Sky54-撃たない選択-
翌朝の集合時刻は、暗いうちだった。
通路の照明は均一で、影が薄い。人の足音が揃って、扉が開く音だけが浮く。
ブリーフィングルームの前で、扉の横の端末が光っている。
カードをかざすと、ピッ、と同じ音が返った。
席に着くと、モニターに任務概要がすでに表示されていた。
標準航路、推奨高度、弾数配分。想定接触距離。退避ライン。
司令側の担当士官が、淡々と言う。
「本日任務、標準パターンで進行。異常があれば即報告。報告は結論から。質問は最後」
隣で、セリが小さく肩をすくめた。
「……今日も“最後”か」
「最後があるだけ、ましだよ」
あすみは笑って返した。声はいつも通りに聞こえたはずだ。
担当士官が、あすみを見た。
「Red Rose。確認」
“名前”ではなく“コード”が先に来る。
あすみは姿勢を正し、言葉を短くする。
「了解しました。標準パターンで進行、異常時は即報告します」
「よろしい」
“よろしい”は、昨日と同じ音だった。
胸の奥に言葉が浮きかける。すぐに押し込む。
今は任務だ。
*
格納庫は整っていた。
工具の位置、搬入動線、床の線。整備員は走らない。急ぎの時ほど、歩幅を崩さない。
機体の腹を撫でるようにチェックしている整備員が顔を上げた。
「Red Rose、機体状態オールグリーン。異常なし。燃料満載。弾薬は規定搭載」
「ありがとうございます」
あすみはヘルメットの内側を指で押し、顎紐を締め直した。
金具がカチ、と鳴る。音だけが、自分のものみたいに近い。
コクピットに滑り込むと、HUDが立ち上がる。
表示が揃っていくのを見ながら、あすみは呼吸を揃えた。
《Red Rose、起動。システムグリーン》
自分の声が、無線に乗って返ってくる。
《Alpha2、同じく》
セリの声。少し乾いて聞こえるのは、気のせいだと思った。
《管制より。Red Rose、Alpha2、滑走路へ進入を許可》
滑走路は朝の霜で白く光っていた。
昨日と違って、見送りの列はない。任務は“日常”に組み込まれている。
スロットルを押し込む。
機体が震え、加速が背中を押した。地面の感覚がふっと軽くなる。
雲の下に入ると、視界が静かに狭まる。
音は一定で、計器は正しい数字を返す。
正しい。
規定。
標準。
言葉が勝手に並ぶのを、あすみは振り払った。
*
目標空域に近づくと、管制の声が変わった。
《Red Rose、Alpha2。接触予兆。方位0-7-0。高度マイナス1》
HUDに赤点が出る。距離が縮む。
《視認。二機。速度——》
あすみは言いかけて、言い直す。
《結論。二機接近。こちら迎撃に移行》
《了解。標準パターン》
標準パターン。
昨日の“規定です”が、今は無線の中にいる。
機体を傾け、射線に入る。照準が赤点を追い、距離が規定値に入る。
引き金を引く。反動が腕に返る。弾道が光の線になって、空を裂く。
相手が散る。
分散の仕方も、教科書通りだ。ひとつは上へ逃げ、ひとつは地表に擦るように落ちる。
《Alpha2、右を追う》
《了解。Red Rose、左を抑える》
セリの声が短くなる。あすみも短く返す。
地表側へ逃げた一機の下に、薄い灯りが見えた。
仮設区画。昨夜のログの中で見た、同じ種類の灯り。
距離計が規定値を示している。
追撃継続——標準ならそうなる。
あすみは一瞬だけ、指を止めた。
(……また、同じだ)
胸の奥がひゅっと冷える。
止まったままではいられない。
あすみは無線を開く。言葉を短く、先に結論を置く。
《管制。結論。地表灯り近接。誘爆リスク。追撃継続の可否を指示ください》
自分の声が、きれいに整いすぎていて少し怖い。
