Sky-23-汚れた戦場-
数日経っても、ホルスターの重さは軽くならなかった。
北方第七基地の朝は、いつも通り冷たい。
滑走路の上を吹き抜ける風は、雪になるかならないかの境目みたいな湿り気を含んでいる。格納庫の扉は半分だけ開いていて、中ではラルフたちがSKYの腹に潜り込んでいた。
「燃料ライン、再チェック終了ー! 今日も俺の子は完璧だ!」
「お前の子じゃなくて軍の機体だって、いつも言ってるだろ」
ジンがツッコむ声が、薄く笑いを混ぜて空気に浮いた。
そんな声を背中で聞きながら、あすみは自分の腰のホルスターに視線を落とす。
留め具を外し、少しだけ銃を引き出す。金属の冷たさが、指先から腕へと伝わる。
銃口を確認して、また静かに戻した。
数日前までは、「一応持ってる」だけの重さだった。
いつの間にか、それは違う意味を持ち始めていた。
(撃つためだけじゃない)
路地の匂いが一瞬、鼻の奥をかすめる。
切れたボタン。震える足。塞がれた声。
(“最低限の線を守るため”の道具)
それを知ってしまった手は、前より少しだけ慎重だった。
「古賀二等兵、装備チェック終わったか?」
背後から、マルコ伍長の声が飛んでくる。今日の任務は、避難列の護衛。北の境界線近くまで車列を送っていき、戻ってくるだけ――の、はずだ。
「終わりました」
あすみはホルスターの留め具を止め、敬礼代わりに顎を引いた。
マルコは防寒ジャケットの襟を立てながら、整列しているトラックの列を振り返る。
「こっちは地上で囲む。
お前らは上から“威圧”頼むぞ。最近、“撃てないの分かってるだろ”みたいな連中が増えてきてる」
「……分かってます」
“中立圏だから”“避難民だから”を盾にした、ギリギリの嫌な動き。
前線ほど派手じゃないけれど、汚れだけが濃く積もっていく場所。
「赤い薔薇が空に咲いてりゃ、それだけで多少は抑止力になる」
マルコが、冗談みたいに言う。
あすみは、曖昧に笑って誤魔化した。
薔薇なんて名前を自分に当てはめるのは、まだどうしても居心地が悪い。
けれど、誰かにとってそれが「大丈夫の印」になるなら、否定することもできなかった。
「あすみ」
別の声が、背後から届く。
振り向くと、セリがヘルメットを片手に立っていた。いつも通りの穏やかな顔だけど、目だけは任務モードの色になっている。
「リーサ軍曹から通達。今日は“接触あり得る”前提で行けってさ」
「……接触」
「『小競り合いレベル。撃つ前に睨み返せればベスト』だと」
セリは、リーサの口調を真似して肩をすくめる。
「まあ、いつも通りってことだ」
「いつも通り、ね」
いつも通り、空で撃つ。
いつも通り、地上には“撃たないはずの線”がある。
そのどちらも、もう完全に信じ切ることはできない。
それでも、飛ぶ。
*
避難列は、雪原をゆっくり進んでいた。
キャビンに子どもの顔を押し付けたトラック。荷台に家財道具を積み上げたトラック。屋根の上に布団を括りつけたものまである。
白い地面に、タイヤの跡が長く伸びていく。
その上空を、SKY二機が等間隔で旋回していた。
《こちらアルファ1、上空異常なし》
セリの声が、ヘルメット越しに聞こえる。
《アルファ2、了解。視界良好》
あすみも短く返す。
コクピットの中は、いつもより静かだった。
計器の光と、エンジンの振動。
そして、腰のホルスターの存在感。
(ここから降りて、地上で撃つこともあるんだ)
昨日までは想像しなかった線が、頭の中に一本増えている。
“撃つため”じゃなく、
“最低限の線を守るため”。
それでも銃口の向こうにいるのが、人であることは変わらない。
(怖いよ、普通に)
ふと、そんな言葉が浮かんで、少し苦笑する。
空で撃つことにだって、本当は怖さはある。
ただ、あまりにも距離が遠くて、恐怖の形が変わってしまっているだけだ。
地上で銃を抜いたあの瞬間。
「女だから」舐めていいと決めつけた目線。
自分だって、制服さえなければ同じ目で見られる側だという自覚。
一人の女性兵士であることの怖さと、
Sランクの赤い薔薇であることの重さ。
両方を、同時に抱えたまま飛んでいる。
《前方、黒い影、確認》
セリの声が急に硬くなった。
正面の雪原に、小さな黒点がいくつか散っている。双眼モードに切り替えると、武装した男たちがトラックの進行方向を塞ぐように立っていた。
整った軍服ではない。
バラバラの装備。
肩に掛けた銃。
中には、民間人のコートの上からだけ武器を持っている者もいる。
《リーサ軍曹、前方に武装グループ。車列進行方向を阻害》
《こちら司令室。識別中》
無機質な声が返ってくる。
数秒の間を置いて。
