第一話「折れた心、若者の旅立ち。」
前回の戦いから数日経った今日。聖職者のマリーナは街へ買い出しに出掛けていた。
「今日は魚の煮付けバニラ風味にしましょう。」
献立を考えながらマリーナは市場を歩いていた。
「あら?」
ふとマリーナは何かしらの違和感を感じた。周囲の人々がこそこそと何か話していた。それは視線だけマリーナに向けていた。
(変ですね……この間の魔物の魔力がついてしまったのでしょうか?)
そう思いつつマリーナは魚屋へと着いた。しかしその魚屋もどこか変だった。
「どれにすんの?」
魚屋の娘が目を合わせずに聞いてくる。普段から愛想良くするのが苦手な娘だが、今日はいつにもましてとげがある言い方だった。
「あの。街で何かあったのですか?先ほどから皆さんの態度がおかしくて…」
「ねえ。買うなら早く選んで。おすすめは並んでるやつ全部。」
「……」
終始とげがある態度にマリーナと黙ってしまう。そしてよさげな魚を買うと家路を歩き出した。
(どんなに不器用でも話は最後まで聞く子なのに……なんで……)
「出てけぇ!!」
途中鍛冶屋の前を通り過ぎようとした瞬間だった。突然鍛冶屋の店主の怒鳴り声が響き渡り、中からつまみ出された黒騎士達と、それを睨む店主が出てきた。彼はカンカンに怒っていた。
「いってて…ジジィ!誰に喧嘩売ってんのか分かってんのか!?」
「お前らみたいなチンピラ騎士団に武器を鍛えるくらいなら!依頼してこなくて結構だ!分かったらとっとと出てけ!!」
「……てめぇ!」
「おいおい。やめとけよ!」
「そうですよ。市民を傷つけたら懲罰されますよ!」
「くそが!」
黒騎士は鍛冶屋店主を睨んだあと、そのまま逃げるように去っていった。その後マリーナが店を覗いた。
「……」
「ん?マリーナか!他の奴らに嫌がらせされなかったか?」
「…いえ。それより嫌がらせというのは?」
それを聞くと店主は「聞いてくれ!」と金槌を床に叩き置く。
「レオンを首にしたあの騎士団。突然来たと思ったら「マリーナ達には今後武器を提供を止めて俺らにのみ武器を売れ。」とほざきやがった!」
「え?」
それを聞いたマリーナは唖然とした。
「なぜ、そんなことが起きてるんですか?」
マリーナが震える声で尋ねると、鍛冶屋の老主人は金槌を握りしめ、顔を真っ赤にしたまま話す。
「それがどうやらな。」
鍛冶屋は声を潜めた。
「お前さんが聖職者のくせに、元騎士団のあの冒険者の男と……その……不貞の関係を持ち込んだって話になってるんだとよ。」
「え…?」
マリーナの顔が一瞬で蒼白になる。まるで氷の湖に突き落とされたような衝撃だった。
「そ……そんな馬鹿な噂……嘘です!私はレオン殿とは単なるパーティーメンバーで……!」
鍛冶屋は苦虫を噛み潰したような顔で首を振る。
「そりゃあ儂だって信じちゃいねえ。あんたが清貧に努める真面目な聖職者だってことは、この町の誰もが知ってんだ。……だがな」
金槌を台に叩きつけた音が、狭い店内に反響する。
「あいつら騎士団長派の連中が『聖職者たる者、未婚の騎士と異性交遊は淫欲に耽る行為』って触れ回ってやがる。この街の教会にも匿名で密告書が届いたらしいんだ。もちろんシスター達は追い返していたがな。」
「密告書……」
マリーナの唇が小さく震えた。清廉潔白であるべき聖職者にとって、「不貞行為」という烙印は命取りにも等しい。
「だから市場の連中もお前さんに気味悪がって距離を置いてるわけだ。こいつは完全に組織的な嫌がらせだよ。騎士団長の指示に違いねえ。」
「そんな……私がレオン殿と……」
言葉を詰まらせたマリーナは、脳裏にレオンの温かな眼差しが浮かぶのを感じる。確かに最近は互いを信頼し、親愛の情も深まっている。しかし恋人同士などといった甘やかな関係ではない。自分たちはあくまで同志なのだ。
「……わかりました。教えてくださりありがとうございます。」
そう一礼してマリーナは鍛冶屋を後にした。
(騎士団の団長……レオン殿が言っていた嫌な人の事でしょう。もしかして街中の人達の視線は……)
色々考えていると気持ちが暗くなってくる。そう思いマリーナは首を横に振って家へと帰る。家に帰ると先に戻っていたレオンが台所でパンをオリーブオイルで焼いていた。
「あ、マリーナ。」
「……ただいま戻りました。」
