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汽笛は海峡を渡る

「鉄路が結ぶ、記憶と味覚のグラデーション」

 山口県下関駅から、広島、三原、尾道を経て、岡山駅へと至る山陽本線。新幹線が本州の背骨をまたたく間に駆け抜けていく現代において、瀬戸内の海岸線に沿って武骨な黄色い車体を揺らす普通列車は、どこか取り残された静謐な時間を運んでいるように見えます。

 本作『汽笛は海峡を渡る』は、その四時間あまりに及ぶ鉄路の旅路を舞台に、生きる意味を見失いかけた二人の男女が、それぞれの「失われた時間」を取り戻していく物語です。

 主人公の一人、篠崎渉は十三年にわたりこの路線を走り続けてきたベテラン車掌です。かつてある激しい車内トラブルによって心に深い疲労感を負った彼は、「見るけれど、関わらない。気づくけれど、踏み込まない」という冷徹な防壁を自らの周囲に築くことで、日々の乗務の平穏を保ってきました。しかし、その結果として、完璧な時刻表通りの生活と引き換えに、彼の世界からは色彩が失われ、灰色の日々が続いていました。

 もう一人の主人公、白川奈津は、東京での生活に見切りをつけ、亡き父が尾道で営んでいた小さな食堂を継ぐために戻ってきた女性です。彼女の手元には、父が遺した一冊の「藍色のノート」がありました。そこには、料理のレシピではなく、瀬戸内の豊かな食材の産地と、出会った人々の名前が不器用な筆跡で書き留められていました。

 本来交わるはずのなかった二人の運命は、初夏の尾道駅のホームで、わずか四十秒の「扉の開閉」をめぐる迷いの中から交錯し始めます。

 奈津が探していた、父の出汁の秘密である幻の魚「アブト(マアナゴの幼魚)」。その名前の意味と、それが獲れる糸崎沖の情景を渉が告げた瞬間から、二人の止まっていた時間は静かに、しかし確実に動き出します。

 本書は、単なる鉄道小説でも、ノスタルジックなグルメ小説でもありません。

 窓の外に広がる鉛色の梅雨の海が、やがて目の覚めるような春の青へと移り変わっていくように、登場人物たちの凍てついた心が「他者と関わること」によって色鮮やかに再生していくプロセスを描いたヒューマンドラマです。

 国鉄型115系電車の香ばしい機械油の匂い、糸崎の桟橋で網を繕う老漁師の頑固な優しさ、そして有紀というかつての最愛の人が遺した幻の出汁の香り──五感を揺さぶる緻密な描写とともに、一本のレールが繋ぐ、人と人との不器用で温かい絆の物語を、どうぞ最後までお楽しみください。

   第二章 車窓のグラデーション

   ──糸崎港・鞆の浦・長船・笠岡──


パート1 糸崎の朝


 新幹線を福山で降り、山陽本線の黄色い普通列車に乗り換えたときから、奈津の時間は少しずつ速度を落とし始めていた。車掌が告げる駅名のアナウンスが、どこか遠い世界の出来事のように鼓膜を揺らす。

 尾道駅のホームに降り立った時、奈津を最初に出迎えたのは、強烈な潮の香りと、いま乗ってきた電車の熱いモーターの匂いだった。カバンの中には、父が遺した一冊の藍色のノートが重く収まっている。

 糸崎。

 地図では知っていた。尾道から東へ二駅、三原市に吸収合併される前は糸崎町と呼ばれていた地域だ。山陽本線の運転上の拠点駅として長く機能してきた場所で、かつては機関区もあり、蒸気機関車の整備が行われていたと聞いた。その名残か、駅の周囲には黒ずんだ煉瓦造りの建物の跡が点在している。観光地という雰囲気はまるでなく、漁港と住宅地と工場が雑然と混在した、生活の匂いのする港町だった。


 奈津は駅の出口を抜け、国道沿いに出た。

 左手に海が見える。瀬戸内海だ。しかし、この日の海は奈津が思い描いていたような穏やかな青ではなかった。梅雨の低い雲を映して、鉛のような灰青色をしており、波頭だけが白く砕けて不規則に動いている。潮の匂いが、湿った空気とともに体の表面に纏わりついてくる。磯の香りというより、もっと生々しい、魚の内臓と海藻が混じったような原始的な匂いだった。

 奈津はトレンチコートの前を合わせ、胸に抱いた藍色のノートを確かめた。


 父・白川勉が遺したこのノートを、奈津は今や何百回となく読み返している。万年筆の青黒いインクで書かれた文字は、父の筆跡そのものだった。癖が強く、独特のリズムがある。「く」の字が丸くなりすぎ、「し」の払いが上方向に跳ねる。父が生きていた頃、奈津はその癖を不格好だと思っていたが、今は、その一画一画が父の呼吸のように感じられた。

