表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
2/2

汽車は海峡を渡る「JR西じゆうに大賞1」1

「鉄路が結ぶ、記憶と味覚のグラデーション」

 山口県下関駅から、広島、三原、尾道を経て、岡山駅へと至る山陽本線。新幹線が本州の背骨をまたたく間に駆け抜けていく現代において、瀬戸内の海岸線に沿って武骨な黄色い車体を揺らす普通列車は、どこか取り残された静謐な時間を運んでいるように見えます。

 本作『汽笛は海峡を渡る』は、その四時間あまりに及ぶ鉄路の旅路を舞台に、生きる意味を見失いかけた二人の男女が、それぞれの「失われた時間」を取り戻していく物語です。

 主人公の一人、篠崎渉は十三年にわたりこの路線を走り続けてきたベテラン車掌です。かつてある激しい車内トラブルによって心に深い疲労感を負った彼は、「見るけれど、関わらない。気づくけれど、踏み込まない」という冷徹な防壁を自らの周囲に築くことで、日々の乗務の平穏を保ってきました。しかし、その結果として、完璧な時刻表通りの生活と引き換えに、彼の世界からは色彩が失われ、灰色の日々が続いていました。

 もう一人の主人公、白川奈津は、東京での生活に見切りをつけ、亡き父が尾道で営んでいた小さな食堂を継ぐために戻ってきた女性です。彼女の手元には、父が遺した一冊の「藍色のノート」がありました。そこには、料理のレシピではなく、瀬戸内の豊かな食材の産地と、出会った人々の名前が不器用な筆跡で書き留められていました。

 本来交わるはずのなかった二人の運命は、初夏の尾道駅のホームで、わずか四十秒の「扉の開閉」をめぐる迷いの中から交錯し始めます。

 奈津が探していた、父の出汁の秘密である幻の魚「アブト(マアナゴの幼魚)」。その名前の意味と、それが獲れる糸崎沖の情景を渉が告げた瞬間から、二人の止まっていた時間は静かに、しかし確実に動き出します。

 本書は、単なる鉄道小説でも、ノスタルジックなグルメ小説でもありません。

 窓の外に広がる鉛色の梅雨の海が、やがて目の覚めるような春の青へと移り変わっていくように、登場人物たちの凍てついた心が「他者と関わること」によって色鮮やかに再生していくプロセスを描いたヒューマンドラマです。

 国鉄型115系電車の香ばしい機械油の匂い、糸崎の桟橋で網を繕う老漁師の頑固な優しさ、そして有紀というかつての最愛の人が遺した幻の出汁の香り──五感を揺さぶる緻密な描写とともに、一本のレールが繋ぐ、人と人との不器用で温かい絆の物語を、どうぞ最後までお楽しみください。

   汽笛は海峡を渡る

               神楽坂 怜

   第一章 扉の隙間

   ──下関から尾道へ── 


パート1


 関門海峡に朝靄のかかる時刻、篠崎渉はいつも、冷え切った下関駅のプラットホームに立っている。

 東の空は、まだ朱色にも灰色にも染まりきれない、決断を迫られた人間の顔のような曖昧な色をしていた。海峡の向こう、門司の山並みのシルエットが墨絵のように滲んで見える。靄は薄く、しかし確実に陸と海の境界線をぼかし、どこからが大気でどこからが水面なのか判別しがたい一枚の灰色の幕を世界に垂らしていた。


 午前六時四十二分。

 渉はホームの先端から五メートル後方に定位置を取り、白手袋を両手にはめた。まず左の手袋を人差し指から順に引き、親指を最後に収める。次に右の手袋を同じ手順で。この動作は、十三年で六千回近く繰り返した儀式だ。繰り返すことで指先の感覚が鋭くなるような気がするし、実際、白手袋越しでも、ドアのバランサーにかかる微妙な重さの変化を渉は感じ取ることができる。それが自分の矜持だった。