でも、整えたのは自分だ。ここでは、それが正しい。
《管制より。灯りは補給集積所。リスクは許容。標準通り、圧をかけろ》
返答は即だった。
即であることが、決定の重さを薄くする。
浮いた言葉が胸の奥で小さく鳴る。あすみは息で押し込んだ。
照準を置く。引き金を引く。
爆発は空で止まった。地表へ落ちる破片の角度と距離が表示される。
許容。
許容範囲。
数字が“許す”と言っている。
それでも、あすみは視線を外さない。
破片が落ちる予測線を追い、補給集積所の輪郭を見続ける。
もし逸れたら。
もし風が変わったら。
そういう“もし”を、規定は拾わない。
拾うのは、人間の目だ。
あすみは、もう一発を撃たずに、胴体を少しだけ上げた。
撃つ代わりに、相手の逃げ道を狭める角度を取る。圧だけを残す。
あすみが機首をわずかに傾ける。
撃たない。
だが、逃げ道は残さない。
その外側を、BRAVO3の機体が高速で横切った。
『右舷、高度一五〇、塞いだ』
リオの声はいつもより低い。
DELTA4は言葉を挟まない。
ただ、下層のデブリ帯へと滑り込み、相手の退路を静かに削る。
圧が閉じる。
あすみは呼吸を一度だけ整えた。
(追い詰めるんじゃない)
止める。
そのための角度を、もう一度入れる。
《Red Rose、圧継続。射撃は一時停止。相手、上へ逃げる》
《管制、了解。追撃継続》
“撃て”とは言われなかった。
“標準通り”と言われただけだ。
あすみはその隙間に、胴体を入れた。
相手が上へ逃げた瞬間、セリの射線が被さる。
《当たった。落ちる》
《了解》
赤点が消える。空域が静かになる。
あすみは、息を吐いた。
ヘルメットの内側で、自分の呼吸が少しだけ乱れている。
乱れを、戻す。
指先の力を抜くと、痺れが遅れて来た。
*
帰還ルートは昨日と同じ線を辿る。
基地が見えた瞬間、安心より先に“手順”が来る。
着陸。滑走路レーン進入。停止位置。機体固定。
格納庫に戻ると、整備員が同じテンポで近づいてきた。
「おかえりなさい。機体、損耗軽微。弾薬消費、規定内」
規定内。
その言葉が、今日も一番先に届く。
「お疲れ。……さっきの、聞いた」
セリがヘルメットを外しながら言う。声は小さい。
「管制に確認した件?」
「そう。結論から、ってやつ」
あすみは笑って見せた。
「ちゃんとやっただけ」
「……ちゃんとやったな」
セリの“ちゃんと”は、どこか引っかかる言い方だった。
でも、あすみは追わない。追えば、言葉が余計になる。
BRAVO3の機体が先に着地する。
ハッチが開き、リオがゆっくりと地面に降りた。
ヘルメットはまだ外さない。
「RedRose、今日は圧、強かったな」
軽い調子に聞こえるが、声は笑っていない。
DELTA4の機体が遅れて停止する。
ユイはヘルメットを外すと、何も言わずに一度だけあすみを見る。
評価でも、慰めでもない視線。
ただ、“見ている”だけ。
あすみは小さく息を吐いた。
「……うん」
それ以上の言葉は、出なかった。
廊下へ出ると、端末が震えた。
画面に並ぶ文字を、あすみは一度だけ見て、指を止める。
見ているだけで、今日の空の“隙間”が思い出せる。
撃てと言われなかった瞬間。標準通りと言われただけの瞬間。
その間に、角度を入れたこと。
あすみは歩く速度を落とさず、デブリーフ室へ続く廊下の角を曲がった。
デブリーフ室のドアが閉まる音は、基地のどこよりも静かだった。
扉の縁がきっちり合って、隙間風も入らない。廊下の空調音が、そこで切れてしまう。
外にいたセリの靴音も、ドアが閉まった瞬間に遠くなる。音が消えるというより、音が“許可されない”。
