Sky56-狭まる世界-
アルクトリ寄港から2ヶ月がすぎて、作戦だけが淡々と積み重なっていった。
朝の西方本部は相変わらず静かで、静かすぎて、何かを言う音だけが目立つ。
歩く靴底の擦れる音。扉の開閉。端末を置く乾いた打音。
どれも同じ高さで、同じ温度で並ぶ。誰も声を上げない。声を上げる必要がないほど、全てが整っている。
廊下を歩くあすみの靴音が、規則正しく響く。
一歩、また一歩。白い床が光を反射して、影が薄い。
北方では、こんなに音が返ってこなかった。
北方では、朝の格納庫に整備士の笑い声があった。
誰かが大声で工具を探していた。誰かが機体の下で冗談を言っていた。
ここでは、誰も怒鳴らない。誰も笑わない。
音があるのに、声がない。
ブリーフィングルームの前にある掲示板には、今日の予定が分刻みで貼られていた。
紙は新しい。インクも濃い。なのに、貼り方が綺麗すぎて、触る前から手が汚れない感じがした。
セリが横で腕を組む。セリの癖だ。肘を締めると、声も締まる。
扉が開き、隊員たちが入室していく。
誰も雑談しない。誰も肩を叩かない。
ただ、自分の席に向かって歩くだけ。その規律正しさが、かえって息苦しい。
第0試験飛行隊《Red Rose》の席は、前列の端に用意されていた。
机の端に小さな札が置かれている。名前じゃない。コード。
RED ROSE
ALPHA2
あすみは椅子に座り、背もたれに触れない姿勢のまま端末を開いた。
隣のセリも同じ動きだった。鏡に映したように揃っている。
この基地では、身体を預けるのが遅い。預けない方が早い。
楽な姿勢を取る前に、次の指示が来る。
ヘイル大尉が端末を操作すると、前方のスクリーンに地図が映し出された。
「結論から話す」
ヘイル大尉はそう言って、投影を切り替えた。
無駄な前置きがない。挨拶もない。
画面には線と点が並ぶ。
輸送路。車列。時間。風向。高度制限。避難区域の薄い囲い。
全てが記号化されている。記号の下に、人がいる。
「本日の任務は、境界線西側輸送路の確保。第14警備中隊が移動中。上空支援は第0試験飛行隊。目的は殲滅ではない。輸送の継続だ」
“継続”。
その二文字は、感情の入り込む余地を塞ぐ。
「敵性勢力は散発。小火器および簡易対空を含む。上空支援は牽制を主とする。必要な場合のみ撃墜」
散発。
その言葉が喉の奥に残る。
セリが低い声で呟いた。あすみにだけ届く距離で。
「……散発って言い方、嫌いだ」
「並びが嫌」
短く返すと、セリは小さく頷いた。表情は硬いまま、目だけがよく動く。
「散らばってるように見せて、実は計算されてる配置だ。散発じゃない」
あすみも頷く。
散発という言葉は、現場の手触りを薄める。薄めた分だけ、責任が曖昧になる。
ヘイル大尉は淡々と続けた。
「逸脱は禁止。射線管理を徹底。避難区域への流入を許すな。地上部隊の報告を優先しろ」
“許すな”は強い。
強い言葉ほど、最後は現場の手に残る。
「RED ROSE、ALPHA2。以上」
終わり方まで乾いている。
質問の空白が残るのに、誰もそこへ手を入れない。空白に触れた瞬間、責任が生まれるからだ。
部屋を出ると、廊下の白い灯りが目に刺さった。
セリが歩きながら言う。声は低く、硬い。
「止めるぞ。今日は」
*
格納庫は明るい。
明るさのわりに、声が少ない。
工具の音はある。リフトの駆動音もある。
雑談だけが薄い。
北方では、整備士が機体の下で冗談を言っていた。
工具を床に落として、笑いながら拾っていた。
ここでは、誰も笑わない。
工具を落とす音さえ、聞こえない。全員が、音を立てないように動いている。
あすみは梯子の前で手袋の付け根を締めた。指先の感覚を拾い直す。
コクピットへ滑り込み、ハーネスを締める。金具が噛む音が乾いて響いた。
息を吸う。
ヘルメットの内側で、自分の呼吸がやけに大きい。
《RED ROSE、聞こえるか》
管制の声は落ち着いている。落ち着きは、距離だ。
現場と、数字の距離。
「聞こえます」
短く答える。短くないと、手が遅れる。
HUDの隅で、オルタイト反応の数値が揺れた。
上がる。下がる。上がる。
規定値の線に触れて、触れないふりをして、また触れる。
《……出力、黄色帯。維持は推奨されません》
機械音声が言う。丁寧で、無責任な声。
(分かってる)