 制帽のつばを人差し指で微調整する。水平から三ミリ下げた角度が、渉の定位置だ。マニュアルには「水平」と記されているが、乗客から見て頭部が大きく、威圧感を与えないための微調整を、ベテランの佐伯がかつて教えてくれた。「乗客はお客様だ、囚人を監視する番人と思われちゃいかんよ」。その言葉とともに、佐伯の大きな手が渉の制帽をそっと傾けた感触を、渉は今でも覚えている。

 山口県下関駅、六時四十七分発、山陽本線上り普通列車。終点は岡山。停車駅は数えきれないほどある。宇部から広島、三原、尾道を経て岡山へ──瀬戸内海沿いの街々を、四時間あまりかけて縫うように走る。本州の西の端から、穏やかな内海を右手に眺めながら、幾つもの街と、そこに生きる人々の生活を一本の鉄路で繋いでいく。それがこの列車の使命だった。

 関門橋の巨大なシルエットが、靄の向こうに浮かんでいる。

 九州と本州をつなぐ鉄の吊り橋は、朝の薄光の中で現実味を失い、まるでどこか別の世界へと続く巨大な門のように見えた。橋の主塔の頂きだけが靄の上に突き出て、空の灰色と一体化している。橋の真下を、石炭を満載したらしい大型貨物船がゆっくりと通過していく。船腹は水線下まで深く沈み、喫水の重さが波紋を作って岸壁へと届く。その重低音の汽笛が、二発、短く鳴った。腹の底から響くその音は、靄と波音に吸い込まれながら、渉の胸骨のあたりで静かに共鳴した。渉は白手袋の手を体の前で重ね、その振動を身体全体で受け止めた。

 これが渉の一日の始まりだ。汽笛の余韻の中に立つこと。その音が消えていく感覚の中に、自分という存在を確かめること。それ以外の感情は、このプラットホームでは必要ない。


 六時四十三分。ホームの乗客が増え始めた。

 渉はその全体を一瞥し、瞬時に状況を把握する。スーツ姿の会社員が七人、ほぼ等間隔に並んで立ち、それぞれスマートフォンを操作している。大学生と思われる若い男女が三人、大型のリュックサックを床に置いて、どこか眠そうに欠伸をしていた。二番出口側に、乳母車を押した若い母親。乳母車のカバー越しに、一歳前後の子どもが首だけ出して辺りを見回している。子どもの視線が渉の白手袋に吸い寄せられ、しばらく動かなくなった。

 渉はほんの一瞬だけ、子どもに向けてその白手袋の手を小さく振った。子どもはきょとんとした顔をしてから、ぱっと破顔する。

 その動作は、渉の意識には上らなかった。身体が勝手にやったことだ。


 ホームの端のベンチに、老人がひとり座っていた。

 毎週月曜日に見る顔だった。背筋は少し曲がっているが、姿勢は妙に良い。退職した元軍人か、長年職人をしていた人間だけが持つような、骨格そのものの規律がある。膝の上には古びた布袋が置かれ、両手はその上で静かに重なっていた。列車が停車すると、その老人は必ずこちらを見る。乗るわけでも、話しかけるわけでもない。ただ、静かにこちらを見つめる。目が合うと、渉も反射的に頭を下げてしまうのだった。

「あの人、知り合いですか」

 背後から声がかかった。今日の乗務パートナー、運転士の福田だ。二十七歳、入社五年目。快活で、乗客とのやりとりを苦にしない男だ。渉とは年齢が十近く離れているが、阿吽の呼吸で動ける相手だと渉は密かに評価していた。

「いや」

「毎週いますよね、あの方」

「そうですね」

「列車を見に来てるんですかね」

「さあ」

 福田はそれ以上追及せず、自分の持ち場に向かった。老人はこちらを見ている。渉も老人を見ている。二人の間に、ホームの喧騒とは別の、静かな何かが流れていた。


 六時四十五分。

 遠くのカーブの向こうから、レールを踏む低い金属音が聞こえ始めた。「ガタン、ゴトン」の規則的な刻みが、間隔を狭めながら近づいてくる。やがてカーブの影から、115系電車の黄色い車体が姿を現した。