そんな気持ちではないのに笑顔を取り繕うマリーナ。レオンはそれに気付いたが、どう話そうか分からなかった。
「お魚、私がやりますね。」
レオンの言葉を待たずにマリーナもエプロンをつけて料理を始めるのだった。そして二十分後ぐらいには二人は夕食を囲んでいた。だがその空気は少し重かった。
「美味いな……」
レオンは料理を口に運びつつ、心ここにあらずと言った感じで呟く。
「なあ……マリーナ。」
「……どうなされました?」
「今日、街の人達に避けられてたか?」
「え?」
不意を突かれマリーナはフォークを止めてしまった。
「なぜ、そのことを?」
そう聞くとレオンもフォークを止める。
「今日教会の修練場をいつものように借りようとしたんだが、断られたんだ。シスター達に聞いたら、騎士団から俺が聖職者であるお前と不貞をしている疑いがあると言うのが回ってきて、その確認が取れるまで使用禁止だって言われたよ」
「不貞?私もそんな事を言われました!」
「そうなのか?それで……」
「ですがその時の人達の目は明らかに疑いを持っていました。」
「やはりか。俺の方はムッツ神官は信じてくれたが、ほかのシスター達はな……」
そう言うとレオンは頭を抱える。 マリーナも目頭を抑えた。
「このままじゃ聖職者も…冒険者も続けられないかもしれません……」
「まあ、人の噂も七十五日と言うしな。しばらくすれば黒騎士達のでっち上げだと分かってくれるさ。」
「…そうですね。ただの噂です。」
そう言いつつもレオンの顔色は優れなかった。 結局この夜は何も解決できないまま終わってしまった。更にそれからの日々は地獄のようなものだった。
買い物に出れば野菜売りが「マリーナがまさか男と……」と言い淀み、すぐに口を押さえて視線を逸らす。酒場では酔客たちが大袈裟に咳払いし「いやぁ、聖職者がねぇ」などと囁き合う。今まで穏やかに挨拶してくれた肉屋の主人さえも、今や目を合わせようとしない。公園のベンチで休んでいれば、近くで遊ぶ幼子が突然駆け寄ってきて、「おばさんって悪い人なの?」と無垢な瞳で尋ねてくるのだ。マリーナは何度も胸が張り裂けそうな痛みに襲われた。否定したい衝動に駆られても、周囲の大人たちが子どもを慌てて連れ去っていく。その背中に突き刺さるのは哀れみとも軽蔑ともつかない冷たい視線ばかり。
(……違うの……違うのよ……)
そう思いながら俯いた夜は数知れず。信仰と誇りに生きる彼女の心が少しずつ削られていくのが分かった。
「マリーナ。」
マリーナが俯きながら買い物から帰っていると、馴染みのある声が話しかけて来た。白衣を着ており、眼鏡を頭にかけているマリーナの元カレの学者カークだった。
「……何か?」
「いや。何かっていうか、心配で……」
その声音には噂話を面白がるような色は一切なかった。ただ、目の前の友人を案じる純粋な心配だけが滲んでいた。
マリーナは俯いたまま、小さく息を吐く。
「……ありがとうございます。でも、大丈夫です。」
「全然、大丈夫そうに見えない。」
その一言に、マリーナの肩がぴくりと震えた。
「昔から君はそうだ。辛い時ほど笑う。」
「……」
「街中で聞いたよ。最低な噂だ。」
マリーナはゆっくりと首を振る。
「違うんです。レオン殿とは何もありません。ただ、お互いを信頼しているだけで……」
「知ってる。」
即答だった。
「え……?」
「君がそんなことをする人じゃないって、僕は知ってる。」
カークは静かに笑った。
「恋人だった頃から、君は誰よりも真面目だった。規律を破るくらいなら、自分が傷付く方を選ぶ人だった。」
その言葉に、マリーナの目が少し潤む。
「でも……皆さんは信じてくれません。」
「人は、証拠より噂を信じる時がある。」
カークは眼鏡を掛け直した。
「だからこそ怖い。それで俺は一人で没頭できる生き方をしてるんだけどな。」
少し笑いながらカークは空を見上げる。それを見てマリーナも少し気が紛れたのか、ふふっと笑った。
「私なら大丈夫ですよ。」
そう言って首を横に振る。
「それにカークさんまで巻き込んでしまうわけにはいきません。」
「でも…」
「今も、私に声を掛けてくださっただけで十分です。それでは。」
マリーナは柔らかな笑みを向けて一礼をすると、そのまま帰って行った。
「……絶対大丈夫じゃないだろ……」
