line20.礼二の異変
おかしい、礼二のタイムが急激に落ちてきている。彼の異変に気付いた及川は、一人部室で記録ノートを見つめた。他の部員達は、ウオーミングアップに出発した頃だ。
ノートを見る限り、礼二のタイムは十二月十九日の月曜日から急に落ち始め、冬休みに入った今でも継続していた。最初は一時的にタイムが落ちただけだと思い、及川は気にもとめなかったが、流石に五日も続くと心配になる。これでは後輩のタイムと殆ど変わらないじゃない。
一人5リットルもの水筒を持って水場に向かい、部員の為に飲水を補給する。そこへスポーツドリンクの粉を一袋だけ開ける。冬場は半分で充分だった。ここの所、礼二に話しかけてもうんとか、はぁとか、欠伸返事の一言しか返ってこない。心、ここにあらずといった状態だった。それに礼二の右手に巻かれている包帯も気になる。
自分の知らない所で、何かあったんだ。そうとしか思えない。しかしそれが何なのか、礼二に直接問いただしてもよいものだろうか。及川は水筒に溜まっていく水を見つめながら、一人考え込んでいた。
「及川、こんな所にいたのか」
元部長の長谷川先輩がこちらに近づいてきた。先輩がいるって事は、もう何人かは走り終えているのか。及川は自分の仕事の遅れに気付き、慌ててグラウンドに戻ろうとした。
「すみません、遅くなってしまって」
「ああ、大丈夫大丈夫。俺、今日は勝手に二週減らして走ったから」
そう言って及川の持っていた水筒を取り上げる。さすが先輩。男なだけあり、こういうのを率先して手伝ってくれるのは嬉しい。
「何かあったのか?考え事していたようだけど」
先輩が心配そうに振り返る。及川は素直に礼二の状況を述べた。
「俺も少し気になっていたんだ。何だか以前の河村と違う気がしてな」水筒を部室前の椅子に置き、ついでに自分もスポーツドリンクを飲む。「タイムもそれだけ落ちているとなれば、相当問題だな。精神面が弱っているのかもしれない」
「精神面ですか?」
「ああ、特に長距離走なんかは気の持ちようでタイムが左右する。河村に何かあったのは確実だな」
「……それを、本人に聞くべきでしょうか?」
先輩は難しい所だと言って紙コップを潰した。
「もう少し待ってみた方がいいかもしれない。俺からも聞けそうだったら聞いてみるよ。誰だって落ち込む時はある、そう気にするな。本人はちゃんと部活動に参加しているんだ。まぁ、さぼるうようになったら部長失格だがな」
はははと、乾いた笑い声を上げてグラウンドに戻っていく。他の陸上部員達もウオーミングアップを終え、皆グラウンドに戻ってきた。ぞろぞろと部室前に集まり、みな各々水分補給を行う。
「はい、礼二。お疲れ様」
「ああ……さんきゅ」
目も合わさず紙コップを受け取る。やっぱり変よ、いつもの礼二じゃない。先輩は気にするなと言ってくれたが、自分はいても経ってもいられなかった。そういう性分なのかもしれない。及川の心配を他所に、礼二はさっさと水を飲み終えるとグラウンドへ戻ってしまった。ふと隣にいた小柄な久瀬と目が合う。彼もまた、礼二の様子を心配しているようだった。
「久瀬君、礼二と何かあったの?」
久瀬は俯き、とても悲しい顔をした。そしてその件に関しては口を開かまいと、首をふって走り去ってしまった。
久瀬は何か知っているのだ。及川は遠くから久瀬と礼二の二人を見比べる。あんなに仲がよさそうだったのに、二人の間には少し距離があるように感じられた。
喧嘩でもしたのかしら。だとしても、礼二だけのタイムが極端に落ちるのはおかしいのではないか。及川は午前の部活動が終わったら、久瀬を捕まえて直接聞いてみようと思った。