 国鉄型の車両だ。昭和五十年代の設計を引き継いだ、ごつく、武骨な鉄の塊。客席のシートは長年の乗客の体重を受け、少しくたびれた弾力になっている。床はリノリウム張りで、駅のホームとの段差がわずかにある。扉はステンレスではなく鋼板のプレス。換気扇の音が車内に低く混ざり、モーターの匂い──電気と金属と微量の機械油が混じったような、この路線特有の匂いが、制動機のスキールとともに朝の冷たい空気の中に溶け出してくる。

 渉はその匂いを鼻腔の奥に吸い込んだ。

 これが自分の持ち場だ、と渉は思う。どんな感情もなく、ただそう思う。

 列車は正確にホームの定位置に停車し、プシューという排気音とともに全扉が一斉に開放された。朝の空気と車内の澱んだ空気が入れ替わり、乗客が吸い込まれるように乗り込んでいく。渉は最後部の車掌室へと移動しながら、各車両の乗降状況を確かめた。六号車から一号車まで、視線がスキャナのように動く。乗り込む人数、降りる人数、手荷物の大きさ、足元の不安定な人の位置。これらはすべて、脳の特定の棚に自動的に収まっていく。


 六時四十六分三十秒。

 渉は車掌室のドア横の小窓から、ホームの全景を確認した。老人はまだベンチに座っている。列車が停まると、彼は必ずこちらを向く。今日も同じだった。老人は小さく、ほとんど見えないほど小さく、頭を下げた。渉も無意識に頭を下げていた。


 六時四十七分、定刻。

 渉は発車ブザーのスイッチに右手を置き、ホーム全体を確認して、押した。ベルが鳴り響く。扉が閉まる。渉は合図灯を高く掲げ、前方の運転士へ発車の合図を送った。

 列車はゆっくりと、しかし確実に動き始めた。ホームが後退していく。老人の姿が遠ざかる。渉は視線をそちらに向け続けたが、老人はもう渉を見ていなかった。列車の向こうへ消えていく黄色い車体を、静かに見送っていた。

 列車は関門海峡の靄の中へと滑り出した。


パート2


 篠崎渉が鉄道会社に入り、車掌になったのは、確固たる情熱や夢があったからではない。

 大学を卒業し、周囲と同じように就職活動をし、採用試験を受け、内定の電話を待った。鉄道への特別な愛着はなかった。乗り物として使うことはあっても、車両の型番を覚えたり、線路の敷設について調べたりしたことは一度もない。新幹線の運転席に憧れたわけでも、特急列車のダイヤが好きだったわけでもなかった。採用試験を受けた企業は十三社で、内定をくれたのがJR西日本と中堅の商社一社。商社は渉の実家から遠く、親の体調を理由に断った。だからJR西日本に入った。それだけのことだった。

 しかしそれだけのことが、十三年の歳月をかけて渉という人間を形作っていった。


 最初の二年間は、毎朝ホームに立つたびに胃がひっくり返るような緊張を覚えた。乗客の顔ぶれを確かめ、扉の開閉タイミングを計り、出発のベルに神経を尖らせる。秒単位で管理された運行ダイヤの重圧が、二十代の渉の細い肩に重くのしかかった。路線の全停車駅の位置と番線、待避のタイミングを、眠れない夜に何度も脳内でシミュレートした。乗客の数を一両ごとに把握し、緊急時の対応手順を体が動く前に頭が指示できるよう、繰り返し繰り返し、反復した。

 けれど今は、すべてが呼吸と同じように体に染み込んでいる。

白手袋をはめる仕草、制帽のつばの角度、車内アナウンスのマイクを握る親指の力加減、ドア横の小窓から流れる人の波を確認する目の動き──それらはもはや意識の表層に上ることもなく、肉体が自動的に選択する、職人の領域に達していた。

 そしてその職人的な精度が、渉を守る鎧でもあった。


 決定的な出来事アクシデントは、二十八歳の冬に起きた。

 広島発下関行きの最終近くの列車。乗客は少なく、車内は深夜の静けさに包まれていた。向洋駅むかいなだえきの先で信号待ちをしている間、渉は車内巡回に出ていた。ある主要駅から、ひどく泥酔した中年の男が乗り込んできた。五十代前後、紺のスーツに染みがついており、ネクタイは半分ほどゆるんでいる。男は千鳥足で車内を歩き回り、やがて一人で座っていた若い女性乗客の前に立ちはだかり、低い声で何かを言い始めた。女性は表情を失い、膝の上に置いた鞄をきつく両手で握り締め、視線を彷徨わせていた。