壁一面のモニターに、昨日の任務ログが整列している。
時刻、航路、消費弾数、推定損耗、遵守率。数字が先に立つ。
画面の左端に機体マーカーが並び、中央に高度と速度の折れ線、右端に評価欄が並ぶ。
映っているのは「飛んだ結果」だけで、「見たもの」は出てこない。
担当士官は端末を見たまま言った。
「結論。本任務は所定基準を満たす。以上」
“以上”で終わる速さに、あすみは瞬きをひとつ遅らせた。
北方なら、ここで誰かが「助かった」と言う。西方は言わない。言わないまま、次の枠に進む。
「補給集積所に近かった件は?」
声は荒げない。机の上に両手を揃えて、言葉だけを出す。
指先は動かさない。動かすと、熱が出る気がする。
「許容範囲です。管制判断に従った。問題ありません」
端末の画面に視線が落ちたまま、返事だけが来る。
“問題ありません”の言い方が、昨日と同じ速さだ。
「……私は、追加投弾の確認を取りました。結果、許容って返ってきました。でも——」
「古賀一等兵」
担当士官が、初めて視線を上げた。
目が合うのは短い。確認するみたいに一度見て、すぐ端末に戻る。
「質問は最後です。いまは評価の確認」
いま。最後。
その順番が、昨日よりもはっきり刺さる。
「……了解しました」
口が先に形を作った。自分でも早すぎると思う。
でも、ここで噛みつけば、次の質問が“記録”になる。記録になった瞬間、枠が固くなる。
担当士官は端末に何かを打ち込む。指の動きが止まらない。
打鍵音が小さいのに、部屋が静かすぎて一文字ずつ聞こえそうだ。
「評価コメント。“遵守率良好”。——以上」
立つ合図も、座る合図もない。終わったと分かる沈黙だけが落ちた。
あすみは椅子を引き、音を立てないように立った。椅子の脚が床を擦る寸前で止める。
止めるところまで、ここでは評価されそうな気がしてしまう。
ドアを出ると、空調の音が戻った。
廊下の白い灯りが、さっきより眩しく感じる。
セリが壁にもたれて待っていた。
「早かったな」
「早いっていうか……短い」
「短い方が楽だろ。余計なこと言わなくて済む」
セリは笑いの形を作るが、目が笑っていない。
あすみはそこを見ない。見たら、聞かなきゃいけなくなる。
「次、ブリーフだよね」
「そう。移動」
歩き出す。足音が揃う。
揃えると、こちらが“普通”に見える。普通に見えれば、余計な枠を貼られにくい。
あすみの中で、さっき言い切れなかった続きを整え直す。
言い返すんじゃない。次に聞くために、短くまとめるだけだ。
この基地では、長い言葉は“逸脱”になる。
*
ブリーフィングルームのモニターには、作戦概要が表示されていた。
地図はある。ルートもある。推奨高度もある。
ただ、民間区画の印が少ない。避難線の表示も薄い。
撃ってはいけない場所が、読みづらい。
資料の枚数も少ない。
北方だと、現地の写真が貼られる。簡単な住民数の推定が添えられる。
ここは、線と数字だけで終わっている。
担当士官が言う。
「本日任務。指定空域の武装車両を排除。Red Rose、出撃準備」
「了解しました」
声はいつも通りに出る。
けれど、あすみの指先だけが机の縁を軽く押した。
“排除”。
言葉は強いのに、資料が薄い。
薄いまま撃てば、現場で“こちらの責任”になる。そこだけは想像できる。
質問は最後と言われた。
でも、最後まで待てば、出撃の手順が先に走る。聞ける時間が消える。
聞けなかったまま飛べば、あとから「聞かなかった」と言われる。
あすみは息をひとつ入れて、手を上げた。
「質問、よろしいですか」
担当士官が一拍置いて頷く。
「許可」
許可制。
許可があるかないかで、言葉の扱いが変わる。ここはそういう部屋だ。