 ノートを開くと、今日の頁が目に入る。

「アブト・骨出汁。糸崎沖。坂田。」

 それだけだ。父のノートは、料理の細かいレシピを記したものではなかった。むしろ産地の覚書であり、出会った人間の名と、その場所の空気を短い言葉で切り取ったものだった。「アブト」が何者かを昨日の車掌が教えてくれた。では「坂田」は誰か。

 坂田という名の漁師が、糸崎にいる。

 父はかつてここを訪れ、その人物と会い、魚を仕入れ、出汁を作った。その事実だけが、 このノートの数行に凝縮されていた。


 奈津は港の方向へと足を向けた。

 国道を渡り、漁港へと続く細い道に入ると、風景が一変した。アスファルトの道は途中から石畳に変わり、左右に古い木造の家が並び始める。どの家も一様に窓が小さく、軒が低い。海からの塩風を防ぐための構造なのだろう、壁には黒い防腐剤が塗られ、屋根は波型のスレートで葺かれている。軒先に漁具を干している家、網を広げて修繕している老婆の姿、桟橋の端で煙草を吸っている男。この街は観光客のためにある場所ではない。生きるための場所だ、と奈津は感じた。


 港に出た。

 木製の桟橋が三本、海に向かって伸びている。一番奥の桟橋に、二隻の漁船が係留されていた。どちらも小型の和船で、船体はFRP製だが、その汚れ方が長年の使用を物語っていた。甲板に積まれた発泡スチロールの箱、絡み合った漁網、錆びたビニールホースの束。生業の道具が雑然と、しかし使いやすい場所に置かれている。その雑然さに、却って確かな生活の秩序が宿っていた。


 桟橋の入り口近く、網を繕っている老人がいた。

 年齢は七十代半ばだろうか。小柄だが、肩幅が広く、腕が太い。長年の海仕事が体に刻んだ筋肉だ。皮膚は深く日焼けして黒に近い褐色になっており、顔の皺は深く、横に刻まれている。風雪が刻んだ皺ではなく、塩風と日差しと笑いが長年かけて彫り込んだ皺だ。老人は奈津が近づいてくるのに気づいていたが、網から目を離さなかった。

 奈津は立ち止まり、声をかけた。

「すみません、坂田さんという方はこちらにいらっしゃいますか」

老人がはじめてゆっくりと顔を上げた。その目が奈津を見た。何かを計算するような目だった。値踏みではなく、相手が何者かを正確に判断しようとする漁師の目だ。

「わしが坂田じゃが」

 声は低く、明確だった。三原の方言のイントネーションが混じっている。

「あの、突然申し訳ありません。私、白川奈津と申します。父が……白川勉という者が、以前こちらでお世話になっていたと思いまして。尾道で食堂をしていた者です」

「白川勉?」

 老人は網の手を止め、まじまじと奈津の顔を見た。

 長い沈黙があった。

 奈津は動かなかった。ここで押してはいけない。この老人は、急かされることを好まない人間だと、直感でわかった。

「……勉のとこの、娘さんかね」

「はい」

「そうか」

 坂田は網をゆっくりと桟橋に置き、腰を上げた。立ち上がった時、わずかに表情が歪んだ。足腰の痛みだ。しかし老人はそれを表情の上に一瞬だけ出して、すぐに隠した。弱みを見せることに慣れていない人間の癖だった。

「勉のやつは、去年の冬に死んだと聞いた」

「はい。一月に」

「そうか」

 坂田はまた黙った。奈津はその沈黙の重さを受け止めながら、待った。

「遠いところを、よう来た。上がれ」

 老人は奈津を桟橋の向こうの小屋へと手招きした。


 小屋の中は、海と煙草と木の匂いがした。

 コンクリートブロックで作られた簡素な建物の中に、折り畳みのパイプ椅子が三脚と、スチール製の作業台があった。作業台の上には修繕に使う糸と錐とテープが並んでおり、壁には錆びた金具が打ちつけられ、様々な工具がぶら下がっている。天井に小さな裸電球が一つ。窓は一枚だけ、海に向かって開いており、外の雨の気配を帯びた風が時折、内側へと流れ込んできた。

 坂田は自分の椅子に腰を下ろし、奈津に向かいの椅子を示した。

「お茶でも飲まんか」

「ありがとうございます」

 老人は慣れた手つきでコンロに火をつけ、水道の蛇口をひねった。鉄分が少し混じったような色の水が出る。坂田はそれを平然とやかんに汲んだ。

 奈津は小屋の中を見回しながら、父のことを考えていた。

 父はここに来たことがある。この小屋に座ったことがある。坂田と言葉を交わし、アブトのことを聞いた。父の指がこの空間の空気に触れたことがある。その事実が、奈津の胸の奥に微かな熱を灯した。

「お父さんと、どんなきっかけで知り合われたんですか」

 坂田は湯が沸くのを待ちながら、天井を一度見上げた。

「もう二十年以上前の話じゃ。わしの息子の嫁が、尾道の出でな。その嫁を連れて尾道へ行った時に、しらかわ食堂に入んが最初じゃ。あの頃はまだ勉の親父、つまり君のおじいさんがやっとった頃じゃったかな」

