Debug 005: 虹に触れて
【ラムダ視点】
「お前――元は、そんな綺麗な紫色の目をしていたんだな」
「……え?」
その日、私はすべてを手に入れました。
かつて失った七色も、見る影もなかった顔の傷も、そのすべてを。
初めは、その眩さに目が慣れませんでした。
世界には、こんなにも色があったのですね。
私はただ呆然と——何度も何度も、瞬きを繰り返しておりました。
部屋の壁。
窓から差し込む橙色の光。
木目の床。
白い天井。
何十年も見えていなかったものが、今は全て見えているのです。
信じられませんでした。
あの方が——アドミン様が、私の目を元に戻してくださったのです。
◆◆◆◆◆
涙が止まりませんでした。
両手で顔を覆っても、指の隙間から溢れ続けます。
「ありがとうございます……! ありがとうございます……!」
私は何度も繰り返しました。
声が途切れて、嗚咽が混じっても、それでも止められませんでした。
しばらくして——ようやく涙が落ち着いてきた頃。
私は、改めてあの方を見つめました。
これまで魔力感知でしか捉えられなかった輪郭が、今ははっきりと『見える』のです。
黒い髪。
細身の体躯。
そして——
「……あなたが」
私は掠れた声で言いました。
「チェックサム様……いえ、アドミン様なのですね」
今、私の目の前にいるのは、黒髪のアドミン様でした。
バーで私を冷たくあしらったあの男性。
けれど、今この瞬間に見る彼は——まるで別人のように感じられました。
こんなに美しい方だったのですか。
心の中で、そう呟いておりました。
整った顔立ち。鋭いけれど冷たすぎない目元。
魔力感知では分からなかった——あの方の、本当の素顔。
「……ああ」
あの方は、短く答えました。
「素敵なお名前です」
私は微笑みました。
異母妹に奪われたと思っていた、すべてが。
何もかも元通りに戻ってきたのです。
涙で濡れた顔のまま——それでも、心から微笑むことができました。
真名を教えていただけた。
それだけで、どれほど嬉しかったことか。
チェックサム様としてしか知らなかった方が、偽りのない名を私に告げてくださったのです。
それが、何よりも尊いことでした。
◆◆◆◆◆
「ビジネスの関係なら——俺も、信用できる」
あの方はそう仰いました。
ビジネスの関係。
その言葉に、少しだけ胸が軋みました。
私は——できることなら、もっと特別な存在になりたかったのかもしれません。
けれど、それは贅沢というものでしょう。
人を信じられないと仰っていたあの方が、私を『信用できる』と言ってくださったのです。
それだけで、十分すぎるほど幸せでした。
「この目の分は、俺のために働け」
あの方が手を差し出しました。
私はその手を、強く握りました。
「……はい」
私の声は震えていました。
けれど——確かな決意を込めて、言葉を紡ぎました。
「私は——あなたのために、働きます」
この命が尽きるまで。
この目が光を失うまで。
——いえ、たとえ失っても。
「あなたの剣となり、盾となることを——ここに誓います」
あの方の手は、温かかったです。
魔力感知では分からなかった——人の『温もり』というものを、私はこの時初めて理解いたしました。
◆◆◆◆◆
その夜のことでした。
私はすぐさま辺境の休息亭に引っ越しました。
アドミン様の隣の部屋です。
荷物を片付けて、寝巻きに着替えて、ベッドに横になって——
眠れませんでした。
目を閉じても、心臓が煩いほど鳴り続けているのです。
あの方のご尊顔が、瞼の裏に浮かびます。
黒髪の——アドミン様。
初めて『見た』、あの方の素顔。
整った顔立ち。鋭いけれど冷たすぎない目元。
そして差し出された、あの温かな手。
——胸の奥が、熱くなります。
目を治していただいたこと。
お名前を教えていただいたこと。
『ビジネスの関係なら——俺も、信用できる』
あの言葉を思い出すたびに、胸の奥がじんわりと疼くようでした。
パートナーとして認めていただいたこと。
『この目の分は、俺のために働け』
あの方の手を、私は握りました。
あの時の——あの方の手の温もり。
私の手を、強く握り返してくださった感触。
思い出すだけで、身体が火照ってしまいそうで。
それがまた、怖いほど嬉しかったのです。
これからは——一緒に旅ができる。
そう、あの方の傍にいられるのです。
その事実が、嬉しくて嬉しくて——堪りませんでした。
けれど、この高揚は——ただの喜びとは、少し違うものでした。
胸の奥から溢れ出す想いが、身体中を駆け巡って、落ち着かなくしてしまうのです。
私は——無意識にシーツを握りしめました。
目を瞑り、あの方のことを思い浮かべます。
バーで初めてお会いした時のこと。冷たくあしらわれても、どこか惹かれてしまったこと。
毒蜥蜴から助けていただいた時のこと。
無詠唱の大魔法で、私を庇ってくださったこと。
協会の地下牢で、私を逃がしてくださったこと。
シープラ帝国で、潰された両腕を元に戻してくださったこと。
そして今日——私の目を、治してくださったこと。
一つ一つの記憶が、押し寄せては胸を満たしていきます。
幸せで、苦しくて、また幸せで。
——ああ。
この想いは、もう抑えきれそうにありません。
けれど、どうすることもできない私は、ただ寝返りを打つことしかできませんでした。
ベッドが小さく鳴いて、そのたびに我に返ります。
それでも、瞼の裏には——あの方。
『アドミン』と名乗ってくださった、あの瞬間。
私を『信用できる』と言ってくださった、あの瞬間。
思い出すたびに胸が熱くなり、また眠れなくなる。
結局——私が眠りについたのは、空が白み始める頃でした。
疲れ果てた身体を、シーツに沈めながら。
それでもまだ、胸の奥には——消えない火種が燻っておりました。
◆◆◆◆◆
翌朝。
私は朝食の席で、アドミン様と向かい合っておりました。
昨夜あれほど興奮していたせいか、少し眠気が残っております。
けれど、あの方の御顔を拝見できるだけで、眠気など吹き飛んでしまいそうでした。
「アドミン様、お顔の色が優れないようですが……」
私は心配になって尋ねました。
「大丈夫ですか?」
あの方は、少し間を置いてから——
何か言いづらそうに、口を開きました。
「……俺も、そういう欲がないとは言わんから、多少は許してやるが」
……え?