マリーナの背中を見ながらカークは彼女の心境を察していた。そして案の定、マリーナの限界はすぐに来るのだった。
◇
日曜日の早朝。いつもならまだ寝ている時間にマリーナとレオンは目が覚めた。
「外が騒がしいな……何事だ?」
不思議に思ったレオンは寝起きの足で玄関へ向かった。マリーナもその後ろを付いて行く。
「何だこの人だかりは!?」
レオンは外を見て驚いた。何と外では人々が一定方向に走っていたのだ。
「これは一体…」
「火事だあ!南の方で燃えているぞぉ!」
「何ですって!?」
群衆の話を聞いたマリンとレオンは人々が走る方向を見る。すると確かに街の南で煙が上がっていた。
(え?あの煙が上がってる場所って……)
煙が上がる場所と方角にマリーナは何か嫌な予感がした。そして到着した時、それは的中した。
「嘘でしょ……」
目の前の光景にマリーナもレオンも言葉が出てこなかった。鳥のさえずりが聞こえるはずの止まり木。毎日忘れず祈りを捧げていた女神の銅像。生まれ育った教会がマリーナの目の前で燃えていた。
「何で、こんな事に……」
「マリーナ!」
マリーナに気がついたムッツ神官が駆け寄ってくる。急いで避難してきたのか青い法衣が少し焦げていた。
「ムッツ神官!これは一体?」
「火を放ったんだよ!黒騎士達が!穢れた聖女を生んだ教会を燃やすと言いながら!」
マリーナは意味が分からなかった。ただ目の前で焼けていく教会を見たまま固まっていたが、ハッとして杖を取り出した。
「とにかく延焼を抑えなければ!結界を敷きます!」
「俺は水くみを手伝う!」
レオンが大きな樽を二つ担いで近くの川へと走り出す。マリーナは聖なる結界を生成して、まだ燃えていない所を守った。その結果二人の協力の甲斐もあり、消火活動により全焼は免れた。しかし礼拝室と女神の像がかなり焦げてしまっていた。
「マリーナ。」
焼けた箇所を見つめたままムッツ神官はマリーナに声をかけた。
「アンタは身も心も綺麗で純潔な人間。それは私達が一番よく知っている。」
「……」
「しかししばらくはお互いに距離を置いた方が良い。これは神からのお告げだろう。」
ムッツ神官の言葉が今のマリーナに重くのしかかる。瓦礫の片付けをするシスター達の視線はどこかマリーナを煙たがっているのを感じ取れた。
「……分かりました。」
大事に思う師に告げられた古巣からの拒絶。それはマリーナの心を打ち砕くには十分すぎる出来事だった。
◇
「まさか、教会にまで手を出すとは……」
教会を後にしたレオンはそう呟く。
「前の団長の理念からかけ離れた指示を迷いなくしやがって。騎士団も落ちたな。シスター達の事まで脅迫しやがって。」
騎士団による悪質行為を振り返り、レオンは怒りでハンマーを握りしめていた。
「……マリーナ。大丈夫か?」
返事が来ず、レオンは心配そうにマリーナを見る。家路を歩き始めてから彼女はずっと俯いていた。
「……すまない。大丈夫な訳が無いよな。生まれ故郷の街の人達からは色々言われるし、教会もあそこまで言う必要はないだろうに…」
「レオン殿。」
マリーナは突然立ち止まると、レオンに話しかける。
「……なんだ?」
視線を合わせられないままレオンは聞き返す。するとマリーナはまたしばらく黙ったと思うとレオンに目を向けた。その目は赤く、涙が溢れていた。
「もう、二人で全てから逃げませんか?」
◇
「あ~よく寝たぁ。」
太陽が見えない曇りの朝。火の呪術師デュークは家を出た足でまっすぐ街の集会所へ来た。彼は集会所の受付嬢のアニーと同棲しており、今日も彼女より後に集会所へ来ていた。
「今日はどんなとこに冒険へ行くのかな。」
なにも知らずにそんなことを考えながらデュークは集会所を歩く。しかしマリーナの姿も、レオンの姿もどこにも見当たらなかった。さすがのデュークも不安に思えてきた。
(おかしいなあ…二人が遅刻なんて今までなかったのに…)
そしてデュークはアニーのもとへ向かった。
「よう。忙しそうだな?」
「今はそんなに。今日は午後から受け付けるクエストが多いから。」
「そうなんだ。そういえばマリーナさんとレオンさんは?まだ来てないのか?」
デュークがそれを聞いた瞬間、アニーの作業する手が止まる。そしてカウンターの下から何かを取り出した。
「これ。マリーナ様から預かってたもの。」