あすみは唇を噛んだ。
噛んだところで、現場は待ってくれない。
格納庫の外側、発艦レーンへ向かう振動が足元から伝わってくる。
それは“行け”の合図じゃない。
“戻れなくなる”合図だ。
《発進カウント、入る》
管制の声が落ちる。
機械の音と同じ高さで。
《3、2、1——》
世界が、音だけになる。
金具。振動。呼吸。警告音。
声は少ないまま、逃げ道だけが、静かに消えていく。
HUDが立ち上がる。緑の表示が並び、機体の状態が数字で揃う。
揃うと、気持ちも揃いそうになる。揃わせない。
《RED ROSE、出撃準備》
管制の声は平らだった。
コードで呼ばれた瞬間、あすみは”扱う側”の都合で括られる。
《ALPHA2、準備完了》
《RED ROSE、準備完了。滑走路進入》
誘導灯が流れ、機体が震える。
スロットルを押し込むと、背中に加速の圧力が乗った。身体が座席に押しつけられる。
重いほど、速度が出ている証拠だ。
離陸。
地面が落ちる。基地が箱みたいに小さくなる。
《合流》
セリが右後方につく。
視界の端にセリがいるだけで、やってはいけないことと、やってしまうことの境目が少し曖昧になる。
止められる声があるからだ。
⸻
現地上空。
地形の起伏が無線を削り、声が途切れ途切れに届く。
《第14警備。上空のRED ROSE、聞こえるか》
「受信。状況を」
《前方が止まりかけてる。撃って逃げる感じじゃない。車列を止めたい動きがある》
止めたい。
固めたい。
固めたところを叩く。
HUDの熱源が、道路脇に点々と見えた。散っている。散っているのに、寄り方が同じだ。
散発に見せた配置。散発じゃない。
「セリ。右の空き地。熱源、寄ってる」
《見えた》
セリが外へ膨らみ、角度を取る。
牽制射。土煙。影が伏せる。伏せた瞬間、別の位置から光が走った。
輸送路の前方。路面が弾け、先頭車両がブレーキを踏む。
後続が詰まり、車列が固まる。固まると、次が来る。
《止まるな!》
《前が……塞がった!》
地上の声が乱れる。乱れると、人は”今”に張りつく。
今に張りつくと、列は動けない。
あすみは照準を”撃ってきた位置”へずらした。
撃ち合いは目的じゃない。射線を切る。切って、列を動かす。
だが、射線は一つじゃない。
建屋の影から、低い位置から、別の角度からも火花が走る。逃げ道を塞ぐような撃ち方。止めるための撃ち方。
地図の端に避難区域の薄い囲いが見えた。
そこへ流れれば、地上は更に固まる。固まれば、次が来る。
(今、切る)
あすみは前傾姿勢に入り、背部スラスターの出力を絞った。
巨体が建屋の高さまで滑り降りる。
危ないと分かっていて入る。
入らなければ、もっと重い事故が起きる。
姿勢制御で推力を抜く。
機体重量が脚部フレームへ落ちる。
身体が一瞬軽くなる。ハーネスが胸を締める。
軽いと揺れる。揺れを抑えて、さらに落とす。
距離表示が縮む。
800、600、400。
建屋の縁がコクピット視界いっぱいに迫る。
《あすみ、下がりすぎだ!》
セリの声が跳ねた。
怒鳴りじゃない。止める声。止める声は、焦ると高くなる。
建屋の陰から、簡易対空の曳光が跳ね上がる。
右肩装甲に擦過。装甲温度上昇。火花は細いのに、線がいやに正確だった。
《戻れ!その角度から戻れ!》
「分かってる」
あすみの返事は短い。短くないと、手が遅れる。
照準を合わせる。
派手な目標じゃない。車列を止める”手”だ。
建屋影に隠れた車両。荷台。
そこから何かを下ろそうとしている。対空砲か、ロケットか。
地上の声が割り込んだ。
《上空、そいつだ! そいつが列を止めてる!》
あすみは一拍も置かずに引き金を引いた。
乾いた連射音。
火花。次の瞬間、車両が跳ねる。
熱源が弾ける。
炎が上がる。黒煙が立ち上る。
射線が途切れた。
車列が、ようやく動き出す。
止まっていた点が、また線になる。
(動いた)
喜びじゃない。確認だ。
確認が取れたら、次へ進む。
その瞬間、機体下部装甲が内側から叩かれたように跳ねた。
ゴン、という鈍い音。
衝撃は遅れて背中に来る。コクピットフレームが軋み、座席が突き上げられる。
歯が噛み合う。
HUDに警告が増える。
橙色の表示。一つ、二つ、三つ。
増え方が嫌だ。赤に寄らないのが、逆に嫌だ。
《BRAVO3、右抑える!》