 渉はすぐに動いた。

「お客様、他のお客様のご迷惑になりますので、お席へお戻りください」

 落ち着いた、毅然とした声を意識した。声を荒げない。しかし確実に意思を伝える。これはマニュアルにもあるし、実際に先輩から何度も言い聞かされた対応だ。しかし、男の怒りの矛先は一瞬で渉へと向いた。

「なんだお前! 迷惑だっていうのか! 俺が!」

 男が腕を振り上げた。渉は体を引いたが、男の手が渉の頭を掠め、制帽がリノリウムの床に叩き落とされた。

 乾いた、高い音が車内に響く。

 数少ない乗客が、一斉に息を呑んだ。老人、カップル、大学生。彼らの目が渉に向く。その沈黙の中で、渉はゆっくりと屈み、床から制帽を拾い上げた。

 その時、渉の胸に湧き上がったのは、怒りでも屈辱でもなかった。底の抜けたような、深い、深い「疲労感」だった。男が抱えているであろう何かが、理由もなく自分にぶつかってくる。その質量に、心が悲鳴を上げていた。ただ列車を安全に走らせたいだけなのに、他人の荒れた感情が容赦なく降りかかる。その理不尽さへの怒りではなく、ただ、消耗。魂の消耗だった。

 次の駅で男を駅員に引き渡した後、渉は深夜の車掌室で一人、汚れのついた制帽を膝の上に置き、窓の外の暗い海を見つめていた。


 翌朝、渉はベテランの佐伯に打ち明けた。教育担当だった五十代のその男は、物静かで、多くの修羅場をくぐり抜けてきた目をしていた。

「人が、自分の中に土足で入ってくるような感覚があります。どう防げばいいですか」

佐伯はしばらく、自動販売機の温かい缶コーヒーを眺めていたが、やがて静かに言った。

「防ぐことと、なくすことは違うぞ。シャッターを下ろすのは簡単だが、それではこの仕事はただの作業になってしまう。列車に乗ってくるのは、記号じゃない。生きた人間だからな」

 その時の渉には、佐伯の言葉の真意が理解できなかった。

 生きた人間だからこそ、傷つく。生きた人間だからこそ、削られる。シャッターを下ろすしかない、と渉は思った。

 それ以来、渉は自分なりの「防壁」を築いていった。

見るけれど、関わらない。気づくけれど、踏み込まない。乗客は移動する存在であり、自分は安全に運ぶ存在である。その境界線を厳密に引くことで、渉は日々の乗務を平穏にこなせるようになった。車内トラブルには迅速に、しかし感情を交えずに対処する。乗客からの理不尽なクレームも、怒りを感じる前に処理のルーティンへと落とし込む。クレームは「対応すべき案件」であり、「自分の感情を揺さぶるもの」ではない。そう位置づけることで、渉の心は削られなくなった。

 しかし同時に、世界から色彩が失われていくような、妙な砂漠感を渉は抱えるようになった。

 世界は灰色になり、時刻表の数字だけが確かな現実となった。


パート3


 三十三歳の夏、渉は有紀と結婚した。

 知人の紹介で出会った彼女は、ウェブデザイナーをしていた。よく笑い、よく喋り、自分の感情を包み隠さず表現する人だった。太陽のような、という言葉を渉は安易に使いたくなかったが、実際、彼女がいると部屋の空気の温度が違った。笑い声が高く、よく通り、話の内容が転がるように展開し、気づくと二時間が過ぎている──そういう女性だった。

 渉の静けさを、有紀は最初のうち「落ち着く」と言ってくれた。喧騒の仕事から帰ってきた時に、渉の動じない静けさが心地よいのだと。

 渉にとっても、有紀の賑やかさは砂漠のオアシスだった。自分の防壁が解けていくような感覚があった。二人でいる時間だけ、世界が少し色を取り戻す。


 しかし、結婚生活が三年目を迎える頃から、静かなすれ違いが始まった。

 それは激しい衝突ではなかった。声を荒げたことも、言ってはならないことを言い合ったこともなかった。ただ、食卓のあちこちに、小さな、しかし消えることのない亀裂が生じ始めた。