「ん?手紙?」
なぜアニーが気まずそうにしているのか分からないままデュークは手紙を開く。
__私とレオン殿は冒険者を退く事に決めました。この街からも出ていきます。突然の事で驚かせちゃって、ごめんなさい。本当なら直接お会いしてお話すべきでした。ですが、きっと私は貴方の顔を見たら決心が鈍ってしまったでしょう。だから手紙で失礼します。
そしてどうか私達を探さないでください。これは逃亡かもしれません。
聖女としても、冒険者としても失格でしょう。それでも……私達は生きたかった。
最後に、どうか貴方だけは自分を見失わないで。
マリーナ__
「どういう、事だよ?」
手紙を読み終えたデュークの手が震えていた。
「どういう事だよ!?マリーナさん達に何が……!」
「落ち着いてデューク!」
「これが落ち着いていられるか!?」
デュークはカウンターをドンと叩く。
「あの人には勇者パーティーの頃から世話になった人なんだぞ?それなのに…」
「落ち着いて!」
怒るデュークを強めの声でアニーは制止させた。
「……皆見てるわよ?」
「あ…」
いつの間にか集会所の空気は凍りついていた。
依頼書を眺めていた冒険者達。酒を飲みながら談笑していた男達。受付待ちをしていた新人達。全員がこちらを見ていた。だがその視線は心配ではない。居心地の悪さと、そしてどこか後ろめたい色が混じっていた。奥のテーブルでは視線を逸らす男もいた。以前、マリーナに治療された槍使いだった。別の場所では、レオンに剣を教わっていた若い冒険者が申し訳なさそうに俯いている。誰も何も言わない。否定もしない。擁護もしない。ただ面倒事が過ぎ去るのを待つ空気だけがそこにあった。するとアニーは周囲に聞こえないよう、そっと身を乗り出した。
「デューク。今は適当にクエストでも受けてて。」
「でも…!」
「お願い。ここで騒いでも、あの二人は戻ってこない。」
小声だった。けれどその声音には、必死に彼を止めようとする強さがあった。
「詳しい話は、帰ってからするから。」
アニーは帳簿を閉じるふりをしながら、さらに声を落とした。
◇
「なにぃ!?そんな噂がぁ!?」
互いに仕事を終え、家に帰るとアニーから話を聞いたデュークは集会所の時以上に感情が出ていた。
「ええ。あなたは今日遠出から帰ってきたばかりだから、知らないのも無理はないわ。」
「いやいやいや!だとしてとマリーナさんの故郷だろ?騎士団からの話だからってそんな簡単には信じないだろ?それに、町の人たちは何も教えてくれなかったぞ!」
「普通はね。」
アニーは夕食のスープを机に置きながら、小さくため息をついた。
「でも、騎士団が正式に調査してるって話まで出たの。」
デュークの言葉が止まる。アニーは視線を落とした。
「最初はただの陰口だった。最近レオンさんと距離が近いとか聖女なのに男と二人で行動してるとか、その程度。」
「……」
「でもそこに、元騎士団であるにもかかわらず聖女に不埒な感情を抱いているなんて話まで混ざったの。」
アニーは苦々しくそう続けた。
「誰が言い出したのかは分からない。けどギルドマスターの勅命って尾ひれが付いて、どんどん広まっていった。誰も何も言わないというのも、何かに脅されているからよ。」
デュークは顔をしかめる。ギルドマスターというと、その息子は騎士団長であるとレオンから聞いたことがあったからだ。
「レオンさんが…?」
「でしょう?」
アニーは乾いた笑みを浮かべた。
「でも人って、一度そういう目で見始めると何でも証拠に見えるのよ。マリーナを庇った、二人で行動していた、聖女に対して距離が近かったってね。」
「………」
「本来なら信頼や献身として見られるものが、全部いやらしい意味に変えられていった。それに……」
アニーは言い淀む。
「なんだよ。」
「マリーナ様、レオンさんの前だと少しだけ柔らかかったから。」
「そうだけど……」
「普段は聖女として気を張ってた。でもレオンさんといる時だけは安心してたの。笑う回数も多かったし、距離も近かった。」
デュークは黙る。そして頭を抱えた。
(本当に騎士団だけでそんな事をするのか?それならレオンさんだけを狙ってもおかしくない……)
騎士団長はレオンを嫌っているから分かる。だがマリーナまで陥れるほど彼女を恨んでいる人物誰なのか。
(待てよ…?)
