第49話 次に取るべき線は、まだ名前を持っていない
勝ったあとの地図ほど、厄介なものはない。
負けている時の地図は単純だ。
穴が見える。
薄い場所が見える。
足りないものが見える。
どこを埋めるべきか、嫌になるほどはっきりしている。
だが、一度でも持ちこたえ、一本でも線を取り戻し、そこへ人と物が流れ始めると、地図は急に面倒になる。
ここも欲しい。
あそこも放っておけない。
次に取れば楽になる場所が三つも四つも見えてしまう。
そしてその全部を、本当に一度には取れない。
第四十九日の朝、レオルドはまさにそういう地図の前に立っていた。
小部屋の机の上には、砦の図、村の図、旧中継小屋までの運用図、それにオルダが記憶を頼りに書き足した古い街道線が広げられている。
羊皮紙は端が擦れ、炭の印は何度も書き直されていた。
見るからに“生きている地図”だった。
フロストゲート砦。
焼けた村。
旧中継小屋。
西寄りの崩れ道。
南へ下る薄い街道。
そして、そのさらに先にある、まだ輪郭しかない候補地。
旧見張り所跡。
崩れた関所跡。
あるいは、いまは名前すら失った小さな荷休め場。
どれも半端だ。
どれも、今の砦から見れば“次に息を継がせるにはちょうどいい”場所に見える。
だからこそ厄介だった。
「まだ睨めっこしてるのかい」
後ろから声がした。
セラだ。
鍋を扱う女の足音は意外と軽い。
彼女は片手に湯気の立つ木椀を持ち、もう片方の手で腰を押さえていた。
「少し」
レオルドが答えると、セラは木椀を机の端へ置いた。
「少し、って顔じゃないね。
そういう時のあんた、だいたい厄介ごとの匂いしかしないよ」
「かなり」
「最近ほんとその返ししかしないね」
だが、彼女はそのまま地図へ目を落とした。
「どれだい」
「何がです」
「次に噛みつく場所さ」
レオルドは少しだけ目を細めた。
セラは兵でも軍配者でもない。
だが、今のフロストゲートでは、鍋と火の流れを握る者は人の流れにも敏い。
そういう意味では、十分に“どこが次か”を嗅ぎ取る側になっていた。
「まだ名前が定まっていません」
「名前がない場所かい」
「ええ」
「嫌だねえ。そういうのは大抵、死にかけか、死にかけを通り越して忘れられた場所だろう?」
「たぶん、その通りです」
セラは鼻を鳴らした。
「だったら、余計に厄介だ。
忘れられた場所ほど、誰かが勝手に使ってる」
その一言で、レオルドは少しだけ視線を上げた。
やはり、この女は本質を外さない。
忘れられた場所。
名前の消えた線。
そういうところから、敵も流れ者も、商人も本営も、思いがけない手を伸ばしてくる。
辺境とはそういう場所だった。
「助かります」
「何がだい」
「今の言葉で、少し絞れそうです」
セラは呆れたように息を吐いた。
「鍋を見に来たつもりが、地図の味付けまでさせられるとはね」
「褒め言葉として」
「違うよ」
だが、その言い方は前よりずっと柔らかかった。
セラが部屋を出たあと、レオルドは改めて地図を見た。
忘れられた場所。
誰かが勝手に使っている場所。
それなら、候補は一つに近づく。
旧中継小屋のさらに南、街道が一度だけ浅く折れる場所。
そこには昔、小さな見張り所兼荷改めの小屋があったらしい。
今は崩れ、正式な地図からもほとんど消えている。
だがオルダは、そこに薄く指を置いてこう言ったことがある。
“あそこは、死んだようでたまに臭う”
それがずっと引っかかっていた。
臭う。
つまり、人か荷か、どちらかが完全には絶えていない。
「そこか……」
レオルドが小さく呟いたところで、扉が二度叩かれた。
「入ってください」
入ってきたのはミレナだった。
帳面を抱えている。
だが、ただ届け物に来た顔ではない。
「村の方で、変な話が出た」
それが第一声だった。
「どんな」
「南へ下る道の途中で、“見たことのない旗みたいな布切れ”を木に結んであったって」
レオルドの視線が自然と地図へ落ちる。
「どのあたりです」
ミレナは帳面を開き、簡単な地図に印をつけた。
そこは、まさにレオルドが今見ていた位置の少し手前だった。
旧中継小屋の先。
南へ折れる街道。
崩れた見張り所跡があるかもしれない辺り。
「……やっぱり」
ミレナが低く言う。
「何かいますか」
「いる、というより、まだ何かに使われている可能性が高いですね」
ミレナは無言で頷いた。
彼女ももう、この種の話の重さをよく知っている。
辺境で“変な布が結ばれていた”は、ただのいたずらでは終わらないことが多い。
目印。
連絡。
境界。
そういう意味を持つ。
「ガルグが見つけたの」
「彼が」
「川の方から戻ってくる時に気づいたらしい。
