第1話 麻布、午後の幻影
アスファルトが陽炎を揺らす午後。春先の太陽は気まぐれで、雲間から覗くときは初夏を思わせるほど容赦なく路面を炙る。港区、麻布十番。古い商店と新しいカフェ、高級マンションと古びた民家がパッチワークのように混在する街。比留間湊は、電動アシスト自転車のペダルを規則的なリズムで踏みながら、その複雑な街路を縫っていた。30歳。フードデリバリーサービスの配達員。それが今の彼の肩書であり、世界の全てだった。
背中の大きな四角いバッグには、保温機能を示すロゴがプリントされている。使い込まれてはいるが、不潔な印象はない。彼自身と同じように。少し着古した速乾性のTシャツと動きやすいパンツ。その上に羽織った配達サービスのベスト。無造作に伸びた前髪の下で、彼の目は前方の交通状況と、スマートフォンのナビゲーション画面、そして行き交う人々の流れを冷静に捉えている。表情はほとんど動かない。まるで都市という巨大な機械の一部であるかのように、彼はペダルを漕ぎ、ハンドルを切り、ブレーキをかける。感情の波は、凪いだ水面のように表からはうかがい知れない。
今日の配達先は、麻布十番商店街から少し脇道に入った場所にある古いアパートメントだ。ナビが示すルートは最短だが、湊は土地勘だけで、より効率的な裏道を選んでいた。入り組んだ路地、急な坂道。港区の地形は、彼の脚と自転車のモーター、そして頭の中の地図によって克明に描き出されている。彼はこの街の血管とも言える道を、血流のように巡り続けている。
目的地の前で自転車を停め、スタンドを立てる。見上げる建物は、周囲の新しいマンションやデザイナーズビルとは明らかに異質な空気を放っていた。おそらく昭和前期、あるいは戦後まもなくの頃の建築だろう。壁のタイルは一部が剥がれ落ち、煤けたような跡が時の流れを物語っている。しかし、玄関周りのアールデコを思わせる曲線的なデザインや、幾何学的な意匠が施された窓枠には、かつての瀟洒さが偲ばれた。湊の目は、無意識に壁のクラックや窓枠の歪みを捉える。構造的な欠陥というほどではない。だが、確実に建物は老い、緩やかに崩れ始めている。その静かな崩壊の過程に、彼は奇妙な共感を覚えることがあった。
エントランスの集合ポストには、「藤堂」という名の古風なプレートが嵌まっている。今日の届け先だ。オートロックなどない時代のエントランスを抜け、少し軋む音を立てる階段を上る。三階。目的の部屋のドアの前で、湊は一度だけ短く息を吐いた。気を引き締めるためではない。むしろ、日常業務という薄い膜を一枚、意識的に纏うためだった。
インターホンは鳴らさず、直接ドアをノックする。三回。軽く、しかしはっきりと。それがいつもの合図だった。 「……はい」 ドアの向こうから、少し掠れた、しかし品のある老婦人の声が聞こえる。間もなく、ガチャリ、と古風な鍵の開く音がした。
ドアがゆっくりと開く。現れたのは、小柄な老婦人だった。銀色の髪をきちんとまとめ、シルクのような光沢のあるブラウスに、楚々としたカーディガンを羽織っている。藤堂ウメ。湊が週に数回、この部屋に惣菜を届けている相手だ。 「お届け物です、藤堂様」 湊は、いつものように短く告げ、背中のバッグから保温された紙袋を取り出す。中身は近所の老舗デリカテッセンの惣菜セットだ。彼女の定番の注文だった。
「あら、健二。早かったのね」 藤堂夫人は、目を細めて湊を見上げた。その瞳には、親愛の情と、わずかな混濁が見て取れる。健二。それは、数十年前に病で亡くなった彼女の一人息子の名前だと、湊は以前、この部屋を管理している不動産屋から聞いていた。 湊は否定も肯定もせず、ただ黙って紙袋を差し出す。 「……今日は、なんだか日差しが強いわね。あなた、汗をかいて。さ、中へお入りなさい」 「いえ、ここで結構です」湊は静かに断った。これもいつものことだ。 「そう? ……そうだわ、今日はね、あそこの角の『グリルさくらい』のコロッケと、マカロニサラダなのよ。あなたも好きだったでしょう?」 『グリルさくらい』。数年前に閉店した、この界隈では有名な老舗洋食店だ。湊が持ってきたのは、もちろんそこのではない。しかし、藤堂夫人の記憶の中では、今も健在なのだろう。
湊は黙って頷き、紙袋を彼女の小さな手に渡す。老婦人はそれを受け取ると、ふわりと懐かしいような香りを嗅ぐ仕草をした。 「……ああ、いい匂い。ありがとう、健二。いつも悪いわね」 「いえ」 湊は短い返事と共に、視線をわずかに室内に向けた。薄暗い玄関先から見える範囲だけでも、調度品は古いが上質なもので整えられていることがわかる。壁にはセピア色の家族写真。そこに写る若き日の藤堂夫人と、おそらく夫であろう男性、そして、学生服を着た快活そうな少年。健二と呼ばれたその人だろう。湊とは似ても似つかない、明るい笑顔を浮かべている。
