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第50話 宙の淵 2

 魔術師が光ない双眸(そうぼう)でじっと静湖(しずみ)を見おろしてくる。氷のような視線が、ふと憂いあるものに変わる。幻影と知りながら、静湖の胸はしめつけられた。


 ──ああでも御影はいつだったかこんな顔をしていた……、そしていつの日かこんな顔をして、僕を〈流の炉〉に……。


 岩をつかむ手の力が抜けていく。絶体絶命の状況は、静湖を絶望へいざなった。


 山道から小石を蹴りおとされれば、静湖はたやすく奈落へ落ちてしまうだろう。だが魔術師はそれをせず、代わりに一声、歌った。


〝救いの葬送を〟


 見おろす瞳の哀しみに溶かされるようにして、静湖の体が()()()()()()。消えていく全身の感覚。薄れていく思考、視界、音楽──。


 が、すべてを手放してしまうかと思われたそのとき、静湖ははっと気づいた。


 ──それでも僕は御影が好きだ。


 その思いは去りゆくすべての奥から、青い炎の音楽となって踊りあがった。


 ──御影が本当に〈流の炉〉の犠牲にするために僕を育ててくれたのでもかまわない。御影が僕に向けてくれていた気持ちが、たとえ償いや憐れみからきていたのでもいい。僕はそれでも御影の思いをたくさん受け取ってきた、御影と僕が交わしてきた思いは嘘じゃない!


 思いの炎に歌いこがされ全身に力が巡り、五感が、実体が、他のなにものの中にも溶け去りえぬ音楽となって声をあげる。


「それでも僕は御影が大好きだから──!」


 ごう、と谷を水の流れる音が、周囲の交響曲をかき消した。


 五感が蘇ったことで、耳が雄大な自然の音を拾い、幻の交響曲のよどみの中から静湖を救いだしたのだった。


 魔術師は星々とともに消え、谷と山道の景色が再び確かなものとして現れた。


 静湖は山道から落ちて、崖の途中で小岩をつかんで身を揺らしていた。


「う、く……っ!」


 ──力が足りない、落ちちゃう……!


 そう思ったとき、どこかで会った誰かの音楽が、か細く耳に届いた。


 顔をあげると、その曲はかすかに斜面の上から静湖に向かってきていた。まるで静湖を引きあげようと、細い糸が垂らされているかのように。


 岩から手を離し、その糸のような音楽をつかめたら……、静湖はとっさにそう思った。だが音楽の糸に実体などあるはずはない、と冷静な自分は叫ぶ。


「でも、ここは〈(ソラ)〉だ」


 静湖は口に出して自分を鼓舞する。ここは先ほどの幻影が現れるような不確かな世界。それならばその音楽の糸だって、つかめるかもしれない。


 思いきり崖を蹴って、静湖は音楽に手を伸ばした。


 その手が、何者かの手によって握り返された。


 はっと顔をあげると、崖の上から見覚えある青年が手を伸ばし、静湖を引きあげようと歯を食いしばっていた。綺麗に編まれた銀の髪はうっすらとして、仕立てのよい服をまとった体は透けていた。だがその手だけは、確かなものだった。


朔夜(さくや)さん……!」


 それは雲海地方にて黒の〈流〉に連れられてきた、前代〈流の祭司〉だという朔夜に違いなかった。


 朔夜は苦しげに静湖を捕まえながらも、やわらかみある声で旋律を歌った。一瞬で燃えつきて消えていく流星のような曲を。


 その途端、流星が現れて静湖を乗せたかのように、朔夜の歌った曲が反響して鳴りわたった。静湖は曲の流れに包まれて、崖の上へ引きあげられた。


 静湖の体はもとの山道に至り、さらに斜面を上昇させられていく。それを見送るように、朔夜がふっと微笑んだ。


〝ありがとう〟


 透けていた朔夜の体は、流れに溶けるようにさらさらと消えていった。なにに対して言われた礼だったのだろう……。静湖は斜面の上へ上へと浮かびあがりながら、こちらこそありがとう、とつぶやいた。