 紀は今日あったことを話す。仕事で受けたクライアントの理不尽な修正依頼、その中にある面白い発見、共有したいデザインのアイデア。彼女の話は生き生きとして、聴いているだけで景色が浮かぶようだった。

 渉は「うん」「そうなんだ」「大変だったね」と相槌を打つ。

 嘘ではなかった。聞こえてはいた。しかし、渉の思考の半分は常に別のところにあった。翌日のダイヤのシミュレーション。糸崎駅での貨物待避のタイミング。雨天の際のブレーキ制動距離の変化。これらは渉の職業的な本能で、意図して考えているのではなく、脳が勝手に走らせている演算だった。

 しかし、有紀の目には、渉が自分を「流している」ように見えた。

「ねえ、渉さん、本当に聞いてる?」

「聞いてるよ。デザインの修正が大変だったんだろ」

「言葉は聞こえてるけど、心がここにいない。あなたはいつも、私を通り抜けて、もっと遠くの何かを見てるみたい」

 有紀はそれ以上、渉を責めなかった。ただ箸を置いた。その箸の静かな音が、渉の記憶の中に深く焼き付いた。


 有紀は料理が好きで、特に出汁にこだわった。

 週末になると、鰹節や昆布から丁寧に時間をかけて出汁を取り、透き通ったスープを作った。台所に立つ有紀の横顔は、仕事の時とも、渉と話している時とも違う、深く集中した表情をしていた。出汁が引けた時の、あの立ち上る湯気の中の温かい香り。それは、渉の張り詰めた神経を緩めてくれる唯一の拠り所でもあった。

「どう? 美味しい?」

「ああ、美味しいよ」

 嘘ではなかった。本当に美味しかった。しかし、渉の口から出るのはいつも、その一言だけだった。どう美味しいのか、何が自分の心を動かしているのか、そういう感情を言葉に乗せる作業を、渉はいつの間にか忘れてしまっていた。

 最後の夜、有紀は泣かなかった。

 スーツケースを傍らに置き、静かに渉の目を見て言った。

「渉さんと一緒にいると、広い宇宙で一人きりで取り残されているみたいな気持ちになるの。あなたは私を見ているようで、いつもどこか遠くを見てる。話を聞いてるけど、音として流してるだけ。私、もう疲れちゃった。あなたのその、綺麗な防壁の中に、私は入れてもらえなかったのね」

 渉は何も言えなかった。何か言うべきだとわかっていたが、言葉が喉の奥で形をなさなかった。


 有紀は神戸の実家へ帰った。離婚届が郵送されてきた。渉は所定の欄に記入し、返送した。手続きは驚くほど迅速に完了し、渉の生活は再び、完璧な時刻表通りの孤独へと戻った。

 起きる。乗務する。帰る。眠る。

 それでいいはずだった。それが一番安全で、誰も傷つけない生き方のはずだった。

 しかし、夜、有紀がいた台所に立つと、かすかに出汁の香りがするような気がした。それは実際にはないはずの香りで、壁に染み込んでいるはずもなかった。それでも渉は時々、台所に立って、その幻の香りを深く吸い込むのだった。


パート4


 五月中旬の、晴れた日のことだ。

 山陽本線の上り列車が尾道駅に滑り込んだ時、渉はホームのベンチに座る一人の女性の姿に目を留めた。

 年齢は三十代後半ほどだろうか。仕立ての良い、しかし少し着古したベージュのトレンチコートを着ている。コートの肩の縫い目がほつれかかっていて、それが彼女の現在の状況を物語っているように見えた。ひざの上には小ぶりの革鞄と、一冊の古い、布張りのノート。

 列車が到着し、扉が開いても、彼女は立ち上がろうとしなかった。

 ただ、その藍色のノートを両手で、愛おしそうに、あるいはすがるように強く抱きしめ、視線を泳がせている。その瞳には、深い迷いと、何かを探しあぐねているような焦燥が滲んでいた。

