Sky56-狭まる世界-
本作『SKY』は作者本人が小説家になろうにて連載・管理しています。無断転載・無断利用を禁じます。
西方配属から二ヶ月が過ぎて、作戦だけが淡々と積み重なっていった。
静かな廊下を歩くアスミの靴音が、規則正しく響く。一歩、また一歩。白い床が光を反射して、影が薄い。
ブリーフィングルームの前の掲示板には、今日の予定が分刻みで貼られていた。紙は新しい。インクも濃い。貼り方が綺麗すぎて、触る前から手が汚れない感じがした。
セリが横で腕を組む。セリの癖だ。肘を締めると、声も締まる。
扉が開き、隊員たちが入室していく。誰も雑談しない。誰も肩を叩かない。ただ、自分の席に向かって歩くだけ。その規律正しさが、かえって息苦しい。
アスミは椅子に座り、背もたれに触れない姿勢のまま端末を開いた。隣のセリも同じ動きだった。鏡に映したように揃っている。
楽な姿勢を取る前に、次の指示が来る。
ヘイルが端末を操作すると、前方のスクリーンに地図が映し出された。
「結論から話す」
そう言って、投影を切り替える。無駄な前置きがない。挨拶もない。
画面には線と点が並ぶ。輸送路。車列。時間。風向。高度制限。避難区域の薄い囲い。
全てが記号化されている。記号の下に、人がいる。
「本日の任務は、境界線西側輸送路の確保。第十四警備中隊が移動中。上空支援は第〇試験飛行隊。目的は殲滅ではない。輸送の継続だ」
継続。その二文字は、感情の入り込む余地を塞ぐ。
「敵性勢力は散発。小火器および簡易対空を含む。上空支援は牽制を主とする。必要な場合のみ撃墜」
セリが低い声で呟いた。アスミにだけ届く距離で。
「……散発って言い方、嫌いだ」
「並びが嫌」
短く返すと、セリは小さく頷いた。表情は硬いまま、目だけがよく動く。
「散らばってるように見せて、実は計算されてる配置だ。散発じゃない」
アスミも頷く。散発という言葉は、現場の手触りを薄める。薄めた分だけ、責任が曖昧になる。
ヘイルは淡々と続けた。
「逸脱は禁止。射線管理を徹底。避難区域への流入を許すな。地上部隊の報告を優先しろ。REDROSE、Alpha2。以上」
終わり方まで乾いている。質問の空白が残るのに、誰もそこへ手を入れない。空白に触れた瞬間、責任が生まれるからだ。
部屋を出ると、廊下の白い灯りが目に刺さった。
セリが歩きながら言う。声は低く、硬い。
「止めるぞ。今日は」
*
コクピットの中で息を吸う。ヘルメットの内側で、自分の呼吸がやけに大きい。
《REDROSE、聞こえるか》
管制の声は落ち着いている。
「聞こえます」
短く答える。HUDの隅で、オルタイト反応の数値が揺れた。上がる。下がる。上がる。規定値の線に触れて、触れないふりをして、また触れる。
《……出力、黄色帯。維持は推奨されません》
機械音声が言う。丁寧で、無責任な声。
分かってる。そう頭の中で言って、アスミは唇を噛んだ。噛んだところで、現場は待ってくれない。
発艦レーンへ向かう振動が、足元から伝わってくる。
《発進カウント、入る》
管制の声が落ちる。機械の音と同じ高さで。
《三、二、一——》
世界が、音だけになる。金具。振動。呼吸。警告音。声は少ないまま、逃げ道だけが、静かに消えていく。
HUDが立ち上がる。緑の表示が並び、機体の状態が数字で揃う。揃うと、気持ちも揃いそうになる。
《Alpha2、準備完了》
《BRAVO3、準備完了》
《DELTA4、準備完了》
《REDROSE、準備完了。滑走路進入》
誘導灯が流れ、機体が震える。スロットルを押し込むと、背中に加速の圧力が乗った。身体が座席に押しつけられる。重いほど、速度が出ている証拠だ。
地面が落ちる。基地が箱みたいに小さくなる。
《合流》
セリが右後方につく。視界の端にセリがいるだけで、やってはいけないことと、やってしまうことの境目が少し曖昧になる。止められる声があるからだ。