デュークの眉がぴくりと動く。勇者パーティー時代の記憶が蘇る。自分のまだ見ぬ世界を見せてくれたマリーナ、優柔不断だが、勇者としての力はあったハイラルド。そして…
(アイツだ!)
マリーナをクビにした後不調が続き、気に入らない事があると怒り出し、独立後のマリーナに嫉妬して始末しようとしてきたハイラルドの恋人。ムースの姿が思い浮かんだ。
(アイツ、まさか今度は騎士団に取り入って……)
「ま、噂ってそういうものよ。」
まるで心を見透かすようにアニーの声が聞こえた。
「皆、“完璧な聖女”を見たがる。でも実際のマリーナ様は、ちゃんと感情のある普通の女性だった。その“普通”を、人々は許さなかったのよ。」
それを聞いたデュークは歯を食いしばる。脳裏に浮かぶのは、焚き火の前で穏やかに笑うマリーナの姿だった。疲れ切った冒険のあと、レオンが無言で差し出した水筒を受け取って、少しだけ笑っていた。ただそれだけの光景。だが今なら分かる。噂を流した人物達は、きっとそれすら陥れる材料にしていたのだ。
「ふざけやがって……」
デュークは呟く。その声には怒りだけではなく、どうしようもない悔しさが混じっていた。
「西海の国なら、違ったかもしれないわね。」
怒りで肩を震わせるデュークを見ながら、アニーはぽつりと呟いた。
「西海?」
「海の向こうにある法治国家よ。騎士よりも、ギルドマスターよりも“法務官”が力を持つ国よ。」
「法務、官?」
政治や法に疎いデュークは首をかしげた。
「要するに罪を裁く専門家。人を裁く人達。」
デュークは眉を寄せた。
この大陸では、騎士団や貴族の権威が強い。誰が何を言ったかで空気が決まり、その空気が半ば“事実”になる事も珍しくなかった。
だがアニーの話す国は、それとはまるで違う響きを持っていた。
「西海の法務官はね、たとえ聖職者でも、騎士でも、貴族でも特別扱いしない。立場があっても容赦がないの。」
「……そんな国があるのか。」
「あるわ。」
アニーの目はどこか遠くを見ていた。
「昔、一度だけ見た事があるの。交易都市で、西海の法務官が裁判をしていた。」
その声には妙な実感があった。
「ある商人が、少女を攫ったって群衆に囲まれてた。皆が怒鳴ってたわ。石まで投げてた。」
デュークは顔をしかめる。
「でも法務官達は、群衆を全部下がらせたの。そして証言だけでは有罪にならないと宣言したの。」
「すごい権能だな。」
「うん。そして結果的に、その商人は無実だった。少女を攫ったんじゃなく、盗賊から助けて保護していただけだったの。ただ盗賊のリーダー、市長が隠蔽していた証拠証言を法務官の一人が暴いたのよ。」
部屋が静かになる。デュークは何も言えなかった。
「西海では、皆がそう言ってるは理由にならない。なんとなく怪しいも認められない。誰かを罰するなら、証明しなきゃいけない。」
「……」
「だからマリーナ様達みたいに、空気だけで追い詰められる事は少ないって聞く。」
デュークはゆっくり椅子へ座り込んだ。今思えば集会所の皆は何か知っていそうな顔だった。しかし何かに恐れている顔だった。その結果が、二人を街から追い出したのだ。
「この国は優しい人も多い。でも、正しい仕組みは弱いのが現実なのよ。」
デュークは拳を握る。呪術師である彼は強い力なら知っている。魔物を焼き払う力も、敵を倒す力も。
だが今、自分が一番欲しいと思ったのは、悪を裁いてくれる存在だった。
するとアニーが立ち上がり、部屋の棚を開ける。そして奥から古びた革筒を取り出し、中から一枚の羊皮紙を広げた。
「これ。」
机の上へ置かれたそれを見て、デュークは目を瞬かせる。
「地図?」
「西海までの航路と街道。」
開いてみると羊皮紙には細かな書き込みがされていた。