《中立側登録なし。自称“自警団”の可能性高い。接触許可。
ただし、先制射撃は不可。まずは威嚇、牽制で制圧せよ》
「いつものやつか」
セリが小さく息を吐いた。
《アルファ1了解。アルファ2、先に上を抑えてくれ》
《了解》
あすみはスロットルを少し押し込み、SKYを前に出した。雪原の上に影が伸びる。
男たちが、上を見上げる。
一瞬だけ、動きが止まった。
「……でっけえ」
誰かがそう口の形だけで言ったのが、カメラ越しでも分かる。
右手が自然に、操縦桿の横にある武装スイッチへ伸びる。
ミサイルではなく、機関砲。
照準を、ずっと手前の雪原に合わせる。
《アルファ2より、警告。
ここは連合軍管理区域。避難列への妨害行為をやめてください》
機械越しの声は、感情が薄くなる。
腹の中に抱えているものは、誰にも見えない。
男たちの中の一人が、こちらに向かって銃を突き上げた。引き金にはまだ指をかけていない。
「撃てないだろ」という顔だった。
撃てない線を、舐める顔。
「……」
あすみは、照準をほんの少しだけ前にずらした。
引き金にかけた指が、躊躇なく動く。
SKYの腹から、機関砲弾が数発、雪原へと吐き出された。
白い地面が爆ぜ、男たちの数メートル手前に黒い傷が走る。雪と土が混じって、汚れた塊になって空に舞った。
耳をつんざく音は、コクピットに届く頃にはもう少し柔らかくなっている。
代わりに、男たちの肩がびくりと跳ねる様子が、はっきり見えた。
さらに一歩、前へ。
《これは牽制射撃です。
次に避難列へ危害を加える動きをした場合、正当防衛として攻撃します》
声だけは、静かに、淡々と。
本当は、怖い。
間違えたら、人が死ぬ。
間違えなくても、人が死ぬかもしれない。
でも、この線を引かなければ、
あのトラックの中の子どもの誰かが、
ナイルやハルみたいな子が、
別の場所で静かに壊れていくかもしれない。
「……守るために撃つ」
誰にも聞こえない声で呟く。
男たちは、しばらくこちらと雪原の傷跡を見比べていた。
やがて、銃を下ろし、道の端へと退いた。
雪を踏む音が、機体のカメラ越しに見える。
《地上部隊、前方脅威後退。車列前進開始》
マルコの声が入る。
《助かる、空の薔薇さんよ》
「薔薇じゃないです」
反射的に返してから、あすみは小さく息を吐いた。
緊張で固くなっていた肩の力が、少しだけ抜ける。
《あすみ》
セリの声が、隣の空から届いた。
《大丈夫か》
《うん。ちょっと手が汗でべとべとしてる》
冗談交じりに返すと、セリは「そりゃそうだ」と短く笑った。
《俺だって怖いぞ。
“撃つな”って言われてるところで、“撃たなきゃ守れない線”が見えてる時が一番怖い》
《……うん》
一人の兵士としての怖さ。
一人の女としての怖さ。
それでも、操縦桿は離さない。
避難列が再び動き出す。
トラックの屋根から、小さな手がひらひらと振られた。
誰に向かってか分からないその手を、あすみは胸の奥で勝手に「自分たちへのもの」と決めてしまう。
《セリ》
《ん》
少し間を置いて、あすみは言った。
《中学の時も監視されて、今もセリに監視されてる気分だよ》
自分で言っておいて、少しだけ笑ってしまう。
重い空気を少しだけ軽くするための、下手な冗談。
《……監視じゃなくてバディだろ》
間髪入れずに返ってくる。
《……そうだね、あの頃もみんな、まともに監視役できてなかったしね》
教室で。校庭で。
カイトが馬鹿やって、アンが呆れて、ジョンが笑って、セリがため息をついていた頃。
誰も、誰のこともちゃんと“監視”なんてできていなかった。
《お前、言うようになったな》
セリの声にだけ、ほんの少し感情が混じる。
《成長してるから》
あすみは、少しだけ得意げに返した。
(セリがいるから、大丈夫って思ってる自分がいる)
それは、もう揺るがない事実になっていた。
何かあっても、隣にいるバディがどうにかしてくれる――と、どこかで信じている甘い自分。
でも同時に。
(“私がいるから大丈夫だ”って思っててほしい人も、きっといる)
避難列の中の誰か。
ナイルやハル。
北方基地で見送ってくれる整備班。
地上で銃を構えるマルコたち。
「空に赤い薔薇が咲いてるから、大丈夫だ」と、
どこかで勝手に安心してくれている誰かが、もしかしたらもういるのかもしれない。
守られている自分と、守る自分。
どちらかを捨てたら、多分どちらも壊れる。
(だったら、両方抱えて飛ぶしかない)
汚れた戦場の真ん中で。
雪と泥と、色んなものが混ざり合った空気の中で。
SKYの機体を少しだけバンクさせて、あすみは避難列の上をもう一度、ゆっくりと旋回した