*
現地上空。地形の起伏が無線を削り、声が途切れ途切れに届く。
《第十四警備。上空のREDROSE、聞こえるか》
「受信。状況を」
《前方が止まりかけてる。撃って逃げる感じじゃない。車列を止めたい動きがある》
止めたい。固めたい。固めたところを叩く。
HUDの熱源が、道路脇に点々と見えた。散っている。散っているのに、寄り方が同じだ。散発に見せた配置。散発じゃない。
「セリ。右の空き地。熱源、寄ってる」
《見えた》
セリが外へ膨らみ、角度を取る。牽制射。土煙。影が伏せる。伏せた瞬間、別の位置から光が走った。
輸送路の前方。路面が弾け、先頭車両がブレーキを踏む。後続が詰まり、車列が固まる。固まると、次が来る。
《止まるな!》
《前が……塞がった!》
地上の声が乱れる。乱れると、人は今に張りつく。今に張りつくと、列は動けない。
アスミは照準を、撃ってきた位置へずらした。
撃ち合いは目的じゃない。射線を切る。切って、列を動かす。
だが、射線は一つじゃない。建屋の影から、低い位置から、別の角度からも火花が走る。逃げ道を塞ぐような撃ち方。止めるための撃ち方だ。
地図の端に、避難区域の薄い囲いが見えた。
そこへ流れれば、地上はさらに固まる。固まれば、次が来る。
――今、切る。
アスミは前傾姿勢に入り、背部スラスターの出力を絞った。巨体が建屋の高さまで滑り降りる。
危ないと分かっていて入る。入らなければ、もっと重い事故が起きる。
姿勢制御で推力を抜く。機体重量が脚部フレームへ落ちる。身体が一瞬軽くなり、ハーネスが胸を締めた。軽いと揺れる。揺れを抑えて、さらに落とす。
距離表示が縮む。
八〇〇、六〇〇、四〇〇。
建屋の縁が、コクピットの視界いっぱいに迫る。
《アスミ、下がりすぎだ!》
セリの声が跳ねた。
建屋の陰から、簡易対空の曳光が跳ね上がる。右肩装甲に擦過。装甲温度上昇。火花は細いのに、線がいやに正確だった。
《その角度から戻れ!》
「分かってる」
アスミの返事は短い。短くないと、手が遅れる。
照準を合わせる。派手な目標じゃない。車列を止める〝手〟だ。
建屋の影に隠れた車両。荷台。そこから何かを下ろそうとしている。対空砲か、ロケットか。
地上の声が割り込んだ。
《上空、そいつだ! そいつが列を止めてる!》
アスミは即座に引き金を引いた。
乾いた連射音。火花。次の瞬間、車両が跳ねる。熱源が弾け、炎が上がり、黒煙が立ち上る。射線が途切れた。
車列が、ようやく動き出す。止まっていた点が、また線になる。
――動いた。
喜びじゃない。確認だ。確認が取れたら、次へ進む。
その瞬間、機体下部装甲が内側から叩かれたように跳ねた。
ゴン、という鈍い音。
衝撃は遅れて背中に来る。コクピットフレームが軋み、座席が突き上げられる。歯が噛み合う。
HUDに警告が増える。橙色の表示。一つ、二つ、三つ。増え方が嫌だ。赤に寄らないのが、逆に嫌だ。
《BRAVO3、右抑える!》
曳光が斜めに走る。屋上の影が崩れる。だが射線は止まらない。
《くそ、止まんねぇな……》
《被弾したか》
セリの声が一段低くなった。低い声は、本気で止める声だ。
「当たった。軽い」
軽いと言い切る。言い切らないと、判断が遅れる。
軽い被弾ほど危ない。軽いから動ける。動けるから、もう一回踏んでしまう。そして、次に当たったときは軽くない。
後方から追撃の光が来た。低姿勢のまま機体を起こそうとして、機体が一瞬遅れる。遅れた分だけ距離が詰まる。
《上がれ!》
セリの声が割れた。通信にノイズが混じる。
アスミは返事をしなかった。返事の代わりに、背部スラスターの出力を押し上げる。
推力が噴き上がり、重量が脚部フレームから背へ移った。身体が座席に押しつけられる。胸が圧迫される。呼吸が浅くなる。重いほど、上がるための力が出ている。
