第2話 六本木の虚飾、ウーロン茶一杯
夜の帳が下り始めた港区。昼間の陽炎は消え、代わりに街の灯りがアスファルトを濡れたように照らし出す。比留間湊は、赤坂の喧騒を抜け、ペダルに込める力を少し強めた。次のピックアップ先は、西麻布の交差点近くにある隠れ家のような寿司店。そして届け先は、六本木ヒルズのレジデンス棟だ。
スマートフォンに表示されたオーダー内容は、特上の握り寿司が数人前。おそらく、追加の注文だろう。この時間帯、このエリア、そして最高級の寿司。届け先で何が行われているのか、想像に難くない。湊の思考は、しかしそこには深入りしない。彼の仕事は、指定された品物を、指定された時間までに、指定された場所へ届けること。それ以上でも、それ以下でもない。
西麻布の寿司店は、磨き上げられた白木のカウンターが印象的な、静謐な空気を纏った空間だった。湊が名乗ると、奥から出てきた厳格そうな職人が、重厚な木箱を無言で差し出す。箱からは、酢飯と新鮮な魚介のかすかな、しかし食欲をそそる香りが漂った。その丁寧な仕事ぶりに、湊は内心でわずかな敬意を覚える。彼自身の過去の仕事とは全く違うが、「本物」の持つ空気感は理解できるつもりだった。 「お預かりします」 短く告げ、木箱を慎重に背中の配達バッグに収める。中の仕切りと緩衝材が、繊細な寿司を衝撃から守るだろう。これもまた、彼の仕事の一部だ。
店を出て、再び自転車に跨る。六本木通りを東へ。交通量は多いが、流れはスムーズだ。ペダルを踏む足に、昼間の麻布の古いアパートメントの階段を上った時の、わずかな疲労感が残っている。藤堂夫人の顔が、ふと脳裏をよぎった。彼女が見ていた幻影。失われた時間。それに比べて、これから向かう場所は、おそらく現在という時間の、最もきらびやかな断面だろう。
巨大な複合都市、六本木ヒルズ。その威容が夜空に聳え立つのが見えてくる。ガラスと鉄骨で構成されたタワーは、内部の光を放ち、まるで意志を持っているかのように夜の街を見下ろしている。湊はその建物を、かつて建築を学んだ者の目で、そして今は単なる配達員として見上げた。複雑な構造、高度な技術、莫大な資本。その全てが結集して生まれた、現代のバベルの塔。美しい、と単純に思うこともできる。しかし、同時に、その巨大さ、緻密さが、どこか人間的な尺度を超えた冷たさを感じさせることも、彼は知っていた。
レジデンス棟への搬入経路は、一般の入口とは別に設けられている。警備員に配達先と身分を告げ、専用のエレベーターホールへ。大理石の床、間接照明、静かに流れるヒーリングミュージック。先ほどの寿司店とは違う種類の、しかし同様に研ぎ澄まされた空間。だが、ここには職人の手仕事の温もりはない。あるのは、計算され尽くした富と権威の象徴としてのデザインだ。 高層階へ向かうエレベーターの中で、湊は壁に映る自分の姿を見た。配達用のベストを着た、無表情な男。この豪華な空間において、彼は完全に異物であり、同時に、その機能を果たすためだけに存在を許された歯車の一つだった。
目的の階に到着し、長い絨毯敷きの廊下を進む。目的の部屋のドアの前には、すでにいくつかのケータリング用の空箱が置かれていた。ドアの隙間からは、抑えきれない喧騒が漏れ聞こえてくる。音楽、複数の話し声、そして時折響く、高く弾けるような笑い声。インターホンを押し、名乗ると、すぐに内側からドアが開けられた。
開けたのは、パーティースタッフらしき若い女性だった。
「あ、デリバリーですね。お待ちしてました。こちらへどうぞ」 促されるままに中へ入る。広いリビングダイニングには、三十人ほどの男女が集まっていた。皆、一様に洗練された服装で、グラスを片手に談笑している。壁には現代アートらしき抽象画。大きな窓の外には、宝石を散りばめたような東京の夜景が広がっている。まさに、虚飾、という言葉がふさわしい空間だった。
湊は部屋の隅でスタッフに寿司の木箱を手渡し、サインを受け取る。
その短い間にも、周囲の会話が断片的に耳に入ってきた。 「……でさ、例の湾岸のプロジェクト、うちが一枚噛むことになったんだよね」 「へえ、すごいじゃない! あれって、確か例のゼネコンがトラブってたやつでしょ?」 「まあ、色々あったみたいだけど、結局ウチのトップが政治家に一本電話入れてさ……」 若い男性が、声を潜めるでもなく、自慢げに話している。その隣では、ブランド品で着飾った女性たちが、SNS映えする料理の写真を撮るのに夢中だ。
