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第55話 決意の時 1

 天狼の(じゅん)はひらりと水辺に降りたった。准、と名を呼びながら静湖(しずみ)が駆けよると、背にまたがった朔夜(さくや)が声をかけてきた。


「君が〈流の祭司〉の静湖くんだね」

「は、はい」


 先刻、朔夜の幻影とその音楽は、谷間に落ちそうになっていた静湖を引きあげこの神域まで導いてくれた。だが朔夜はそのときのことには触れず、はじめまして、と挨拶を投げかけてきた。


「私はかつて〈流の祭司〉を務めた朔夜という者。長らく〈(ソラ)〉にたゆたい、王国の行く末を見守ってきました。そちらは──」


 朔夜は地に降りて、まばゆいものを見るように目を細めた。視線を受けて、草原(くさはら)に座っていた更紗(さらさ)が立ちあがる。朔夜は膝をつき、かしこまった礼をした。


「聖妃様、ご無事で」

「名ばかりの妃ですけれど」


 更紗も朔夜に向きあい、巫女装束の胸に手を当てて礼を返す。


「准、僕のお母さんだよ」


 静湖ははにかみながら更紗を紹介する。


〝しずのお母さん、はじめまして。しずの友達の准です〟


 更紗は准のもとに寄って毛並みをなでた。


「家に来てくれましたね」

〝この姿でもわかるんですか〟

「〈宙〉の者となってから、私は音を見るようになったから。とてもいい音楽だわ」


 そのとき、木立の向こうからがさがさと音がした。

 皆が目を向ける中、青い神官服の男が水辺へ転がりでてきた。神官長の柘榴(ざくろ)であった。更紗が驚きの声をあげる。


「柘榴、よくここまで……」

「更紗様……?」


 更紗の付き人であった柘榴は、なにごともなければ巫女を引退した更紗の伴侶となるべき人であった、という話を静湖は思い返す。柘榴の顔には、失われた女神と思いもかけず引きあわされた驚愕が広がる。

 柘榴は更紗にふらふらと近づいていく。


「更紗様、ご無事でいらっしゃったとは……ここは〈宙〉の中なのですか? 私も〈宙〉に呑まれてしまったのですか? 皆様は一体ここでなにを……?」

「柘榴。私は今では〈宙〉の存在。あなたは静湖を探しに来てくれたのでしょう? 皆、無事ですから安心なさい」


 更紗が微笑むと、柘榴は、はい、と声を詰まらせた。


 曇天のもと冷たい風が吹き、水面(みなも)をさざめかせた。更紗は笑みをひそめる。


「風向きが変わりました。私が体を保てるのも、ここまでのようです」

「そんな、更紗様」

「お母さんっ」


 柘榴はすがるように声をあげ、静湖は思わず母の服の(そで)をつかむ。

 更紗は朔夜に目配せをしながら、落ちついた声で言った。


「〈宙〉の力を強める混沌の風──北の山脈、王都からの風です。王都は今、白き〈(リュウ)〉による意図的な〈反転〉のさなかにあり、〈宙〉に呑まれつつあります」

「王都が、白流(しろる)による〈反転〉の中に?」


 静湖がつぶやくと、朔夜が重くうなずいた。

 更紗は静湖をしゃんと立たせ、正面から目を見つめた。


「静湖。これは私が、この広き波空国の妃として言うこと。あなたと、近しい人たちの力で、白き〈流〉を説得してほしいの」


 えっ、と静湖は身構える。


「僕が……〈流の祭司〉として?」

「そう。あなたにしか、頼めないわ」


 真剣に語りかける更紗の横から、朔夜が口を挟んだ。


「……聖妃様。静湖くんに、生まれの事情は話されましたね」


 ええ、と更紗が答えると、朔夜は静湖をじっと見つめて淡々と言った。


「静湖くん、わかったよね。君の父王、天海は君の本当の父ではない。君を養子に迎え、育てた父だ」

「あ……」


 静湖はぽかんと口を開く。天海が父であることを疑ったこともなかった。だが更紗の話によれば、静湖は()()()()()()()()()のであり、天海と血のつながりはない──。

 朔夜はたたみかける。


「君は養子の王子だ。本来はこの地方領国、光海国(ひかるみこく)の子であり、波空王家と血縁上のかかわりはない。()()()()()()()()()()()()()()

「そんな、でも僕はっ」


 静湖はなにかを訴えようと必死に言葉を探す。

 言えることは、多くはなかった。


「僕は、波空の子です」


 そして震える声で付け加えた。


「皆を助けたいです。白流の〈反転〉を止めたい。義理じゃなく、それが僕の願いだから。大好きな人たちを思っているから」


 皆が静湖の言葉にしんと聞き入る。朔夜はふっと笑った。


「……そうだね。突きはなすような言い方をして悪かった。王家が養子によって存続された例は過去にもあり、君の妹の望夢(のぞむ)さんも養子だ。君は正式な波空の王子だよ」


 そこまで言い、朔夜は表情を険しくした。


「だからなおのこと、巻きこまれず生きていてほしい、と御影は君を逃がしたのだろう。それでも王都の皆を助けたいというのかい。君にしか決められないことだ」


 でも、と静湖ははっきりと言った。


「白流は僕の言うことになら耳を貸してくれると思う。それに僕は──この国の〈流の祭司〉です」


 先ほどは言えなかった言葉を口にすると、准がぐいと皆の間に進みでた。


〝僕はしずを支える友達です。しずが王都に行くなら、僕も〟

「ありがとう、准」


 准の鼻先に手を添える静湖を見て、朔夜も納得したようにうなずく。


「お母さん、僕たち、白流と話しに行きます」


 はっきりと告げた静湖の頬を、更紗が両手で包む。その手はすでに実体がなかった。心の中に、更紗の声が響く。


〝いつでも、見ているから〟

「更紗様!」


 柘榴が更紗に駆けより、消えていく姿をつかもうと手を伸ばす。

 すると更紗も、静湖の頬に片手を当てたまま、もう片の手を柘榴に差しのべた。背景の水面(みなも)ににじんでいく更紗が、少し寂しげに問いかける。


〝柘榴。ともに行きますか、〈(ヒト)〉を超えた世界へ〟


 柘榴の手がびくりとはねる。


「あ……あ……」


 彼は蒼白になり、がくりと膝を落とし、地に向けて吠えた。


「お許しください! 私は地面を離れられぬ人間です。人間として、この地を守っていきますゆえ……!」


 更紗がそれを見おろす。慈愛とも諦観ともとれぬまなざしを注ぎ、すべてを許容するように笑む。


〝静湖。柘榴。皆、自分にしか決められぬこと。悔いのない道を進んで──〟

「お母さん……っ」


 更紗の声と姿が、揺れて薄れ、消え去った。


 やがてこの神域をつかさどる女神が消えたかのように、あたりには不穏な音楽が湧きあがった。朔夜が片手をあげ、風を詠みながら言う。


「不安定になった〈宙〉は危険だ。離脱しよう。准くん、三人運べるかい」


 准がうなずくと、朔夜は背にまたがり、静湖と柘榴を引きあげた。おぉぉんと一声吼え、准は大空へ飛翔する。静湖は上空から神域の滝を見おろし、そこで見た幻を胸に抱きながら心の内でつぶやいた。


 ──お母さん、父上、御影、ありがとう。今度は僕が、力になるから……。


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