引き返そうか迷ったけど、まず知らせる方を選んだって」
その言葉に、レオルドは小さく息を吐いた。
よく育っている。
前のガルグなら、気づいた瞬間に一人で噛みつきに行っていたかもしれない。
今は“まず知らせる”を選べる。
それだけで大きい。
「本人は何て?」
ミレナは少しだけ口元を緩めた。
「“変な匂いがするからムカつく”って」
レオルドは少しだけ笑った。
「彼らしい」
「でも、前よりちゃんと流れで話してる」
「ええ」
二人がそう話していると、また別の足音が近づいてきた。
今度は重い。
ドルゼンだ。
扉を開けるなり、ドワーフ技師は不機嫌そのものの顔で言った。
「旧中継小屋の南へ回す材、ちょっと待て」
「何かありましたか」
「材の話じゃねえ。
あそこからさらに先へ手を伸ばすなら、今の線じゃ荷が痩せる」
それもまた、今レオルドが考えていたことそのものだった。
ドルゼンは地図の前まで来ると、勝手に炭を取って線を足した。
「ここ」
彼が示したのは、旧中継小屋から南へ折れる線の途中、わずかに高くなった地形だった。
「ここで一度、荷を軽く休ませる場所がいる。
屋根なんざ立派じゃなくていい。
だが、雨を避けて、荷を浮かせて、二人寝られるくらいの“間”は必要だ」
ミレナが静かに言う。
「旧見張り所跡かもしれない場所ね」
「たぶんな」
ドルゼンは鼻を鳴らした。
「名前が消えてようが、使うなら生き返る。
逆に使わねえなら、地図にあっても死んでるのと同じだ」
その言葉は、あまりにもこの作品の核心に近かった。
名前があるかどうかではない。
生きているかどうかだ。
人が通り、物が流れ、少しでも次へ繋がるなら、その場所はまた息を吹き返す。
「決まりですね」
レオルドが言うと、ミレナとドルゼンが同時に視線を向けた。
「まだ決めるには早いわ」
ミレナ。
「見るだけで済むなら、その方が楽だぞ」
ドルゼン。
どちらも正しい。
だが、もう輪郭は出ている。
「いえ」
レオルドは首を横に振った。
「次に取るべき線は、そこです。
ただし“取る”の前に、また見ます。
今の旧中継小屋の時と同じです」
ドルゼンがにやりとした。
「やっぱそこへ戻るか」
「壊れ方を知らずに直すのは危険なので」
「好きだな、その理屈」
「便利なので」
そこへさらに、アイザックとガルグ、そしてリドまで入ってきた。
どうやら廊下で何となく話が漏れていたらしい。
フロストゲートでは最近、重要な話ほど完全に密閉しきれない。
それは欠点でもあり、同時に“皆がちゃんと自分の線だと思っている”証拠でもあった。
「何だよ、もう決めてんのか」
ガルグが言う。
「まだ半分です」
「半分?」
「見る場所は決まりました。
どう取るかはそのあと」
ガルグは口元だけで笑う。
「いいな。
そういうのは嫌いじゃねえ」
リドは地図の南寄りを見ながら、少し不安そうに言う。
「旧中継小屋より、もう一段遠いですよね」
「ええ」
「見張るの、大変そうです」
「大変です」
レオルドは頷いた。
「だからこそ、ちゃんと取れれば一段大きい」
その答えに、若い弓兵は静かに息を吸った。
不安はある。
だがそれでも、怖いだけで終わらない顔になっている。
アイザックはしばらく黙って地図を見ていたが、やがて言った。
「本営の返書は並行だ」
「はい」
「旧中継小屋の安定化も止めない」
「もちろんです」
「その上で、南の無名の線も見る」
副官は小さく息を吐いた。
「本当に、守るだけじゃ済まなくなったな」
「ええ」
レオルドは答える。
「もう戻れません」
その言葉に、部屋の中は静かに頷いたような空気になった。
誰も大げさなことは言わない。
まだ成功したわけでもない。
だが皆、同じことを感じている。
フロストゲートは、もうただ持ちこたえるだけの場所ではない。
一つ線を取れば、その先の線が見えてしまう。
見えてしまった以上、放っておくのは逆に危うい。
その夜、レオルドは記録帳を開き、新しい頁へ書いた。
【第四章 始】
・旧中継小屋の先に、さらに南の無名の線あり
・ 村側で目印となる布確認
・ ガルグ、異変を察知して報告
・ 次に取るべきは、“まだ名前を持っていない場所”の可能性高い
そして最後に、一文。
【所感】
次に取るべき線は、まだ名前を持っていない。
だからこそ、今のうちにこちらの名前で呼べる場所へ変えなければならない。
蝋燭の火が揺れる。
外では風が鳴り、砦のどこかで木が軋む音がした。
死にかけの砦だった頃なら、その音はただ不安の音だっただろう。
今は違う。
その音の先に、まだ見ぬ線がある。
まだ誰のものでもない場所がある。
そしてそこへ、こちらの手を伸ばせるだけの人と流れが、もうここには揃い始めている。