何の話でしょうか。
「お前、夜煩いのはなんとかしろ」
「う、うるさい……?」
私は首を傾げました。
「睡眠を妨げるなら、店主に頼んで離れた部屋に移動してもらうか、元の宿に戻ってもらうからな」
——その瞬間。
私の顔が、沸騰したように熱くなりました。
聞こえていたのですか。
あの、ベッドが軋む音が。
この薄い壁を通して——全部。
「え……? あ……その……っ!」
言葉が出ませんでした。
口をパクパクさせるばかりで、何を言えばいいのか分かりません。
アドミン様は淡々と朝食を掻き込み、席を立ちました。
「先に部屋に戻る」
その背中を見送りながら——
「いやああぁぁっ!」
私は思わず叫んでおりました。
恥ずかしさのあまり、頭が真っ白になってしまったのです。
あの方に、聞かれていたなんて……!
その日は午後まで、私はアドミン様の御顔を真っ直ぐに見ることができませんでした。
◆◆◆◆◆
午後になって、私たちは冒険者ギルドに向かうことになりました。
パーティ登録をするためです。
宿を出る直前——あの方の姿が、一瞬で変わりました。
黒髪から、金色の髪へ。
黒い瞳から、碧の瞳へ。
細身の体躯は変わらないまま、まるで別人のような——けれど、確かにあの方だと分かる姿。
「……っ」
私は、息を呑みました。
これがチェックサム様のお姿なのですね。
金色のお髪が、陽光を受けて輝いております。
そして、あの碧色の瞳。
魔力感知では分からなかった——色というものの美しさを、私はこの時改めて知りました。
まさに虹のようでした。
様々な色が重なり合い、輝きを放つ——そんな美しさ。
アドミン様としての黒髪も素敵でしたが、チェックサム様としての金髪もまた——
心を奪われてしまいそうなほど、美しかったのです。
「どうした? 行くぞ」
「は、はい……!」
私は慌てて返事をしました。
見惚れていたことを悟られてはいけません。
これ以上、恥ずかしい思いはしたくありませんでしたから。
◆◆◆◆◆
冒険者ギルドで、私たちは正式にパーティを登録しました。
パーティ名は『検証者』。
不具合を見つけて修正する者——あの方の役割そのものを表す名前です。
私は、そんな『検証者』の一員になれたのです。
それだけで、胸が熱くなりました。
けれど——
その日の夕刻。
私たちの前に、新たな脅威が現れました。
「見つけたぞ、犯罪者チェックサム!」
空から降ってきた竜。
そしてその背に跨がった、短い紅髪の女。
ジャバ共和国の勇者——ヌル=ポインタ。
彼女は大剣を構え、チェックサム様に斬りかかってきました。
「お待ちください!」
私は咄嗟に前に出て、レイピアで受け止めました。
目が見えるようになった今、魔力感知に費やしていた魔力を攻撃に使えます。
炎の魔法を纏ったレイピアで、ヌルの大剣を溶かしていく——
勝てる。
そう思いました。
けれど——
「私は勇者だから、特別なんだ」
ヌルが、素手で私のレイピアに触れました。
次の瞬間——レイピアが、消えました。
私の手から、武器が消失したのです。
「私の、レイピアが……!?」
「この能力『ヌル参照』は、人以外なら触れたらなんでも消せるのさ」
ヌルが勝ち誇ったように笑いました。
私は——何もできませんでした。
武器を失い、ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかったのです。
あの方が大量の魔法を放ち、世界を遅くして、ヌルを制圧するまで——
私は、何の役にも立てませんでした。
◆◆◆◆◆
その夜。
宿に戻り、気絶したヌルから事情を聞いた後——
私は自分の部屋で、一人俯いておりました。
悔しかったのです。
あの方のパートナーになれたのに。
目を治していただいて、強くなれたと思っていたのに。
結局、肝心な時に何もできなかった。
それどころか——
ヌル=ポインタ。
あの女勇者を見た時、私の胸に過ったのは、恐怖だけではありませんでした。
また、私の居場所が奪われるのではないか。
そんな不安が、胸の奥で燻っていたのです。
あの方は、強い者を好まれるのでしょう。
それに、筋肉質で魅力的な体つき。
私よりも強い女が現れたら——私はまた、捨てられてしまうのではないか。
かつて侯爵家で、異母妹に居場所を奪われたように。
また同じことが起きるのではないかと——
考えれば考えるほど、心が暗く沈んでいきました。
けれど——
ふと、あの方の言葉を思い出しました。
『ビジネスの関係なら——俺も、信用できる』
あの方は、私を『信用できる』と仰ってくださったのです。
強いからではない。
特別だからでもない。
ただ——対等な関係として、私を認めてくださったのです。
ならば。
私は、その信頼に応えなければなりません。
今日は役に立てなかった。
けれど、明日からはもっと強くなればいい。
武器を失っても戦えるように。
魔法を封じられても諦めないように。
どんな逆境でも——あの方の傍にいられるように。
私は、拳を握りしめました。