HUDの端に赤が増える。REDROSEの運用域。
誰も驚かない。驚く段階は、とっくに過ぎている。
ただ、赤が濃い。赤の重なり方が嫌だ。
《……同期させすぎるな》
セリが言った。オルタイトの反応値が行きすぎている。いくらアスミがオルディア人だからといって、長時間は危険だ。
《DELTA4、REDROSE出力域、規定超過》
《ログ保存。継続観測》
ユイの声は揺れない。だが、言葉が増えている。
オルタイト反応が跳ねる。数字が最大域に張りつく。九九・八、九九・九。機体が細かく震え、その振動が座席を伝ってくる。
視界は歪まない。息も乱れない。
けれど、指先は冷えていた。グローブ越しなのに、冷える。冷えたまま、細かく震える。震えは止まらない。でも、邪魔にはならない。
震えたまま、レバーを握り直す。グローブの中で、指先の感覚が遠い。冷たい。握りすぎないようにすると、機首が滑らかに上を向いた。
「……っ!」
引き起こしで加速の圧力が増える。身体が重くなる。視界の端が暗くなる。重いほど、上がっている。
距離表示が跳ね上がる。
二〇〇、四〇〇、六〇〇。
建屋の縁が視界から落ちる。
《……あの動き、基準にすんなよ》
リオの小さな呟き。全軍回線には乗らない。
追撃の射線が切れる。光が届かなくなる角度へ落ちた。
《よし。……離脱。帰れ》
セリの声が、元の低さに戻った。止める声が、次は帰れに変わる。
地上の無線が入る。
《車列、動いてる! 輸送継続!》
目的は達成だ。達成は勝利じゃない。運用が回ったという報告だ。
「第十四警備、輸送継続確認。離脱する」
《了解! 上空、帰れ!》
*
帰還ルートに入ると、赤は薄くなり、橙が残る。
《REDROSE、機体状態を報告》
「帰還可能」
《了解。滑走路進入許可》
誘導灯が流れる。脚部が滑走レーンに接続して、ゴトン、という重い衝撃が腰に残った。脊椎を伝って首まで来る。止まった瞬間、遅れていた震えが追いついてきた。
コクピットを開けると、乾いた空気が流れ込んだ。息が、ようやく深くなる。
隣にAlpha2が並ぶ。セリが梯子を降りてくる。ブーツが金属を踏む音。
眉間に深い皺。怒りじゃない。安堵の皺だ。安堵しているのに、まだ緊張が残っている。
「……ギリギリだった」
アスミは頷いた。頷き方が早い。
「うん」
それ以上、言わない。言い訳になるから。
*
二人は格納庫を出て、管理区画へ続く廊下を歩いていた。セリが前を見たまま言う。
「アスミ。今日の戦い方、生きてたからいいけど、無茶するなよ」
アスミも前を向いたまま、即答する。
「分かってる」
角を曲がった先で、声がした。通りすがりの、小さな声。
「REDROSEだ。今日の見た?」
「凄かったな。さすがSランク」
軽い笑い。
「お前だったらすぐ帰ってきてたな」
聞こえる。聞こえてしまう。
アスミは歩幅を変えない。ヘルメットを抱える腕にだけ、少し力が入る。
その先の壁際に、リオが立っていた。すでに制服に着替えている。飛行後の汗を流してきたのか、髪がまだ湿っていた。声のした方を見ようとして、やめた顔をしている。
少し離れた位置で、ユイが端末を閉じた。何も言わない。
リオが一瞬だけアスミを見て、目を逸らす。
セリが、さらに声を落とした。
「今日のは、正しくはないからな」
アスミは遅れて頷いた。頷いたのに、喉が鳴らない。
「……うん」
白い光が、全部を同じ色にする。同じ色になるから、違いだけが残る。
今日、危ない飛び方をした。自分でも分かってる。降下して、ぎりぎりでオルタイトの出力を上げて上昇する。全員ができるわけじゃない。命と引き換えの危険行為だ。
それでも。同じことをしても。生き残った人だけが、正しかったことになる。
じゃあ、死んだ人は。
言葉は、置き場を失ったまま残る。二人の足音だけが、一定に続いた。
