある」
ガルグが低く唸る。
「流れ者か」
「かもしれない」
アイザックは周囲の木立を見回してから言う。
「布だけじゃないな」
その一言で、レオルドも意識を広げた。
たしかにそうだった。
枝の払い方。
草の倒れ方。
そして、少し先の地面に残る擦れた跡。
ここは、ただ通るだけの場所ではない。
誰かが一度止まり、見て、また動く。
そういう“間”がある。
「見張り所跡ですね」
レオルドが言う。
「完全な拠点ではない。
でも、ただの道でもない」
ガルグが鼻を鳴らす。
「厄介だな」
「かなり」
今度は誰もその返しに突っ込まなかった。
五人はさらに慎重に進む。
高みの先に、石積みの崩れた痕が見えてきた。
壁と呼ぶには低い。
だが、意図的に積まれた跡だ。
そのすぐ横には、屋根が落ちて半分だけ骨組みの残った小屋らしきものもある。
「あれか」
アイザックが低く言う。
「たぶん」
レオルドは頷いた。
名前を失った見張り所。
あるいは、崩れた関所跡。
どちらでもいい。
大事なのは、そこがまだ“使える形で残されている”ということだった。
そして、その答えを裏づけるように、さらに一つの気配が見えた。
小屋の裏、崩れた石の陰に、火を使ったばかりの灰がある。
新しい。
半日前か、一日前か。
だが風に飛ばされきっていない。
つまり、やはり誰かがいる。
完全に死んだ場所ではない。
「今日はここまでだな」
アイザックが言う。
「ええ」
レオルドも同意した。
「十分です」
ガルグが不満そうに肩を揺らす。
「また見るだけかよ」
「また、です」
「何回見る気だ」
「必要なだけ」
「嫌なやつだな」
だが彼も本気ではなかった。
ここまで来れば分かる。
今ここで中へ踏み込むのは、旧中継小屋の時以上に悪手だ。
見張り所跡は、小さい。
小さいからこそ、誰がいて、どう使っていて、何を通しているかを見誤ると全部が敵になる。
今はまだ、その段階ではない。
引き返す前、リドが小さく言った。
「ここ、何て呼ぶんですか」
その問いに、誰もすぐには答えなかった。
名前がない。
だから便宜上、“南の見張り所跡”でも“崩れ関所”でも呼べる。
だが、そういう場所ほど本当に手に入れた時に名前を与えた方が強いと、レオルドは思っていた。
「今はまだ」
やがて彼は答えた。
「名前を失った見張り所、でいいでしょう」
アイリスが少しだけ笑う。
「長いわね」
「取れたら短くします」
「その言い方、もう取る気満々ね」
「候補としては」
「便利な言い回し」
「かなり」
帰路、五人の足は来た時より少し早かった。
輪郭が見えたからだ。
次に見るべき場所。
まだ名前を失ったままの、小さな見張り所跡。
そこを生かせれば、旧中継小屋の先にもう一段、息継ぎの場所ができる。
そしてその先で、さらに別の線が見えてくるはずだ。
フロストゲートは、もう戻れないところまで来ている。
守るだけでは足りない。
だからまた、見て、読み、少しずつ取り返していくしかない。
砦へ戻ったその夜、レオルドは新しい頁へ短く書いた。
【第五十日 所見】
・ 南の無名の線に、旧見張り所跡らしき場所を確認
・ 布の目印あり
・ 火の痕あり
・ 完全に死んだ場所ではない
・ 次の“息継ぎ地点”候補として有力
最後に一文。
【所感】
名前を失った場所は、死んだから忘れられたとは限らない。
まだ誰かが勝手に使っているからこそ、こちらが先に名を与え直す必要がある。