 渉は車掌室の小窓から彼女を見た。

 発車のベルが鳴る。ホームの乗客はすべて収まった。渉は扉を閉めるボタンに手を置いた。規則上、この段階で扉を閉めなければならない。ダイヤは絶対だ。渉はその法則を、十三年間一度も揺るがせたことがない。


 しかし、渉の手はボタンの上で止まった。

 彼女の肩が、微かに震えていた。

 それは泣いているのとは違う震えだった。人生の重大な岐路に立ち尽くし、一歩を踏み出す恐怖に耐えている人間の震えだ。渉はなぜかそう確信した。根拠はない。しかしその確信は、十三年間で見てきた数えきれないほどの「人間の動作」の積み重ねから来ていた。

 ここで扉を閉めてしまえば、彼女は何かを逃してしまう。

 ベルが鳴り終わる直前、彼女は弾かれたように立ち上がった。ノートを胸に抱いたまま、ホームを数歩走ってくる。足元がおぼつかない。ヒールが低い靴なのに、それでも走り慣れていない走り方だった。

 渉は思考よりも先に肉体を動かし、閉まりかけていた扉のバランサーを操作した。扉が再び開放される。

「すみません……!」

 彼女は滑り込むように車内に入り、激しく息を切らせた。

「大丈夫です。お足元、お気をつけください」

 渉は事務的なトーンで応じた。列車は定刻からおよそ四十秒遅れて尾道駅を発車した。

 しかし、渉の胸には、奇妙なざわめきが残った。

 彼女の抱えていたあの藍色のノート。彼女はそれを単なる持ち物としてではなく、まるで自分の命の破片を守るかのように抱いていた。そのノートの表紙の、すり切れた角と、染み込んだ油の黒ずみが、渉の網膜に焼き付いて離れなかった。

 他人の感情に敏感であることを自らに禁じてきた渉だったが、その姿だけは、どうしても心の防壁を通り抜けて、奥深くに刺さってしまった。

 列車は瀬戸内の光の中を東へ走る。窓の外を、糸崎の海が流れていく。波は穏やかで、陽光を受けて白く砕け、また集まる。渉はその光景を、これまで何千回と見てきた。いつも変わらない景色のはずが、その日は、微かに違って見えた。

 灰色だった景色のどこかに、ごく小さな、しかし確かな光の点が生まれたような気がした。


 翌週の同じ曜日、同じ時刻の列車に、彼女はまた乗ってきた。

 今度は遅れることなく、扉が開くと同時に静かに乗り込み、窓際の席に腰を下ろした。渉が車内巡回のために通路を通りかかった時、彼女はひざの上で例の藍色のノートを開いていた。万年筆の青黒いインクで、びっしりと文字が書き込まれている。達筆だが、どこか癖のある、年配の男性が書いたような筆跡だった。地名らしき単語と、食材の名前、調理のメモ、そして数字。

 彼女は窓の外を流れる瀬戸内の風景を見つめ、それから手元の文字を見つめ、深いため息をついた。

 声をかけるべきではない。それは車掌の領分を越えている。渉は自分にそう言い聞かせ、通り過ぎた。

 しかしその日の午後、折り返しの列車に乗務しながら、渉は車窓の尾道水道を眺めていた。きらきらと光る海面。山の斜面にへばりつくようにして建つ古い家々。その隙間を縫うように伸びる石段の細い線。

 あの女性は、なぜこの街にやってきて、あの古いノートを開いているのだろう。

他人の事情に興味を持つこと自体、ここ数年の渉には異常なことだった。有紀を失って以来、完全に干からびていたはずの好奇心という感情が、メトロノームのように微かに揺れ始めているのを自覚していた。


 三度目の遭遇は、六月の上旬、梅雨の気配が濃くなってきた頃だった。

 空は低い雲に覆われ、光は白く拡散して影を作らない。瀬戸内の海は、晴れた日の青ではなく、鉛色に凪いでいた。空気は湿気を含んで重く、駅のアスファルトは湿ってほのかに光っている。