曳光が斜めに走る。屋上の影が崩れる。
だが射線は止まらない。
《くそ、止まんねぇな……》
《被弾したか》
セリの声が一段低くなった。
低い声は、本気で止める声だ。
「当たった。軽い」
軽いと言い切る。
言い切らないと、判断が遅れる。
軽い被弾ほど危ない。
軽いから動ける。動けるから、もう一回踏んでしまう。
そして、次に当たったときは軽くない。
後方から追撃の光が来た。
低姿勢のまま機体を起こそうとして、機体が一瞬遅れる。
遅れた分だけ距離が詰まる。
《あすみ、上がれ!》
セリの声が割れた。
通信にノイズが混じる。
あすみは返事をしなかった。返事の代わりに、背部スラスター出力を押し上げた。
背部推力が噴き上がる。
重量が脚部フレームから背へ移る。
身体が座席に押しつけられる。胸が圧迫される。呼吸が浅くなる。
重いほど、上がるための力が出ている。
HUDの端に赤が増える。
赤は”いつもの赤”だ。RED ROSEの運用域。
誰も驚かない。驚く段階は、とっくに過ぎている。
ただ、赤が濃い。
赤の重なり方が嫌だ。
《……その赤、深いぞ》
セリが言った。
驚きじゃない。注意喚起の声だ。
知っているから言える。知っているから、怖い。
《DELTA4、RED ROSE出力域、規定超過》
《ログ保存。継続観測》
ユイの声は揺れない。
だが言葉が増えている。
オルタイト反応が跳ねる。
数字が最大域に張りつく。99.8、99.9。
機体が細かく震える。ブルブル、という振動が座席を伝って来る。
視界は歪まない。
息も乱れない。
でも、来たのは手だった。
指先が冷える。
グローブ越しなのに、冷える。
冷えたまま、細かく震える。
震えは止まらない。でも、邪魔にはならない。
震えたまま、レバーを握り直す。
グローブの中で、指先の感覚が遠い。
冷たい。
冷たいから、握りすぎない。
握りすぎないようにすると、機首が滑らかに上を向く。
「……っ!」
引き起こしで加速の圧力が増える。
身体が重くなる。視界の端が暗くなる。
重いほど、上がっている。
距離表示が跳ね上がる。
200、400、600。
建屋の縁が視界から落ちる。
《……あの動き、基準にすんなよ》
リオの小さな呟き。
全軍回線には乗らない。
追撃の射線が切れる。
光が届かなくなる角度へ落ちる。
《よし。……離脱。帰れ》
セリの声が、元の低さに戻った。
止める声が、次は”帰れ”に変わる。
地上の無線が入る。
《車列、動いてる! 輸送継続!》
継続。
目的は達成だ。達成は勝利じゃない。運用が回ったという報告だ。
「第14警備、輸送継続確認。離脱する」
《了解! 上空、帰れ!》
帰れ。
今日いちばん人間の言葉が、そこにあった。
⸻
帰還ルート。
赤は薄くなり、橙が残る。
橙は消えない。消えないまま、手の冷えと震えも残る。
あすみはそれを”感想”にしない。
感想にすると、残る。残ると、次に響く。
《RED ROSE、機体状態を報告》
「帰還可能」
言い切る。
言い切らないと許可が遅れる。
許可が遅れると帰れない。
《了解。滑走路進入許可》
誘導灯が流れる。
着地。
タイヤが地面を叩く音。
ゴトン、という重い衝撃。
衝撃が腰に残る。脊椎を伝って首まで来る。
滑走路を転がり、止まる。
止まった瞬間、遅れていた震えが追いついてきた。
コクピットを開けると、乾いた空気が流れ込んだ。
息が、ようやく深くなる。
隣にALPHA2が並ぶ。
セリが梯子を降りてくる。ブーツが金属を踏む音。
眉間に深い皺。
怒りじゃない。安堵の皺だ。
安堵しているのに、まだ緊張が残っている。
「……ギリギリだった」
あすみは頷いた。頷き方が早い。
「うん」
それ以上、言わない。
言葉にすると、言い訳になる。
⸻
帰投後の廊下は白かった。
白い光が均一で、床が薄く反射する。
人が行き交うのに、声が薄い。薄い声ほど、言葉が目立つ。
セリが前を見たまま言う。
「あすみ。今日の戦い方、生きてたからいいけど、無茶するなよ」
あすみは即答する。
「分かってる」
角を曲がった先で、声がした。
通りすがりの、小さな声。
「RED ROSEだ。今日のみた?」
角の向こう、壁にもたれたリオが、聞こえないふりをしている。
「凄かったな。さすがSランク」
軽い笑い。
少し離れた位置で、ユイが端末を閉じる。