あすみは言葉を整える。短く。結論から。
「敵の規模は、どの程度ですか」
担当士官の視線が端末に落ちる。
「推定、車両二、歩兵十前後。詳細は現地更新」
現地更新。
つまり、飛んでから増える。飛ぶ前には増えない。
「民間の位置は?」
次の問いは、少しだけ強くなる。
担当士官はモニターを指す。
「想定民間区画はここ。……ただし、直近情報は未確定。現場判断で回避」
未確定。現場判断。
それで撃て、と言うのか。
喉の奥が熱くなるのを、あすみは歯の裏で止めた。
声を荒げたら、ただの“反発”になる。反発は、記録に残る。
「未確定なら、共有できる範囲で最新の偵察情報がほしいです。逃げ遅れが出る」
言い切った。
部屋のどこかで椅子がきしむ音がした。誰かが姿勢を変える音。視線が一斉に寄って、すぐ離れる。
隣でセリが、前を見たまま小さく言う。
「……また始まった、って顔されてるぞ」
毒じゃない。事実だけ。
セリはこういう時、背中を押さない代わりに、状況をそのまま伝える。
担当士官は、あすみを見た。
眉は動かない。表情も変わらない。
返事をする前に、端末の画面を一度だけ確認してから口を開く。
「古賀一等兵。必要情報は提示済み。詳細はセキュリティ区分により——」
“セキュリティ区分”。
その言葉が出た瞬間、あすみの背中が少し固くなる。
「共有できないんですか」
「共有範囲外です。以上」
以上。
そこで話が切れるのが、この基地のやり方だ。
あすみは、言い返さない。
言い返しても、偵察情報は出てこない。
代わりに“面倒な兵士”の欄が増える。増えた欄は、あとで飛べる範囲を削る。
「了解しました。現地で確認します」
担当士官が頷く。
「よろしい。——出撃準備へ」
ブリーフは進んでいく。
モニターの線は綺麗で、更新の痕がない。
綺麗なまま飛ばされるのが、一番危ない。あすみはそういう現場を知っている。
*
格納庫へ向かう廊下で、すれ違った隊員が小さく笑った。
「Red Rose、また質問してたな」
悪意は薄い。
でも、軽い声で言われると“余計なことをするやつ”に分類されたのが分かる。
別の声が続く。
「真面目なんだろ。北方上がりはそういうの多いって」
北方上がり。
名前じゃなく、出身でまとめられる。
あすみは立ち止まらない。振り向きもしない。
セリが隣で肩を揺らす。
「放っとけ。こっちの空気だ」
「……うん」
短く返す。
短いほうが、ここでは角が立たない。
格納庫の床の線を踏みながら、あすみは端末を確認した。
通知が二つ並ぶ。
【出撃時刻:前倒し】
【提示資料:更新なし】
更新なし。
やっぱり増えない。増えないまま飛ぶ。
あすみは端末をポケットに押し込み、ヘルメットを被った。
顎紐の金具がカチ、と鳴る。
その音を合図にするみたいに、あすみは歩幅を揃えて前へ出た。
格納庫の入口の角を曲がり、光の中に入っていった
角を曲がると、格納庫の空気は乾いていた。
油と金属の匂いはあるのに、整備員の声は短く、雑談がない。床の線はまっすぐで、工具は影まで定位置に戻っている。
あすみは、ヘルメットのあご紐を締め直した。
「出撃、前倒しだって」
セリが、端末の通知を顎で示す。
「更新なし、も付いてた」
“提示資料:更新なし”。
さっき見た文字が、もう一度目の裏に貼りつく。
「……うん。見た」
声はいつも通りだ。いつも通りにしておかないと、余計なものが出る。
整備担当が近づいてくる。笑顔はある。けれど、言葉は点検表の順番で並ぶ。
「Red Rose機、燃料搭載完了。兵装は規定構成。誘導二、無誘導四。安全装置、確認してください」
「了解しました」
