第42話 去る者が残していく火種
人は去る時に、本音を少しだけ残すことがある。
名残惜しいからではない。
自分が完全に負けたまま去るのが嫌だからだ。
エドガルが帰り支度を整えたのは、第四十二日の昼前だった。
結局、彼はフロストゲートで数日を過ごし、砦と村と旧中継小屋の線まで一通り見た。
その間、何度も現場のやり方へ眉をひそめ、何度か小さく譲歩し、そして一度たりとも完全な納得は口にしなかった。
それでいいとレオルドは思っていた。
完全に納得される必要はない。
少なくとも「辺境の勝ち方にも理がある」と認めさせるだけで十分だ。
問題は、彼が何を持ち帰り、中央でどんな顔をするかだった。
南門前には、アイザックとレオルド、それにミレナもいた。
「世話になった、とは言わん」
騎獣へ乗る前に、エドガルはそう言った。
「言ってもらうつもりもありません」
レオルドが返す。
使者は小さく鼻を鳴らした。
「ただ、一つだけ訂正しておく」
「何を」
「私は最初、ここを“勝手な現場”だと思っていた」
「今は違いますか」
エドガルは少しだけ空を見た。
「今も、勝手なところはある。
だが少なくとも、何も考えずに暴れている現場ではなかった」
それはこの男にしては、かなり大きな譲歩だった。
ミレナが冷たく言う。
「褒め言葉として受け取っておくわ」
「好きにしろ」
エドガルはそれには反発せず、続けた。
「だが、本営へは本営の言葉で上げる。
そこは変わらん」
アイザックが低く言う。
「つまり、面倒は続く」
「そうだ」
使者はあっさり頷いた。
「あなた方が辺境で独自に強くなれば、中央は必ずそれを気にする。
善悪ではなく、そういうものだ」
その言葉に、妙な誠実さがあった。
完全に味方ではないからこそ、変に慰めたりしないのだろう。
「一つ、忠告を置いていく」
エドガルがレオルドを見る。
「今のフロストゲートは、敵にとっても、本営にとっても、“辺境の小砦”では済まない。
だから次は、勝つことそのものより、“誰にどう見えるか”まで含めて戦え」
そう言い残し、使者は去った。
土埃が少しだけ舞い、その背中が南の道へ溶けていく。
セラは門前で腕を組んで、去っていく姿を見送りながら言った。
「最後まで感じの悪い男だったねえ」
アイザックが鼻を鳴らす。
「感じの悪いまま、少しは話が通るようになっただけましだ」
「それ、ずいぶん低い評価じゃないかい」
「本営相手なら高い方だ」
その日の空気は、表向き少しだけ軽かった。
厄介な監査役が去った。
兵たちも、村人も、あからさまには言わないが肩の力を抜いている。
だが同時に、誰もが分かっていた。
終わったわけではない。
むしろ、去ったからこそ残るものがある。
報告。
印象。
本営の視線。
それらはすべて、形を変えてまた戻ってくる。
その夕方、レオルドとアイザックは東壁の上にいた。
風は冷たく、南東林は相変わらず黒い。
旧中継小屋の方向には、細いが確かな線が生きている。
「どう見る」
副官が訊く。
「使者のことですか」
「それもある。
それ以外も含めてだ」
レオルドは少し考えてから答えた。
「一難は去りました」
「二難三難は」
「たぶん、道の途中です」
アイザックが小さく笑う。
「お前、本当にそういう言い回しが嫌いじゃないな」
「最近は少し」
「影響されたか」
「かもしれません」
それから副官は少しだけ真顔に戻った。
「本営は、また来る」
「ええ」
「今度はもっと、露骨な形かもしれない」
「そうでしょうね」
「それでも、お前はやるか」
レオルドは壁の外を見る。
砦。
村。
旧中継小屋。
そこに生まれ始めた細い流れ。
まだ簡単に切れる。
だが、ここで止めればまた前へ戻るだけだ。
「やります」
短く、そう答えた。
その夜、記録帳へ書きつける。
【第四十二日 所見】
・本営使者エドガル帰還
・ 完全な理解ではないが、現場の理屈は一部認識させた
・ ただし本営の視線は今後さらに重くなる見込み
最後に一文。
【所感】
去る者は、面倒ごとを持ち去るだけではない。
次に燃える火種も、だいたい一つは残していく。




