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明確な言葉ではなかった。
けれど、訴える想いは日々強くなるばかりで、叶希望の心の揺れ動きもそれに比例して行く。
自分を求めてくれる世界がある。
自分が変えられる世界がある。
その激しい誘惑は、彼の心をこの上なく魅了した。
(ああ……まただ……)
希望は、唐突に自分が夢を見ていることを自覚する。
中世の欧州を思わせる世界が広がっていた。
そこには疫病が蔓延し、更に、自然災害が度々猛威を奮う。
克服する術を知らない人々は、苦しみ喘ぎながら生命を落として行くばかりだ。
(どうしてっ……?)
二十一世紀の叡智なら、それらは容易に退けられる。
なのに、迷信に支配され、科学の発達に遠い彼らは、ただただ苦難に晒されるばかりだった。
ああすれば良い。
こうすれば良い。
傍観する希望は、数々の解決策を必死に考え巡らせるが、無論、彼らにそれを伝える術すらない。
たまらない心地に焦れるその時、「いつもの光り」が訴えかけるのだ。
助けて欲しいと。
どうか、救いを求める人々を、正しく導いてやってくれと。
そして……希望は、目を開く。
「……あっ……」
唐突な覚醒だ。
すっかり恒例となってしまった重い目覚めに不快感を禁じ得ない。
希望は、ベッドの傍らの目覚まし時計に目を向ける。
起床時間である六時半まで後僅か。
希望は苦笑して上体を起こした。
春の迫る時分、まだこの時間はひどく冷え込んでいる。
(……また、いつもの夢か……)
寒さに小さく震え上がって、掛布を引き寄せた。
(……何なんだろう……一体……?)
不思議で仕方がない。
日本生まれの日本育ちの希望なので、夢で見た光景に馴染みなどあるはずがなかった。
強いて言うなら、高校時代の修学旅行先がスコットランドだったので、その影響が出ているのかもしれないが、もう六年も前の出来事なので、今更の感がある。
それに夢の中の光景は、懐かしい旅先で見たより、遙かに古めかしい気配があった。
「ノゾちゃーん! 卵、二個で良いかしらー?」
階下から、明るい声が響く。
同居の義姉、朝子の問いだ。
年の離れた唯一の肉親である兄、真実の妻である彼女は、希望にとって、母代わりの親しい相手なのである。
「あ、はーい! 今行きますっ」
世田谷の住宅地の一角にある標準的な一戸建ての叶邸は、家主である真実とその妻朝子、そして希望の住処だった。
兄弟の両親が十四年前、事故で亡くなる直前に購入した住宅である。
当時、長男の真実は大卒直後の新社会人である二十二才。
希望はたった十才の子供でしかなかった。
まだ母恋しい時分である。
その気持ちを案じてくれたのだろう。学生時代からの恋人だった朝子が、周囲の反対を押し切って、大急ぎで兄と結婚し、以来、希望の母代わりをしている。
そんな彼女も、もう三十六才。
子供を産むにはやや遅い年齢だろうに、未だ希望を最優先し、今に至っていた。
希望としては、ありがたいやら、申し訳ないやらだ。
兄夫婦が子供を作らないのは、自分の存在があるためだと、彼は自覚している。
それを案じて、大学の卒業を機に家を出て独立しようとしたのだが、それを兄よりも朝子が強硬に反対し、結局白紙にされてしまった。
希望としては、遅きに失したが、まだ充分若い二人に、今度こそ気兼ねのない新婚気分を味わってもらい、それこそ可愛い赤ちゃんを、と思っての計らいだったのだが、夫妻は、断じて許さなかったのだ。
彼らが、いっそ過保護なほどに希望を案じ、気遣うのには、訳がある。
彼が、純粋な男性体でないからだ。
希望は、生まれつきの真性半陰陽だった。
ただ、因子は男性のそれが強いようで、外観からは、女性的な気配を感じることは出来ない。
それでも、不定期ながら月経のある、特別な肉体を有している。
亡き両親は、それをひどく哀れみ、遅く出来た第二子である彼を、この上なく慈しんでくれた。
兄も、年が離れていたせいもあったのだろう。妬心などに捕らわれず、両親に遜色ない愛情で弟を大切にしている。
更には、兄嫁までが。
ありがたいと思う反面、希望は申し訳なくて仕方なかった。
叶家の朝食は、三人揃ってから開始される。
これは朝だけでなく、晩餐もしかりだ。
全員が勤め人であるため、さすがに昼は無理だが、叶う限り、家族の語らいを優先しているのである。
「頂きます」
いつも通り、両手を合わせて挨拶してから、それぞれ箸に手を伸ばす。
「ノゾちゃん。はい。お醤油」
「ありがとうございます」
朝子は、夫の目玉焼きに醤油をかけてから、すぐ義弟へ醤油さしを手渡す。
ちなみに、朝子は塩胡椒派だ。
「今日の帰りはいつも通り?」
「はい。……何か、買い物、ありますか?」
これもまた、いつも通りの会話である。
図書館勤務の司書である希望は、一家の中で最も帰宅が早い。
朝子は、小さな設計事務所のオペレーターをしており、それなりの融通は利くのだが、客商売であるため、確実な定時上がりが出来る訳でないのだ。
それでも、家事に手抜きは一切なく、家族の健康を第一に、日々尽力してくれている。
「じゃあ、お願い。卵の特売があるのよ。それから、ブリの切り身と……」
「俺は、刺身が良いなぁ」
そこで、真実が注文を出した。
