Debug 003: 光を求めて
【ラムダ視点】
協会の食堂に案内された時、私は嫌な予感がしました。
いえ、言葉にするのは難しいのですが……何か、違和感があったのです。
魔力感知で周囲を探りながら、私は椀を手に取りました。
薄い味のスープ。
野菜の切れ端が浮かんでいるだけの、質素な食事です。
子爵家から食料が届いたはずなのに、なぜこれほど質素なのでしょうか。
「一度贅沢を覚えてしまえば、それでないと満足できなくなってしまいます」
エンシュア司祭の声が、穏やかに響きました。
「神は、慎ましさを尊ばれます。 質素な暮らしの中にこそ、真の幸せがあるのです」
宗教的な価値観。
それ自体は理解できます。
ですが――
私はスープを一口飲みながら、隣のチェックサム様の魔力を感じ取ろうとしました。
しかし、何も感じません。
相変わらず、魔力の波動がまったく伝わってこないのです。
不思議な方です。
あれほどの大魔法を無詠唱で放てるのに、魔力の気配がまったくない。
そう考えた時でした。
ふっと、視界が……いえ、魔力感知で捉えていた世界が、霞んでいきました。
「……っ」
体が重いのです。
まぶたが、勝手に閉じていきます。
睡眠薬……!
隣でチェックサム様が何か呟いているのが聞こえましたが、言葉は聞き取れませんでした。
意識が、闇に沈んでいく――
◆◆◆◆◆
目が覚めました。
頭が重く、体もだるいのです。
魔力感知を展開しようとしますが、うまくいきません。
魔力が、遮断されている……?
「……ここは」
私は呟きました。
周囲を少しずつ感じ取っていきます。
狭い石の部屋。
いえ、牢屋です。
鉄格子が目の前にあり、外には薄暗い通路が続いています。
そして、両手首と両足首に、金属製と思われる重い枷が嵌められていました。
「魔封じの枷……」
魔法使いを封じるための枷です。
これでは魔法はおろか、魔力感知すらまともに使えません。
薄汚れた粗末な服を着せられ、レイピアも弓も奪われています。
「やはり、人身売買でしたか」
私は小さく呟きました。
孤児院という名目で人を攫い、売り捌いている。
エンシュア司祭の正体は、そういうことだったのですね。
「チェックサム様は……?」
隣の牢屋を魔力感知で探ろうとしましたが、魔封じの枷のせいで感知範囲が極端に狭い。
数メートル先すら、ぼんやりとしか分かりません。
その時でした。
「お目覚めですか」
穏やかな声が聞こえました。
エンシュアです。
彼の足音が、牢屋の前で止まりました。
「随分と長く眠っていらっしゃいましたね」
「……貴方は、何者なのですか」
私は問いかけました。
「司祭ですよ。 孤児を保護する、ただの司祭です」
エンシュアは笑いました。
「ただ……少々、副業をしているだけです」
「人身売買?」
私の声は、怒りで震えました。
「ええ。 まあ、そうですね」
エンシュアは気にした様子もなく、続けました。
「しかし、私一人でやっているわけではありませんよ」
「……まさか、シープラ帝国の聖女協会……」
エンシュアの声が、少し低くなりました。
「ほう、やはりご存じでしたか」
私は眉をひそめました。
聖女協会といえば、各国に存在する宗教組織です。
神を祀り、民を導く、そういう建前の組織。
ですが、実態は権力と金の巣窟であることも多い。
シープラ帝国。
私の故郷。
そして、私を追放した国。
「……」
私は黙りました。
「あの国の聖女様は、とても聡明な方でして」
エンシュアは続けます。
「この辺境の地から、定期的に『商品』を送るよう指示を受けているのです」
商品。
人を、商品と呼ぶのですか。
「その聖女様は、お美しくて、お優しくて……皆に崇め奉られている方なのですよ」
エンシュアの声には、畏敬の念が込められていました。
「ですが、その裏では……こうして、邪魔者を排除するための指示も出されるのです」
「邪魔者……?」
「ええ。 例えば……」
エンシュアは少し間を置きました。
「『もしお姉さまを見つけたら、殺してくださいね』と」
私の心臓が、警告を鳴らしたように早く鳴っていきます。
「……何ですって」
「ああ、失礼。 聖女様の言葉を、つい口にしてしまいました」
エンシュアは笑いました。
『お姉さま』。
クロージャが、私のことをそう呼ぶのです。
表向きは「慕っている妹」を演じながら、裏では私を陥れ続けた、あの異母妹が。
「貴方……まさか、クロージャの指示で……?」
私の声は、震えていました。
「さあ、どうでしょう?」
あの異母妹の魔の手が、こんな平和な他国まで伸びているなんて。
「ですが、この世界は広い。 偶然、ここに来られた方もいるでしょう」
彼の声は、相変わらず穏やかです。
「ただ……そういう方が、万が一いたとしたら」
エンシュアは一歩、牢屋に近づきました。
「私は、聖女様の指示に従うだけです」
ガチャリと音がしました。
牢屋の鍵が、開けられたのです。
「さて、では――」
エンシュアの足音が、牢屋の中に入ってきます。
そして、何か重いものを持ち上げる気配。
鈍器です。
おそらく、鉄の棒のようなものでしょう。
