32.「俺はお前にここにいてほしくはない」
「……どうして、そんなことをおっしゃるのですか」
しばしの沈黙の後、クルトがそう呟いた。
クルトが顔を上げて、ルーシャンを見つめる。まるで虚無のような目が、ルーシャンを射貫いた。
「ドロシーさんがどういう選択をするか。それは、彼女の自由ではありませんか」
その言葉は、正しい。
彼女がクルトのバカみたいな衝動を止めようが、止めなかろうが。
その結果傷ついても、無傷でも。それは彼女が選んだことだ。他者が口を挟むようなことではない。
「ルーシャンさまは、ドロシーさんのなんなのですか? 名ばかりの夫でしょうに」
鋭い声が、耳に届いた。
(この男も、俺たちの関係を知っている)
当然と言えば、当然なのだろう。彼は現在、このハートフィールド侯爵邸に居候をしている。
ルーシャンとドロシーの関係に、気が付かないわけがない。
「そんなあなたさまに守っていただいても、ドロシーさんは喜ばないと思います」
その言葉も、正しい。
ドロシーはそういう女性だ。
彼女はきっと、大人しく守られてはいない。
それどころか、自分自身が出来ることを探そうとするだろう。一緒に、戦おうとするだろう。
「だろうな」
でも、だからといって。
「だからといって、俺が引く理由にはならないな。……これは、俺の身勝手なエゴだ」
所詮は身勝手な行動なのだ。ドロシーの気持ちなど、考えてもいない。だけど、それと同時に自分の考えを押し付けたいわけでもない。
「傷ついた顔を見たくない。無意味に傷ついてほしくない。そう思う俺の、勝手な行動」
「……だったら!」
「でも、それで守れるのならば、悪くないだろう」
後悔だけはしたくないのだ。
「もしも、守らずに観察に徹して。ドロシーが傷ついた顔を見て、『守ってやればよかった』なんて思うのは嫌だからな。だったら、後悔しそうな芽は摘んでおくに限る」
それは紛れもない本音だった。
(この行動の結果、ドロシーに嫌われても仕方がないだろうな。……それが、運命なんだからな)
運命なんて言葉で片付けたくはない。だが、片づけたほうがいいときだってある。
ドロシーの身が可愛いのと同時に、自分の身も可愛いのだから。
「なんていうか、噂と全然違うお方です」
息を吐いて、クルトがそう呟く。
でも、それは間違いだ。
「そうかもしれない。しかし、それは間違いだ。元々の俺は、噂通りの人間に近かった」
ゆっくりと生き方も、考え方も。少し、また少しと変わっていって、今のルーシャンがある。
その変わる道しるべを示したのは、間違いなくドロシーで。
「あいつは無意識だったんだろう。けれど、俺は変えられた。……あの顔を、ずっと見ていたいと思うほどには」
ずっと煩わしいと思っていた。挙式だって拒否したし、婚約者時代は会うどころか手紙だって送らなかった。贈り物も同じ。
当初は離縁するつもりだった。予定外だったのは、ドロシーがあそこまで通い詰めてきたこと。
そして、それが変わるきっかけになった。
「生き物は、突然には変われない。ゆっくり、緩やかに。……変わっていくんだろうな」
小さくそう呟いて、クルトを見つめる。……クルトが、奥歯をかみしめているのがわかった。
それは、憎しみを耐えるためなのか。はたまた――胸の中にある、違和感に耐えるためなのか。それは、ルーシャンには想像も出来ない。
「変わらないでも、いいと思っていた。だが、案外変わるのも面白かった。……それだけだ」
あのまま頑固に生きていても、人生はどんどん退屈になっていただろう。あのときでも十分に、退屈だったのだから。
「俺はお前にここにいてほしくはない」
「それは、僕がドロシーさんを傷つける可能性があるからですか?」
クルトの問いかけ。それも、ある。けれど、一番は。
「それもあるだろうな。ただ、それ以上に。俺は、ドロシーの側にほかの男がいるのが、気に食わないだけのようだ」
つまりは、妬みであり、わがままなのだ。
「恋愛感情とは、全く不可解なものだ。……煩わしい」
こんな感情を抱かなければ。もっと楽に、生きることが出来ただろう。
そう思う気持ちもある。ただ、やっぱり。
「ただ、割と悪くないと思う自分もいる。……本当、変なものだ」