彼は、商事会社勤務の経理で、これまた比較的残業が少ないものの、やはり公務員同様の定刻厳守など夢のまた夢だ。
そして、料理を不得手としているため、台所仕事はほぼノータッチ。
けれどその分、雨戸の開け閉めにはじまり、ゴミ出し、休日を利用した家屋の補修や大掃除……等で、大層尽力している。
「あら? 塩焼きが食べたいって、言ってたじゃない?」
意外な訴えに、朝子は唇を尖らせる。
ブリに限らず魚の塩焼きは、単純ながらもコツのいる品で、彼女の得意料理の一つなのだ。
「それ、いつの話しだよ」
真実は、肩を竦ませる。
確かに、そんなことは話したが、もう随分前のはずだ。
「はいはい。わかったわよ。我が儘な旦那さまねえ……。んじゃ、ノゾちゃん。変更ね。出来るっだけ脂の乗ったお腹の部分、お願い」
柵でと、わざわざ言わないのは、暗黙の了解である。
咀嚼中の希望は、こっくり頷いて同意を示した。
「お、良いねぇ」
真実は、嬉しそうに笑みを浮かべる。
「ちょーっとコレストロール、心配なんだけどね。お魚の脂は、むしろ身体に良いそうだから。ね? ノゾちゃん?」
毎度のレクチャーを促された希望は、しっかり呑み込んでから口を開いた。
「ええ。植物油のリノール酸とほとんど同じ作用を持つエイコサペンタエン酸は、善玉コレストロールを増やしてくれるんです」
すらすらと、実に淀みなく彼は解説する。
幼少時より知識欲の強かった希望は、未だその探求に飽きることなく、司書と言う職業柄、一層勤しんでいるのだ。
「ただ、栄養の吸収については、火を通した方が良いと言いますけどね」
「ほう? そうなのか?」
意外そうに、真実は首を傾げた。
刺身と塩焼きのどちらがより身体に良いか、など考えたことのない男である。
「野菜もそうでしょう? 生野菜は、三割も摂取出来ないけれど、温野菜だと六割以上、栄養、ちゃんと吸収出来るって言うよ」
言いながら希望は、目玉焼きの添え物であるブロッコリーを箸でつまみ上げる。
「ほお……」
真実は感心しきりだ。
「ねえ、ノゾちゃん。本気で、クイズ番組出ない? 絶対、賞金ゲット出来るわよ」
身を乗り出して提案する朝子に、悪気はない。
あまりにも警戒心の強い希望を、彼女は心底案じてくれているのだ。
もっとおおらかに、持っている美点を発揮してほしいとばかりに、朝子は何か機会があるごとに、希望に促しの声をかけてくれる。
それを嬉しいと思いつつ、二の足を踏んでしまう希望だった。
「無理ですよ。僕がすっごいあがり症なの、朝子さんだって、わかっているでしょう? それに、芸能問題が出たらアウトだし……」
義姉の心遣いに感謝しながら、希望はそう言ってはぐらかす以外にない。
実際のところ、知識欲の塊の希望なので、確かに相当な域まで行くとは思うが、自己申告の通り、芸能関係に恐ろしく疎い。
テレビに出ている有名人たちの顔の見分けもつかないのだ。
それにやはり、余計な真似をして、人目に晒されるのが恐かった。
別段、不快な幼少時の記憶などがある訳でないのだが、両親の警戒ぶりや、兄たちの溺愛の深さから、自分の身の特異さを重々承知しているからなのだろう。
「そうよねぇ……。残念。っと、そろそろあなた、時間よ」
「おお、そうだな」
妻に促されて、真実は立ち上がる。
「御馳走さん。今日もうまかったよ」
何のてらいもなく、そう感謝を告げられるのは、彼最大の美点だ。
「お弁当、思いっきり力作なんだから。残したら、承知しないわよ」
朝子は、そう言って笑う。
「はは。いつも感謝しているよ」
「うん。同僚たちにも羨ましがられてるんだ」
希望もまた、同意した。
お追従でもなんでもなく、義姉の用意してくれる弁当は、同僚たちの間でも評判なのだ。
「ん、もーう。うっれしいわねぇ」
いつも通りの楽しい会話に、希望は目を細める。
幸せだった。
何一つ不満はない。
ない、はずだった。
ある日の夢は、いつもと違っていた。
王妃になってほしい。
やはり、明確な言葉ではなかったが、そうした打診があったのである。
(王妃……?)
眠りの園の中で、希望は繰り返した。
何故、いきなりそのような単語が出るのかと訝るより先に、訴えの主は、様々なイメージを送り込む。
希望が見せられている光景の世界は、ローディアナ大陸。
その中の一角、ラジアナと言う王国であるらしい。
どうか、国王に嫁ぎ、神の寵児として、人々を平安に導いてほしい。
そんな願いが、希望の心を揺り動かす。
遠い世界では、両性具有は瑞兆とされるものだと言う。
そして、王妃としてでしか、改革は叶わないと。
そこでなら、希望は息を殺さず、胸を張って、堂々と生きられるかもしれない。
兄や、義姉に、肩身の狭い想いをさせずに済むはずだ。
自分自身を言い聞かせる日々の果て、唐突に決断は下った。
「行きます。僕を、連れて行ってください」
ある朝、目覚めた瞬間、彼はベッドに上体を起こして、そう決意を告げた。
すると、目映い光りが現れる。
(ああ……)
それに全身を包まれながら、せめて兄たちへ書き置きをするべきだったかと、思いもした。
けれど、今更だ。
何より、未練になるかもしれない。
兄夫婦にとっても、自分にとっても……。
全身が溶けるような不思議な感覚の中、希望はその意識を手放したのだった。