別のグループからは、こんな会話も聞こえた。 「……だから、デザイン性重視で、構造的にはかなりチャレンジングなんだけどね。まあ、コスト削減も至上命題だし、多少の無理は現場で吸収してもらうしかないかなって」 「えー、大丈夫なんですか、それ?」 「大丈夫、大丈夫! 最新の解析ソフトでシミュレーション上はクリアしてるから。それに、万が一何かあっても、最終的には現場の責任ってことで……ははは」 乾いた笑い声。
湊は、その言葉を聞いた瞬間、背筋に冷たいものが走るのを感じた。構造、コスト削減、現場への無理、責任の所在。それは、彼がかつて身を置いていた世界で、嫌というほど耳にした言葉だった。そして、その言葉の先に何が待っているのかを、彼は身をもって知っている。左手の甲の傷跡が、疼くように熱を持った気がした。
最新の解析ソフト? シミュレーション? そんなものは、現実の複雑さと、時に起こりうる想定外の事象の前では、絶対ではない。ましてや、コストやデザインを優先するあまり、基本的な安全への配慮や、現場の声が軽視されるならば。湊は、彼らが語る「チャレンジングな構造」が、具体的にどのようなものか、頭の中でいくつかのパターンを思い浮かべていた。
そして、そのどれもが潜在的な危うさを孕んでいるように思えた。 だが、彼は何も言わない。言う資格も 理由もない。ただの配達員なのだから。
スタッフに促され、足早に部屋を出る。背後でパーティーの喧騒が再びドアの向こうに閉ざされる。エレベーターで下がりながら、湊は深く息を吐いた。あの空間に満ちていたのは、富と成功の匂いだけではない。
そこには、無自覚な傲慢さと危ういバランスの上に成り立つ虚栄心、そして、見えない場所で誰かが払っているかもしれない犠牲の気配が、濃厚に漂っていた。
六本木ヒルズを出て、夜風が頬を撫でる。少し汗ばんだ身体には心地よい。彼はまっすぐには次の配達へ向かわず、近くのコンビニエンスストアに立ち寄った。冷蔵ケースから、一番安いペットボトルの烏龍茶を一本取り、会計を済ませる。 コンビニの隣にある、小さな公開空地のようなスペースのベンチに腰を下ろした。周囲には誰もいない。車の走行音だけが遠く聞こえる。
ペットボトルのキャップを開け、烏龍茶を一口飲む。ひんやりとした、少し渋みのある液体が喉を通る。先ほどのパーティーで供されていたであろう、高級なシャンパンやワインとは似ても似つかない、ありふれた飲み物。しかし、今の湊にとっては、この飾り気のない味が、ささくれた神経を鎮めてくれるように感じられた。
一杯の烏龍茶。 それは、あの虚飾に満ちた世界と、今の自分との間に引かれた、明確な境界線だった。 彼らは、高層階から夜景を見下ろし、未来のプロジェクトを語る。一方で、自分は地上を走り、他人の注文した食事を運び、コンビニの烏龍茶を飲む。どちらが良いとか悪いとかではない。ただ、そこには埋めがたい断絶がある。
湊は思う。あのパーティーにいた人々は、藤堂夫人のような存在を想像するだろうか。変わりゆく街の片隅で、失われた過去の幻影と共に、静かに暮らす老人のことを。あるいは、自分のような配達員のことを。彼らの生活は、見えない誰かの労働によって支えられているということを。
かつて、自分もあちら側の世界にいたのかもしれない。巨大なプロジェクトに関わり、未来の都市の姿を描くことに、興奮や誇りを感じていた時期もあった。だが、あの出来事──熱と轟音と粉塵、そして手の甲の痛みと共に刻まれた記憶──が、全てを変えた。
構造計算。安全率。想定荷重。 それらは、ただの数字や理論ではない。その先には、人々の生活があり、命がある。その当然の事実を、自分は、あるいは自分たちがいた世界は、どこかで軽視していなかっただろうか。
湊は、ペットボトルの烏龍茶を飲み干した。空のボトルを近くのゴミ箱に捨て、再び立ち上がる。スマートフォンが、次の配達指示を知らせている。夜はまだ長い。配達は、まだ続く。 彼は再び自転車に跨り、ペダルを踏んだ。背筋を伸ばし、前を見据える。虚飾の世界を後に、彼は再び夜の街へと溶け込んでいく。ペダルの下の影は、まだ濃く、深く、彼に纏わりついている。しかし、今はただ、前へ進むしかない。烏龍茶のわずかな渋みが、まだ口の中に残っていた。