何も言わない。ログは保存済みだ。
「お前だったらすぐ帰ってきてたな」
聞こえる。
聞こえてしまう。
あすみは歩幅を変えない。
ヘルメットを抱える腕にだけ、少し力が入る。
リオが一瞬だけ、あすみを見て目を逸らす。
セリが、さらに声を落とす。
「今日のは、正しくはないからな」
あすみは一拍遅れて頷いた。
頷いたのに、喉が鳴らない。
「……うん」
白い光が、全部を同じ色にする。
同じ色になるから、違いだけが残る。
(同じことをしても、生き残った人だけが”正しかった”ことになる)
(……死んだ人は。)
言葉は、置き場を失ったまま残る。
あすみは歩いた。足音だけが一定に続いた。
⸻
帰投後、セリと分かれて、あすみは管理区画へ向かった。
白い照明の下。
廊下の壁には、各部署の案内板が並んでいる。
管理課の扉を開ける。
中は静かだった。
窓口が三つ並んでいる。
一つだけ空いている。
あすみはその窓口に向かった。
靴音が床に響く。響くたびに、胸が少しずつ冷えていく。
窓口の向こうに、担当者が座っていた。
30代くらいの男性。軍服ではなく、背広を着ている。
端末から視線を上げない。
「要件を」
声が平坦。
事務的で、温度がない。
あすみは息を吸った。
吸って、言葉を整える。
「行方不明者の照会許可を申請します。個人名でのデータベース検索と、関連ログの閲覧です」
「手元の端末でも今までできていたはずなんですが、弾かれてしまって…」
言い切る。
言い切らないと、申請にならない。
担当者の指が端末を滑る。
そして、止まる。
一拍。
短い沈黙。
その一拍が、やけに長く感じる。
担当者が顔を上げた。
目がこちらを見る。でも、あすみを見ていない。
胸元のパッチを見ている。RED ROSEの徽章。
「REDROSEの運用規定が変わりました。許可は出せません。規定外です」
声の調子は変わらない。
抑揚がない。感情がない。
あすみの胸が、一度だけ跳ねる。
「でも……いままでは」
途中で切れた言葉に、担当者は被せるように返した。
「いままでとは、貴女の規定も運用方針も違います。」
声の調子は変わらない。正しい言い方だった。
端末の画面には、申請項目が残っている。
未入力。未承認。
赤い文字で「アクセス拒否」。
あすみは頷くだけで窓口を離れた。
言葉が出ない。出そうとしても、喉が閉じている。
廊下に出ると、足音だけが戻ってきた。
カツ、カツ、カツ。
さっき見た「規定外」の文字が、目の裏に残っている。
赤い文字。冷たい文字。
どこにいても、ずっと探していた。
休日になると、SKYで上空を飛んだ。
難民船が通る航路を、何度も何度も飛んだ。
見つからなくても、探せていた。探せているという事実が、希望だった。
行方不明者リストも、端末で見られた。
毎日、更新を確認した。
名前がないことを確認するのが、日課だった。
西方は中枢だから、もっと詳しく辿れるかもしれないと思っていた。
もっと多くの情報があるかもしれないと思っていた。
――思っていただけだった。
強くなれば、探せると思った。
強くなるほど、自由がなくなる。
RED ROSEになるほどーー
RED ROSEになったから、探せなくなった。
(カイトを探すために、ここまで来たのに)
廊下の壁に、ポスターが貼ってあった。
「規律」「統制」「効率」
大きな文字。綺麗な文字。
その下を通り過ぎる。
足音が響く。
誰もいない廊下で、自分の足音だけが響く。
曲がり角を曲がったところで、立ち止まった。
壁に手をつく。冷たい壁。
息を吐く。
吐いたのに、胸が軽くならない。
(RED ROSEだから)
(ここでは、自由に探せない)
問いに、答えはない。
答えがないまま、問いだけが残る。
あすみは壁から手を離し、また歩き始めた。
足音が響く。
白い廊下が続く。
窓の外に、基地の滑走路が見えた。
格納庫に戻す途中の、白い装甲の機体が並んでいる。
RED ROSEの機体も、そこにある。
あの機体で、空を飛べる。
敵も撃てるし、民間人も守れる。
……でも、カイトを探すためには飛べない。
自由に見えて、自由じゃない。
(…檻の中にいるみたい)
あすみは窓から目を逸らし、自室へ向かった。
足音だけが、白い廊下に響き続けた。
次回更新は2/26 0時前後になります。