「お休みなさい」
エンシュアの声が、冷たく響きました。
鈍器が、振りかぶられる。
私は魔封じの枷で動けません。
抵抗することもできない。
ああ、こんなところで――
その時でした。
「待て」
低い声が、響きました。
聞き覚えのある声。
いえ、少し低くなっていますが……間違いありません。
「チェックサム様……!」
私は思わず叫びました。
牢屋の入り口に、人影が立っています。
あの声、あの輪郭……間違いなくあのお方です。
あのお方はいつも私の助けが必要な時に、手を差し伸べてくださるのです。
そして、その周りには――
大勢の人々。
囚人たちが、鉄の棒を握りしめて立っています。
「な、何だ……!?」
エンシュアが狼狽えました。
「なぜ脱出できている!? 魔封じの枷は!?」
チェックサム様は何も答えず、ただ冷たい視線をエンシュアに向けました。
「その女から離れろ」
低い声。
ですが、その声には圧倒的な力がありました。
エンシュアは一歩、後ずさりします。
「く、くそっ……!」
彼は鈍器を振り上げましたが、次の瞬間――
囚人の一人が、エンシュアの腕を掴みました。
「うおおおっ! この恨み、晴らさせてもらうぞ!!」
囚人たちが、次々と牢屋に入ってきます。
エンシュアは為す術もなく、取り押さえられました。
「……助かりました」
私は小さく呟きました。
チェックサム様が、牢屋の中に入ってきます。
そして、私の枷に手を触れました。
次の瞬間――
カチャリと音を立てて、枷が外れました。
「え……?」
私は驚きました。
魔封じの枷が、こんなに簡単に……?
「立てるか」
チェックサム様の声が、優しく響きました。
「はい……!」
私は立ち上がりました。
魔力が、戻ってきます。
魔力感知も、少しずつ元に戻っていきます。
「ありがとうございます、チェックサム様……!」
私は深く頭を下げました。
「また、助けられてしまいましたね……」
本当にいつも、助けられてばかりです。
情けないのです。
チェックサム様のお力になると決めたのに。
自分の力で何もできない自分が、情けないのです。
「気にするな」
チェックサム様はいつものように素っ気なく言いました。
「行くぞ」
そして、牢屋の外へ歩き出しました。
◆◆◆◆◆
地上に出ると、そこは協会の広場でした。
エンシュアの手下であるゴロツキたちが、私たちを取り囲んでいます。
「逃がすか!」
ゴロツキの一人が剣を構えました。
ですが、囚人たちが鉄の棒を握りしめて立ちはだかります。
「お前らの恨み、思い知れ!!」
囚人たちが、ゴロツキたちに突撃しました。
剣と鉄の棒がぶつかり合う音。
ですが、剣の方が真っ二つに折れる音が響きます。
「な、何だとっ!?」
ゴロツキたちが、驚愕の声を上げました。
強化された鉄の棒です。
チェックサム様が、囚人たちに渡したのでしょう。
さすがです。
私も魔力感知を展開し、周囲の状況を把握しました。
ゴロツキたちは次々と倒されていきます。
囚人たちの怒りは、凄まじいものでした。
そして――
「くっ……ならば!」
エンシュアが詠唱を始めました。
「炎よ、我が手に――」
ですが、次の瞬間。
魔法陣が、消えました。
「な、何!?」
エンシュアが狼狽えます。
チェックサム様が、何かをされたのでしょう。
無詠唱で、魔法を消し去ったのです。
「雷よ、天より――」
再び詠唱を始めますが、また消されました。
「くそっ……くそっ……!」
エンシュアは焦りに顔を歪めました。
そして――彼は懐から、小さな袋を取り出しました。
「ならば……これで!」
袋の中身を、空中に撒き散らします。
何か怪しい粉が、周囲に広がっていきます。
「ククククク……これは睡眠薬の粉末! この一帯全てを眠らせる!」
粉が、囚人たちの顔にかかりました。
「う、うわ……!」
「眠い……」
囚人たちが、次々と倒れていきます。
私も粉を吸い込んでしまいました。
「……っ」
まずいのです。
また意識が、遠のいていく――
ですが、次の瞬間。
体が、温かくなりました。
「え……?」
眠気が、消えました。
体も、軽くなっています。
チェックサム様が、何かをしてくださったのでしょう。
「これで、お前も睡眠薬無効だ」
チェックサム様の声が聞こえました。
「は、はい……! ありがとうございます……!」
私は頷きました。
このお方は、私が求めているものをいつも用意してくださいます。
その時、牢屋から一人の女性が出てきました。
シスター服を着た、包容力のある体つきの女性。
イテレータと名乗っていた方です。
「私はあなたをどう料理してやろうかと、あなたを呪ってやろうかと、あなたから囚われていたこの数日間……考えに考え続けてきました」
イテレータの声が、変わりました。
優しげな声が、まるで別人のように冷たく、狂気を孕んでいます。
「ふふふ、ふふふふふ……今やっとあなたにっ! あの時の成果が披露できますっ!!」
彼女は鉄の棒を握りしめ、エンシュアに向かって走りました。
そして――
ゴンッ! ゴンッ! ゴゴゴゴゴンッ!!