 尾道駅のホームに、彼女は立っていた。

 しかし、列車が到着し、扉が開いても、彼女はまた動かなかった。乗るべきか、乗らざるべきか。その葛藤が、立っている姿勢そのものに表れていた。体の重心が、前でも後ろでも定まらず、微妙に揺れている。

 発車のベルが鳴り始めた。渉は車掌窓から身を乗り出した。

 この状況で自分が何かを言うのは、車掌としての領分を越えている。それはわかっていた。しかし、渉の口は動いた。

「乗られますか」

 彼女がハッと顔を上げた。

「あの……すみません」彼女は小走りで車掌窓の近くまでやってくると、すがるような声を上げた。「この帳面に書いてある魚の名前が、どうしてもわからなくて。尾道の魚屋さんに聞いて回ったんですけど、そんな名前の魚は仕入れてないって言われてしまって……。ここで行き詰まったら、もうどこへ行けばいいのか……」

 彼女はためらいながら、藍色のノートを渉に突き出すようにして開いた。

「ここに『アブト』って書いてあるんです。前後の文脈からして、絶対に魚の名前だと思うんですけど……。その横に、すごく薄く『糸崎沖』って書き添えられていて」

 渉の視線が、ノートの文字に注がれた。

 油が染み、ページの端が擦り切れたノート。力強い筆跡で「アブト」と書かれた文字。その横に、滲んだような細い字で「糸崎沖」。

 渉の頭の中で、十三年間蓄積されてきた山陽本線の膨大な記憶の引き出しが、音を立てて開いた。

「それは、標準語じゃないですね」渉は言った。「地方の漁師言葉です。マアナゴの、特に小ぶりな幼魚のことを、糸崎や三原の古い漁師たちは『アブト』と呼ぶんです。阿伏兎観音あぶとかんのんの周辺の瀬でよく獲れたから、そう名付けられたという説があります」

 女性の目が、驚きで見開かれた。暗闇に一筋の光が差し込んだような、鮮烈な表情だった。

「アナゴ……! 穴子なんですか!」

「ええ。今の時期なら、糸崎駅で降りて、港の近くの古い鮮魚店を探せば、まだ扱っている店があるかもしれません」

「なぜ、そんなことまでわかるんですか……?」

 発車ベルが鳴り止んだ。渉は制帽のつばに手を当て、ほんのわずかに微笑んだ。

「長くこの路線を走っていますから。──乗られますか」

 彼女は一瞬だけノートを強く抱きしめ、それから力強く頷いた。

「はい、乗ります!」

 彼女がステップを駆け上がるのを確認し、渉は扉を閉めた。列車は滑らかに加速し、尾道の街を背にして東へと走り出した。


 車掌室に戻った渉は、自分の胸の高鳴りに、静かに戸惑っていた。

 声をかけ、個人的な疑問に答え、旅の案内までしてしまった。ここ十年間、自分が頑なに守ってきた「見るけれど、関わらない」という流儀が、音を立てて崩れていくのを感じた。

 しかしそれは、不快な崩壊ではなかった。

 堰き止められていた水が、ようやく正しい通路を見つけて流れ出したかのような、不思議な充足感があった。

 佐伯が言っていた「生きた人間」という意味が、ほんの少しだけ分かりかけた気がした。

 列車が糸崎駅に到着した。

 ホームの端に、小さな花壇がある。今の季節はサルビアの赤と、マリーゴールドの鮮やかなオレンジが、梅雨の曇り空の下で生命の灯火のように輝いていた。その花壇の脇で、一人の老人が屈んで泥をいじっている。

 松本さん、六十八歳。元はこの糸崎駅の駅員だった男で、退職後も毎日ボランティアとしてホームの花壇を手入れしている。

 かつて渉が、なぜ退職後もこうして通い続けるのかと問うた時、松本さんは泥で汚れた軍手で額の汗を拭い、人懐っこい笑顔を浮かべて言った。

「ここに花を植え始めたのは、国鉄が民営化されるかどうかっていう、一番荒れてた時期だったんですよ。駅の中がギスギスしていてね、乗客の顔も暗かった。だから、せめてホームの端っこくらい、明るい色を置いておきたくてね」

