34.「実は、ちょっと勉強がしたくて。図鑑をいくつか、貸していただけないでしょうか?」
それから少しの日が流れて。
ドロシーはこの日も調合に勤しんでいた。最近ではクルトも助手のようなことが出来るようになり、仕事のスピードは大幅にアップしている。クルトは努力家で、吸収が早い。ドロシーが教えたことを、すぐに理解しては、新しく教えを乞う。
その姿を見ていると、こういう風に人に教えるのも悪くはないな……と思えてくる。
(とはいっても、私が薬学の教師になることなんて、ないわね)
自分自身でそう思いなおして、ドロシーは「ふぅ」と息を吐いた。
時計の針を見つめれば、もうすぐ父の執務室に行かねばならない。というのも、今日は呼び出されているのだ。
嫌な予感がひしひしと伝わってくるが、ドロシーは考えないようにしていた。……とはいっても、どうしても考えてはしまうのだが。
(夫人教育のことかしら? それとも、別邸のこと?)
いや、前者は母が指揮を執っているし、父がとやかく言うことはないだろう。後者の近況は執事から聞いているし、特別改まって話すようなことはない。
そうなれば、一番に思いつくのが――社交のこと、だろうか。
(まぁ、それが無難よねぇ。お母様も、うちでパーティーを……と、おっしゃっていたもの)
それは多分、というか、間違いなく。ドロシーとルーシャンの関係を周囲に知らしめるためのものだろう。エイリーンのような輩が出ないための、けん制でもあるはずだ。現在の二人の関係は良好だ。そう、周囲に印象付けたいはずだから。
「……まったく、貴族って面白くないわ」
小さくぼそっとそう呟けば、ふと側にいたクルトがきょとんとしたのがわかった。
その表情は一言で表せば愛らしい。ただ、最近ドロシーは思うのだ。
クルトは、純粋で努力家なだけじゃない。本質は、もっと別のところにあるのだろうと。
(クルトも腹に一物抱えているのよね。……わかるわ。だって、同類だもの)
彼が時折見せる表情は、純粋な人間が浮かべられるようなものじゃない。
憎しみや怒り、悲しみや嫌悪。そんな感情をぐちゃぐちゃに混ぜ込んだような、表情。それを、たまに彼は浮かべる。
もしかしたら、彼の中には重々しい問題があるのかもしれない。……と、知ったところで。
ドロシーにはどうすることもできない。自分と彼の関係は師弟でしかない。プライベートに深入りすることは、避けたい。
仕事とプライベートは別けたいタイプなのだ。
「クルト。もうそろそろ、今日は終わろうと思うのよ」
ポーションの液を瓶に詰めて、ドロシーはクルトにそう伝えた。
そうすれば、クルトは不思議そうな表情を浮かべていた。……そりゃそうだ。今日はいつもよりも三時間も終わりが早い。
「ごめんなさいね。この後、お父さまに呼び出されていて。あと、ちょっといろいろとやることがあるのよ」
やれやれとばかりに首を横に振ってそう言えば、クルトは笑った。
「そうなのですか。承知いたしました。あ、そうだ。お願いがあるのですが」
不意にクルトがそう零した。なので、ドロシーは彼のほうに視線を向ける。
「実は、ちょっと勉強がしたくて。図鑑をいくつか、貸していただけないでしょうか?」
クルトの視線が、本棚に向けられる。その本棚にあるのは、使い古された何処にでもある平凡な薬草図鑑だ。
「別にいいけれど、破れてたりするわよ?」
「大丈夫です。少し読みたいだけなので」
笑みを浮かべて、クルトがそう言う。
……本人が納得しているのならば、構わないだろう。
(図鑑……特に、あぁいうイラストつきのものは高いものね。貴族でも、買うのをためらってしまうものもあるというもの)
幸いにも、ドロシーの両親は図鑑を惜しみなく買い与えてくれた。
幼少期のドロシーはそれを喜んで、読み込んだ。一ページももれなく書き写して、必死に頭の中に叩き込んだことを思い出す。
「そうだわ。いくつか、古いものがあるはずよ。最新の改訂版よりはちょっと情報が少ないけれど、それでもよかったらあげるわ」
「……いいの、ですか?」
「えぇ。間違った情報は載っていないし、型落ちといっても、そこまで大きな違いはないもの」
基本的に図鑑の類は五年に一度、改訂されたものが発売されている。ドロシーは馴染の商人からそれらを格安で購入させてもらっていた。持つべきものは、コネである。
「ありがとうございます! 僕は……その、あんまりそういうの、買ってもらえなくて……」
苦笑を浮かべてクルトがそう言う。だから、ドロシーは笑う。
「まぁ、普通はそうよね。……倉庫の中にあるはずだから、明日にでも渡すわね」
「はい!」
ニコニコと笑ったクルトは、本当に嬉しそうだった。
……弟がいたら、こんな感じなのだろうか。クルトは、そう思わせてくれる存在だった。
(だから、もしも。万が一。クルトが間違った方向に進みそうになったら、それだけは止めなくちゃならないのよね)
師弟はそこまで口を出すものではない。ただ、唯一例外がある。
それは――クルトが、薬学を使って間違いを起こそうとしたときだけだ。
そして、ドロシーは知っている。
――クルトが、よからぬことを考えているということを。