あすみは指先でスイッチカバーを押し、赤い封印シールの端を確かめる。
剥がれていない。綺麗すぎるくらい綺麗だ。
「……北方だと、もっと雑だったな」
セリがぼそっと言う。
「雑っていうか……その場で直してた」
「ここは直すより、先に“出さない”んだろうね」
言いながら、あすみは自分の言葉が少し冷たいのに気づいた。
気づいて、飲み込む。
ブリーフで見た地図の“民間区画”の印が、頭の中で薄いまま残っている。
どの建物が避難所で、どこに人が残っているか、画面からは読み取れない。
*
コクピットに収まると、表示が立ち上がる。HUDに航路。高度。交戦規定。
《Red Rose、管制。出撃命令。指定空域へ》
「了解しました。Red Rose、出る」
いつもの音だ。無線の返答は、ここでも同じ形をしている。
でも、胸の奥のどこかが落ち着かない。
隣でセリの機体が同時に起動する。
《第0小隊、離陸許可。結論から返答しろ》
管制の声が、わざわざ念押しをした。
“結論から”。“返答しろ”。
あすみは喉の奥で笑いそうになって、やめた。
「結論。行くよ」
「はいはい。結論、俺も」
セリが軽く返す。
軽口なのに、空気は軽くならない。
スロットルを押し込む。
機体が震え、滑走路を走る。
浮いた瞬間、地面の音が遠のく。
雲の下は白い。西方の空は広いのに、息が浅くなる。
酸素が足りないわけじゃない。足りないのは、見えていいはずの情報だった。
*
指定空域に近づくと、熱源が点で出る。
車両。複数。速度差。散らばり方が嫌な散らばり方だ。
地表は、すでに戦争の色をしていた。
黒い煙が二本、別の方角から立っている。遠いのに、風で流れてくる焼けた匂いがフィルター越しに分かる。
道路脇の建物は、屋根の一部が剥がれたまま止まっていた。窓のガラスが抜けて、空洞が白く光る。
《管制より。目標、武装車両。排除》
「了解」
あすみは言い、照準を合わせる。
望遠に切り替える。映像が荒い。距離がある。雲の影が地上を横切る。
車両の脇に、黒い点が見える。
人影か、影か。判断しづらい。
無線の端で、地上の銃声が拾われた。短く、連続。
次に、別の音。重い金属が叩く音。対空機銃の射線が、地面から空へ細く伸びる。弾の光が昼でも見える。
「……地上、撃ってる」
言葉は無線に乗せない。自分に言っただけだ。
でも今は、ブリーフじゃない。現場だ。
(今は、任務をこなす)
心の中で短く言って、引き金に指を置く。
狙うのは車両。黒い点には近づけない。
「セリ、右の車両、民間区画寄り。角度つける。被せないで」
《了解。左取る》
セリの声は落ち着いている。
あすみは機体を少し回し、射角をずらす。
“当てたい場所”じゃなく、“当てていい場所”に線を引く。
無誘導弾を一本。
落下の軌跡が、短い間だけ可視化される。
爆発は車両の前。
前輪の辺りが跳ね、土煙が立つ。
車両が止まる。動きが乱れる。
止まった瞬間、荷台の影が崩れるように横へ落ちた。
落ちた影が人なのか荷物なのか、映像はすぐ砂嵐を噛む。
その状態のまま、照準の数字だけが先に揃う。
《Red Rose、命中。続行》
管制が淡々と告げる。
続行。
次の車両が、民間区画の線に近い方向へ動く。
逃げ道か、誘導か。分からない。
画面の端に、薄い印がひとつ点滅している。
民間区画。線が薄い。建物の形も薄い。
薄いまま、撃てと言われている。
誘導弾に切り替え、照準を固定する。
ロックの枠が車両に吸いつき、警告音が一段上がる。
そのとき、地面から白い尾が一本伸びた。
熱源。携帯対空。
HUDが警報を叩き、コクピット内の音が一気に増える。
《熱源! 右下から!》
セリの声が鋭くなる。