 朔夜のものであろう流星の音楽は、静湖を乗せたまま、山のどこかへ導いていった。



 昼過ぎの曇天のもと、(じゅん)は大狼と別れ、狼の姿のまま(がい)の船に帰りついた。


 甲板に降りたつとすぐさま、営業中の喫茶店の入り口から慌ただしく銀鈴の音が響いた。鎧が飛びだしてきたのだ。


「准、おい、どうした!」

〝鎧さん……〟


 准は一歩一歩、鎧に近づく。鎧は走りよってきて准の首を抱いた。


〝しずがいなくなっちゃって、僕は……〟


 鎧の体の確かな温もりに気がゆるみ、准はくずおれるように四つの足を折った。


「大丈夫だ、准。とりあえず休め、な? 人の姿に戻れるか?」


 准はふるふると首を振る。


〝バンダナを失くしちゃったんだ〟


 幼い頃は、狼と人との姿が安定せず、育ての親である鎧にバンダナを結んでもらい人の姿に戻っていた。近年はただのお守りだったが……。


「いい、いい、なら狼のままでいろ、なにも困りゃしねぇ」


 鎧にぽんぽんと頭をなでられ、安心してじわりと涙がにじむ。


〝鎧さん。僕、しずを危険な目にあわせて、守ることもやっぱりできなくて。しずはたぶん流ヶ淵(りゅうがふち)の奥に、僕が大変な目にあった場所に、ひとりで──〟


 その間も、准の心はずっと場の音楽を聴いていた。ぐわりと音酔いし、意識が遠のく。失神する間際、新たな音楽が場に加わり、誰かがこちらに歩いてくるとわかった。その姿を確かめられぬまま、准は意識を手放す。


「その子、自分のよすがとなる音楽がほどけています」


 淡々とした青年の声がかけられた。鎧は船倉のほうを振り向く。


「おまえさんは」


 雲海で拾われ眠っていた青年が、気品を感じさせる足取りで歩いてきた。静湖の親戚の王族で、たしか名は朔夜だったか──と鎧は思い返す。


「おそらくその子は〈(ソラ)〉に触れたのでしょう。しばらく休んだほうがいい」


 天狼の姿の准を親しげにその子と呼ぶが、朔夜の目は真剣だった。


「休めば治るものなのか」


 鎧が尋ねると朔夜はうなずいた。


「ええ、感受性が豊かで音酔いしやすいのでしょう。でも持っている音楽はしっかり強いようですから」


 朔夜は、准に寄りそう鎧のそばへ来ると、改めて礼をした。


「助けていただきありがとうございました。私は波空王家の朔夜という者。長らく〈宙〉をさまよっていましたが、王都に異変が起きて〈宙〉の広域がゆらぎ、体が形を取り戻したようです。今しがた、意識のほうも〈宙〉の中からすくいだしてもらい、目覚めることができました」


 朔夜の語り口は軽やかで、まるでいまだ体などないかのようだ。

 鎧は語られたことを把握しきれず、つっけんどんに返した。


「……すまねぇな。なに言ってるか全然わからん」


 すると朔夜は、すみません、と真摯(しんし)なまなざしを鎧に向けた。


「はっきり言います。この国は今、危機にある。私はその狼の子の力をお借りしたい」


 鎧は面食らい、腕組みして体をそむけた。


「本人に聞きな。元気になったらな」


 朔夜はありがとう、と礼をのべて船のへりへ歩いていった。それから風を詠むかのように曇天を見あげた。


 鎧は、准の狼の体に改めて手を当てる。ふさふさとした毛の下は、静かな呼吸で上下している。鎧にとって准は息子そのものだ。ほんのこの間まで店の手伝いをするだけだったのに、いつのまに王族なぞに頼られるようになったんだかな、と内心で息をつく。だが、狼から人に戻れなくなり帰ってくるなんて。


「まだまだ俺がついててやらぁ、准」


 つぶやきは、誰にも聞かれることなく鎧の胸にしまわれた。


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