「私、管理課に行ってくる」
アスミがふいに言った。セリが横目でこちらを見る。
「どうした」
「……ちょっと」
そう言って、セリと別れ、管理区画へ続く廊下を歩いて行った。
*
白い照明の下。廊下の壁には、各部署の案内板が並んでいる。
管理課の扉を開けると、中は静かだった。窓口が三つ並んでいて、一つだけ空いている。
アスミはその窓口に向かった。靴音が床に響く。響くたびに、胸が少しずつ冷えていく。
窓口の向こうに、担当者が座っていた。三十代くらいの男性。軍服ではなく、背広を着ている。端末から視線を上げない。
「要件を」
声が平坦だ。事務的で、温度がない。
アスミは息を吸った。吸って、言葉を整える。
「行方不明者の照会許可を申請します。個人名でのデータベース検索と、関連ログの閲覧です。手元の端末でも今までできていたはずなんですが、弾かれてしまって……」
担当者の指が端末を滑る。そして、止まる。短い沈黙なのに、やけに長く感じた。
顔を上げた。目がこちらを見る。でも、アスミを見ていない。胸元のパッチを見ている。REDROSEの徽章を。
「REDROSEの運用規定が変わりました。許可は出せません。規定外です」
声の調子は変わらない。抑揚がない。感情がない。
アスミの胸が、一度だけ跳ねる。
「でも……いままでは」
途中で切れた言葉に、担当者は被せるように返した。
「いままでとは、貴女の規定も運用方針も違います」
正しい言い方だった。
端末の画面には、申請項目が残っている。未入力。未承認。
赤い文字で「アクセス拒否」。
なんで。そう言っても、ここは規定です、と返されて終わる。そのことは、もう嫌というほど分かっていた。
アスミは頷くだけで窓口を離れた。言葉が出ない。出そうとしても、喉が閉じている。
廊下に出ると、足音だけが戻ってきた。
さっき見た「規定外」の文字が、目の裏に残っている。赤い文字。冷たい文字。
どこにいても、ずっと探していた。
休日になると、ヴィーラで上空を飛んだ。難民船が通る航路を、何度も何度も飛んだ。見つからなくても、探せていた。探せているという事実が、希望だった。
行方不明者リストも、端末で見られた。毎日、更新を確認した。名前がないことを確認するのが、日課だった。
西方は中枢だから、もっと詳しく辿れるかもしれないと思っていた。もっと多くの情報があるかもしれないと思っていた。
――思っていただけだった。
強くなれば、探せると思った。強くなるほど、自由がなくなる。
REDROSEになるほど――REDROSEになったから、探せなくなった。
カイトを探すために、ここまで来たのに。
廊下の壁に、ポスターが貼ってあった。規律。統制。効率。大きな文字。綺麗な文字。その下を通り過ぎる。足音が響く。誰もいない廊下で、自分の足音だけが響く。
曲がり角を曲がったところで、立ち止まった。壁に手をつく。冷たい壁。息を吐く。吐いたのに、胸が軽くならない。REDROSEだから。ここでは、自由に探せない。
問いに、答えはない。答えがないまま、問いだけが残る。アスミは壁から手を離し、また歩き始めた。
窓の外に、基地の滑走路が見えた。格納庫へ戻す途中の、白い装甲の機体が並んでいる。REDROSEの機体も、そこにある。
あの機体で、空を飛べる。敵も撃てるし、民間人も守れる。でも、カイトを探すためには飛べない。
並んだ機体の胸部が、夕方の光を受けて同じ角度で光っていた。どれも同じ形をしている。どれに乗っても、行ける場所は決められている。
なんで。
問いは胸の中に落として、消した。
窓から目を逸らし、自室へ向かって歩き出した。その足音だけが、無機質な廊下に響き続けた。
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