鉄の棒が、エンシュアの脳天に叩き込まれました。
「ぐあっ……!」
エンシュアが、地面に倒れ伏しました。
……凄まじい怨念。
恨みというものは、ここまで人を変えるのですね。
◆◆◆◆◆
エンシュアを縛り上げ、協会を制圧しました。
ゴロツキたちも全員捕らえ、囚人たちは自由になりました。
「チェックサム様……!」
私は彼を見上げました。
「また、助けられてしまいましたね……」
本当に、いつも助けられてばかりです。
魔封じの枷で動けなかった私を、助けてくださいました。
睡眠薬を無効化してくださいました。
貴方様は、本当に……
私の頬が、ほんのりと熱くなるのを感じました。
盲目だから顔は見えませんが、魔力感知で貴方様のシルエットを「視て」います。
その姿が、私にとってはとても眩しいように感じます。
その時でした。
「チェックサム様と、仰有るのですね!!」
イテレータの声が響きました。
彼女が、チェックサム様に抱きつく気配を感じました。
「本当に、本当にありがとうございました!!」
イテレータの声は、先ほどの狂気は消え、また穏やかで優しい声に戻っていました。
「あなた様のおかげで、私たちは救われました!!」
……。
私は少し、イライラしました。
「あなた。 少し、離れていただけませんか?」
私の声は、自分でも驚くほど低くなっていました。
「あら? ですが私はただ、感謝の気持ちを伝えていただけですのよ?」
イテレータの声が、少し意地悪そうに響きました。
そして、さらにチェックサム様に密着する気配。
「貴方様も、同じではありませんか?」
「私は……私はその、先に……!」
私は思わず、チェックサム様の反対側の腕に抱きつきました。
温かいのです。
そして、逞しいのです。
「チェックサム様は、私が先に出会ったのです!」
私は主張しました。
「まぁ、でも助けていただいたのは私も同じですわ」
イテレータが、負けじと言い返します。
二人で、チェックサム様を挟んで張り合っております。
……ああ、私は何をしているのでしょう。
ですが、離したくないのです。
この温もりを、離したくないのです。
その時でした。
「勘弁してくれ……」
チェックサム様が、小さく呟きました。
「え? チェックサム様!?」
私は驚いて、手を離しました。
ですが、もう遅かったのです。
「あ、待って――」
私は叫びましたが、次の瞬間――
チェックサム様は、跡形もなく消えていました。
◆◆◆◆◆
協会の広場に、私とイテレータだけが残されました。
囚人たちは、それぞれ家路につき始めています。
「……行ってしまわれましたね」
イテレータが、残念そうに呟きました。
「ええ……」
私も、肩を落としました。
また、助けられただけで終わってしまいました。
お礼も、ろくに言えませんでした。
そして――
またしても、颯爽と助けてくださいました。
私が魔封じの枷で動けず、エンシュアに殺されそうになった時。
チェックサム様は、囚人たちを連れて現れてくださいました。
まるで、騎士のように。
私を助けてくださいました。
……ああ。
私の胸が、熱くなります。
これは、何なのでしょうか。
感謝の気持ち?
いえ、それだけではありません。
もっと、会いたいのです。
もっと、話したいのです。
もっと、知りたいのです。
貴方様のことを。
そして――
イテレータという、ライバルが現れました。
彼女も、チェックサム様に助けられました。
彼女も、チェックサム様に感謝しております。
そして、彼女も……チェックサム様を、慕っております。
それが、私には分かりました。
このままでは、チェックサム様を取られてしまいます。
私だけの――
いえ。
私は首を振りました。
私だけの、なんて。
そんな傲った考えは、許されません。
ですが――
私の心は、もう嘘をつけませんでした。
これはそう、恋なのです。
あのお方に、恋をしているのです。
初めて聞いた貴方様の声。
「ラムダ!」と叫んでくださった、あの声。
あの時から、私の心は焼かれていました。
炎のように、熱く。
そして今、また助けられて――
私は、もう誤魔化せません。
あのお方が、好きなのです。
「……必ず、また会いますから」
私は小さく呟きました。
チェックサム様。
あのお方は、私にとって唯一の『光』です。
この世界で、唯一。
私を救ってくださる、唯一の『光』。
だから――
私は、あのお方を諦めません。
諦めきれません。
必ず、また会って。
今度こそ、ちゃんとお礼を言います。
そして――
もっと、貴方様を知りたいのです。
私の心は、既にそう決めていました。