 松本さんはサルビアの葉を優しく撫でた。

「辞めてからも、この子たちがほっとけんのですわ。毎日、何百本もの列車がここを通り過ぎていく。車窓から、ほんの一瞬でもこの花を見て、ふっと心が軽くなる乗客が一人でもおれば、わしが毎日水をやる意味はある。続けることでしか、残らんものがあるんですよ、篠崎さん」

 続けることでしか、残らないもの。

 渉は遠ざかっていく松本さんの背中と、鮮やかな花の色を見つめながら、自分もまた、この鉄路の上に何かを「続けている」のだと気づいた。

 防壁の向こう側にある世界が、少しずつ熱を持ち始めていた。


 渉は深く息を吐き出し、制帽を脱いだ。額に滲んだ汗が、冷気に触れてすっと引いていく。

 明日もまた、同じ鉄路が待っている。このレールは下関から広島、そして尾道や糸崎へと、瀬戸内の海沿いをどこまでも繋いでいる。自分が明日乗務する黄色い電車のどこかに、まだ見ぬ誰かの、切実な旅の理由が乗っているのかもしれない。

 渉は暗闇に伸びる二条の鋼鉄を静かに見つめていた。


「変わる景色と、変わらない汽笛の余韻」

「第1回 JR西日本×BS12 トゥエルビ じゆうに文庫小説大賞」の開催にあたり、拙作『汽笛は海峡を渡る』を最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。

 本作の執筆の原動力となったのは、私自身が山陽本線の普通列車に揺られて旅をした際に感じた、「変わりゆくものと、変わらないもの」への愛おしさでした。

 作中に登場する115系電車は、昭和の時代からこの鉄路を支え続けてきた武骨な鉄の塊です。エアコンの作動音や独特の金属擦過音、そして微量な機械油の匂いは、合理化が進む現代の交通機関からは排除されつつある「生々しい生活の質感」そのものです。車掌の篠崎渉がこの車両を「自分の持ち場」として誇りを持っていたように、不器用で型遅れな存在だからこそ、そこに乗る人々の体温をまっすぐに伝えることができるのではないかと考えました。

 渉が築いていた「防壁」は、現代社会に生きる多くの人々が多かれ少なかれ抱えているものではないでしょうか。他者と深く関われば、傷つき、魂を消耗する。だからこそシャッターを下ろし、乗客を「記号」として処理する。それは彼なりの防衛策でしたが、元駅員の松本さんがホームの端でサルビアの花を育て続けているように、「続けることでしか残らないもの」に触れた時、彼の防壁は心地よい崩壊を迎えます。

 また、白川奈津が追い求めた「アブト」という魚を通じて、瀬戸内という土地が持つ深い食文化の記憶を描きたいと思いました。昆布や鰹節だけでは出せない「瀬戸内の深み」を秘めた出汁の味は、亡き父・勉から奈津へ、そしてかつて渉の妻であった有紀から渉へと繋がる、目に見えない愛の暗号です。人は大切な人を失っても、その人が遺した「味」や「言葉」を通じて、何度でもその温もりに再会することができる──そんな祈りを込めて、奈津が糸崎の坂田漁師のもとを訪ねるシーンを執筆しました。

 ラストシーンにおいて、桜の花びらを浴びる三原城の石垣や、新緑が混じり始めた尾道の山々を通過する時、渉の心にはかつて通過させてしまっていた景色のすべてが鮮やかに収まります。

「同じ路線を走っていても、同じ日は二度とない」

この気づきこそが、渉と奈津が長い旅の果てに見つけた、新たな一歩のための切符でした。

 最後になりますが、この物語に命を吹き込むきっかけをくださったJR西日本の皆様、そして映像化やメディアミックスという「じゆうに文庫」ならではの壮大な可能性を提示してくださったBS12 トゥエルビの皆様に、心より感謝を申し上げます。下関から岡山へと続くあの黄色い車体の中で、今も渉が白手袋をはめ、奈津が藍色のノートを開いて前を向いていることを願いつつ、筆を置かせていただきます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