「……お代は、いつものところに置いておくわね」 「承知しております」 料金は事前にオンラインで決済されている。彼女が言う「いつものところ」とは、玄関の小さな飾り棚の上にあるアンティークの小物入れのことだ。以前、初めて届けに来た時、混乱した彼女がそこに現金を置こうとしたのを、湊が丁重に断ったことがあった。それ以来、彼女はオンライン決済の意味を理解しているのかいないのか、律儀に「いつものところに置いておく」と言うのだった。それは彼女なりの、湊(健二)への感謝の表現なのかもしれない。
湊が会釈をして身を引こうとした時、藤堂夫人が不意に窓の外へ目を向けた。湊の視線もつられる。玄関脇の曇りガラスの向こうに、隣の敷地に建てられた真新しい高層マンションの壁面が、午後の光を反射して白く輝いているのが見えた。 「……この窓から見える景色も、すっかり変わってしまったわね」藤堂夫人は、独り言のように呟いた。「昔はね、ここから富士山が見えたのよ。冬の、晴れた日には。健二が小さい頃、よく一緒に眺めたものだわ」 「…………」 湊は何も答えなかった。ただ、その曇りガラスの嵌まった木製の窓枠を観察する。古い建具だ。木材は乾燥し、わずかに反りが見られる。ガラスとの接合部には隙間風を防ぐためのモヘアシールが後付けされているが、それも劣化して痩せている。おそらく、冬場は相当な隙間風が入るだろう。彼の脳裏に、断熱性能や気密性といった、かつての職業で扱っていた言葉が反射的に浮かび、そして消えた。
「高い建物ばかりになって……。空が、狭くなってしまったわね」藤堂夫人は、寂しそうに続けた。 その言葉は、湊の心のどこかに、小さな棘のように引っかかった。空が狭くなった。それは物理的な事実であると同時に、もっと別の、何か大きな喪失感を象徴しているように聞こえた。 失われたもの。変わりゆく街。そして、取り残されていく人々や記憶。 湊は、藤堂夫人の細い肩に、時の重みがのしかかっているのを感じた。それは、彼自身が背負っているものと、どこか似ているような気もした。
「……では、失礼します」 湊は再び会釈し、今度こそドアの方へ向き直った。 「あ……健二」 背後から、呼び止める声。湊は足を止め、ゆっくりと振り返る。 「……気をつけて行くのよ。あまり、無理をしてはだめよ」 藤堂夫人の瞳は、今度は少しだけ焦点が合っているように見えた。それは息子への気遣いであり、同時に、目の前にいる見知らぬ配達員の青年への、純粋な老婆心なのかもしれなかった。 「……はい」 湊は短く答え、静かにドアを閉めた。ガチャリ、と再び内側から鍵のかかる音がする。
階段を降りながら、湊は左手の甲を見た。そこに、古い火傷のような、引きつれた痕がある。いつ、どうしてできた傷だったか。思い出すのは、熱と、轟音と、粉塵の匂い。そして、圧倒的な無力感。彼はポケットからスマートフォンを取り出し、次の配達指示を確認する。思考を、現在に引き戻す。過去は振り返らない。それが彼が自分に課したルールだった。
アパートメントを出て、自転車のロックを外す。跨ると、ペダルに再び体重をかけた。電動アシストが静かに作動し、滑らかに走り出す。 麻布の裏通り。古い建物と新しい建物がせめぎ合う風景の中を、彼は駆け抜けていく。藤堂夫人の部屋で感じた、澱んだ空気と時間の感覚が、まだ肌に残っているようだった。
幻影。 彼女が見ていたのは、亡き息子の幻影か。それとも、失われた過去の街の幻影か。 湊は思う。誰にとっても、この街は変わり続けていく。そして、その変化の中で、誰もが何かを失い、その幻影を追いかけているのかもしれない。彼自身もまた、過去という名の幻影から逃れるように、ただひたすらペダルを漕ぎ続けているだけではないのか。
次の配達先は、最新のオフィスビル。高層階にある外資系コンサルティング会社だ。古いアパートメントとは対極の世界。彼はギアを変え、速度を上げた。思考を振り切るように。ペダルの下の影から、目を逸らすように。 午後の陽光は、まだ強い。しかし、高いビルの谷間には、もう早い影が落ち始めている。湊はその影の中へと、音もなく滑り込んでいった。彼の背負う四角いバッグだけが、西日に染まる空の色をわずかに反射していた。