主要街道に関所。危険地帯に補給できる町。さらには山越えを避ける迂回路まで赤いインクで記されている。
ただの旅人用の地図ではない。実際に長距離移動を考えて作られた、本格的なものだった。
デュークが顔を上げる。
「なんでこんなの持ってんだよ……。」
アニーは少しだけ視線を逸らした。
「受付嬢ってね、色んな冒険者と話すの。西海へ渡った商人とか、傭兵とか……帰ってこなかった人達とか。」
最後の言葉だけ、少し小さかった。デュークは地図へ視線を落とす。海沿いの港町。そこから出る定期船。さらに西へ向かう海流。線は最終的に、一つの大きな都市へ続いていた。
「……法都アストラ。」
デュークは静かにその名を口にする。
「西海でも一番法務官の権限が強い都市。各国から訴えを持ち込む人も多いって聞く。冤罪。不当な処罰。今回みたいな権力者による隠蔽すらも見破る方も居ると聞くわ。」
デュークは地図を握る手に力を込める。アニーはそんな彼を見ながら、話を続けた。
「……もちろん、行ったから全部解決するなんて言えない。」
期待だけを与える言い方はしなかった。それが逆に現実味を帯びていた。
「でも、あの人達なら少なくとも、噂だけでは終わらせないと思う。」
「……」
「調べてくれるわ。誰が言い出したのか。騎士団の話は本当だったのか。証拠はあるのか。本当に罪があるのか。そういう事をちゃんと厳正に確認する人達なの。」
デュークの脳裏に、今日見てきた人々の姿浮かぶ、誰も何も言ってくれなかった。いや、”裏にいる何か”に口封じをされているようだった。だがもし、本当に真実を重んじる国があるなら。マリーナとレオンが、もう一度胸を張って生きられる可能性があるのなら。デュークの心の中では多くの事が入り混じっていた。
「……ま、後はあなた次第よ。」
そう言うとアニーは食事を再開する。窓の外では、夜の曇り空が広がっていた。
◇
次の日の朝。集会所でアニーはいつものように仕事をこなしていた。マリーナ達が居ない事以外は何も変わらない集会所。しかしアニーはどこか退屈そうだった。
(日常になってた声が聞こえないだけで、こんなにも静かになるのね。)
彼女のデスクには二人分の冒険者登録解除届が。それは前日郵便屋が届けに来たもので、それぞれマリーナとレオンの名前が書かれている羊皮紙だった。
(マリーナ様にレオンさん。今はどうしているのかしら……)
「アニー。」
考えているとアニーに声をかける者が歩いてきた。カウンターの前にデュークが立っていた。
「いらっしゃい。今日はどんなクエストを探してるの?」
いつもの受付嬢トークを出すアニー。だがデュークは黙って鍵をムニルに出した。その鍵は二人が同棲している家の鍵のスペアだった。
「しばらく、帰ってこないと思う。」
「……行くのね?」
デュークの言葉を察したアニーは気持ちを確認するように聞いた。それに対してデュークは頷く。
「ああ。」
その迷いの無い目と返事を聞いたアニーは「では…」と言葉を一度置いて喋った。
「重要クエスト「聖女と騎士の潔白を証明せよ」。確かに受け付けました。これは私のアドリブね。」
そう言ってウィンクするアニー。デュークはそれにニカッと笑顔を返すと、背を向けて歩き出した。外に出るといつもの空や鳥がまるで青年の旅立ちを応援してくれているように見えてくる。今度の冒険は遊びでも憧れでもない。自分に可能性と外の世界を教えてくれた恩人とその大切な人を救うための旅となる。
「よーし!やってやるぞ!」
自分を鼓舞し、デュークは歩き出す。西海への道がどれほど遠いかも。法務官達がどれほど厳格な存在かも。そして、自分自身の運命も、彼はまだ知らない。