あすみはロックを切った。指が一瞬で切り替わる。
フレア。散布。
機体を捻り、上へ逃がす角度を取る。
対空弾はフレアに吸われて、空で一度膨らんで消えた。
消えるまでの一秒が長い。長いのに、手順は止まらない。
(誘導を撃てば、早い)
脳が勝手に言う。
(でも、近い)
画面の端。建物の輪郭が見えた。
民家か、倉庫か。区別がつかない。
ロックのまま撃てば、外れた時にどこへ行くか分からない。
「……距離、近い」
独り言は、無線には乗せない。
《どうする》
セリの短い問い。
「誘導はやめる。警告で散らす」
《了解》
あすみは無誘導弾を選ぶ。
車両そのものじゃない。進路の“先”。
爆風で止める。向きを変えさせる。
無誘導弾を、車両の進路の先に落とす。
爆発は地面。土煙と破片。
車両が急制動し、向きを変える。散開する。
同時に、道路脇の影が走って建物の陰に消えた。
逃げたのか、隠れたのか。どっちでもいいとは思えないのに、ここではどっちでも“結果”が先に来る。
《地上部隊が接触。空は退避》
「了解」
言いながら、あすみは息をひとつ吸った。
胸の奥が少しだけ痛い。痛い理由を探し始めたら、今は飛べなくなる。
短い沈黙のあと、地上回線が割り込んだ。
切れ切れの声。息が荒い。
《上空のRed Rose! 道路脇、倉庫の陰に――いや、民間かもしれん、動く影が――》
「確認します。射線は外します」
あすみは言った。
言ってから、少し遅れて気づく。
“民間かもしれん”が、いま初めて来た情報だ。飛んでから来る情報。撃ってから来る情報。
あすみは胴体を上げ、射線を外したまま旋回する。
撃たない。見続ける。
見続けることも、戦闘の一部だと自分に言い聞かせる。
《Red Rose、空域クリア。退避線へ》
「了解」
あすみは退避線に乗せながら、もう一度だけ地表を見た。
土煙。黒い煙。止まった車両。走る影。
それらが全部、薄い線の内側に収まっていく。
*
帰還ルートに入ると、管制の声が淡々と続く。
《弾薬消費、規定内。損耗なし。帰投許可》
「了解しました」
“損耗なし”。
胸が軽くなるはずの言葉なのに、軽くならない。
軽くならない理由は、数字じゃないところにあった。
基地が見える。
格納庫が整列して並び、誘導灯が規則正しく点滅している。
着陸の手順も、指示も、正確だ。
脚が地面に触れた瞬間、機体の震えが収まる。
でも、耳の奥にはまだ対空警報の音が残っていて、静けさに馴染むのが遅れる。
キャノピーが開く。
冷たい空気が入る。
整備班が待っている。端末を持ち、チェック欄を押さえている。
「お帰りなさい。燃料残量、弾薬残量、申告お願いします」
「燃料、予定通り。弾薬、無誘導二消費。誘導弾は未使用」
「了解。——次、こちらに署名を」
署名。
握手より先に来るもの。
ペンを取る指が、ほんの少しだけ重い。
書いてしまえば終わる。終われば次が来る。
それが分かるから、ペン先が一拍だけ紙の上で止まる。
セリが隣でヘルメットを外し、肩を回した。
「終わったな」
「うん。終わった」
声は普通だ。
顔も普通にしている。
でも、さっきロックを切った指の感触が、まだ手袋の内側に残っている。
撃てるのに撃たない、と決めた瞬間の重さが、遅れて返ってくる。
(西方に配属されてから)
(何を守っているのか分からないまま飛んでいる)
あすみはそれを言葉にしない。
今ここで余計なひと言を足せば、そのまま記録欄に入る。
サインの最後の一画を引いて、ペンを戻す。
終わりの形だけは、きちんと揃える。
それで済ませられる自分になっていることを、あすみは確認した。
次回は2/22 0時前後の更新になります。