「そうだったんですね。私は小さかったので、あまり覚えていなくて」

「ああ。君は小さかったじゃろ。確か、七、八歳かそのくらいの子供が店の隅でお絵描きをしとった。赤い筆で何か描いとったな。あれが君か」

 奈津の胸に、唐突に記憶の断片が蘇った。赤いクレヨン。紙。父の後ろ姿。店の隅の小さな椅子。

「……覚えています。赤で魚を描いていたんです。父に見せたら、魚じゃなくてタコみたいだって笑われて」

 坂田が低く笑った。

「そうじゃ、そうじゃった。勉が笑いながら君の絵を客に見せて回っとった。あいつはそういう男じゃった」

 奈津の喉の奥が、微かに熱くなった。

 父の笑顔が浮かぶ。大きく、よく通る笑い声。東京にいた十五年の間、奈津はその声を電話越しにしか聞いていなかった。帰省を先延ばしにした理由は、いつも仕事だった。いつでも帰れると思っていた。そしてある日、帰る場所の主が消えた。

「アブトのことを聞きにきたんか」

 坂田が奈津の顔を見ながら言った。

「はい。父のノートに書いてあって。でも、どこへ行っても知らないと言われて……」

「そうじゃろ。今どきの若い魚屋はアブトなんて知らん。わしらの世代でも、呼び名を知っとる者は少ない。阿伏兎観音の沖合の瀬でよう獲れたから、昔の漁師がそう呼んどったんじゃ。今はそっちを地名で呼ぶ者もおらんし、観音も廃れてきた」

「今でも獲れますか」

「獲れるが……」

 坂田の表情が微妙に変わった。何かを計算している表情だ。

「素人に売れるものかどうか、わからんのじゃ。アブトは小さい。幼魚じゃから、処理が難しい。出汁のために骨だけ使うにしても、技術がいる。勉はそれを心得とったが……娘さんは料理ができるか」

「……修行中です」

 奈津は正直に言った。

「修行中、か」

 坂田はやかんの湯が沸いたのを確かめ、急須に湯を注いだ。番茶の香りが立ち上る。

「勉のことを話してやろう。あいつがここへ来た時のことを。それを聞いてから、君が本当にアブトを使う覚悟があるかどうか、わしが判断する」

 奈津は真っ直ぐに坂田を見た。

「聞かせてください」


 坂田が語り始めたのは、父が初めて単独でここを訪れた時の話だった。それは奈津が東京に出た翌年の春のことだという。

 父は連絡もなしに突然やってきた。軽トラックで来て、港に車を停め、坂田の小屋まで歩いてきた。手に持っていたのは一升瓶と、紙袋に入った尾道の菓子だった。

「『坂田さん、アブトを売ってくれ』って言いよった。わしは最初、断った。あんな小さい魚を食堂で使ってどうするんじゃ、って思ってな。大量には獲れんし、扱いが難しい。商売にはならんじゃろうって」

 しかし父は引かなかった。坂田の小屋に座り込み、一升瓶を開け、「話だけでも聞いてくれ」と言い張った。そして自分が出汁にかける考えを、三時間にわたって語り続けた。

「勉がいうには、昆布と鰹だけでは出ない『瀬戸内の深み』がある、と。あの複雑な水道と潮流の中で育った魚の骨には、他所の出汁材料では絶対に出ない旨味成分が溶け込んどる、って。そのためには白身で身が小さく、骨の密度が高いアブトが最適じゃ、と言いよった」

 坂田は湯呑みを両手で包んで、遠くを見るような目をした。

「わしは半信半疑じゃったが、一つだけ貸してやった。実際に使ってみろ、と。そしたら三日後にまた来よった。今度は空瓶を持って、代わりに椀を一つ持ってきた。その椀に出汁が入っとった。わしに飲んでみろ、と」

 坂田は静かに笑った。

「飲んだ。……驚いたな。あんな出汁は飲んだことがなかった。瀬戸内の水そのものが凝縮されたような、複雑で、しかしどこまでも澄んだ味がした。磯臭くない。臭みが一切ない。骨から引いたとは思えんほど上品な甘みがあって、飲み終わった後、喉の奥がほんのりと温かい。あれは、本物の出汁じゃった」

 奈津は声を出さずに頷いた。

「それから勉とわしの付き合いが始まった。毎月一度、季節ごとに獲れるアブトをわしが締めて冷蔵で送った。値段は安くしてやった。あいつが変な高値を付けずに、地域の普通の人間に食わせる店をやっとることを、わしはええ仕事じゃと思っとったから」

 坂田は奈津に視線を戻した。

「去年の夏に入院したと聞いた。秋に一度、電話がかかってきて、『今年の分はもう仕入れられんかもしれん』と言いよった。わしは『来年の春にまた送ってやる』と答えた。……冬に、訃報が届いた。嫁さんから。そういう流れじゃった」

 二人の間に、しばらく沈黙が流れた。

 港の外で、波が桟橋の支柱に当たる音がした。規則的な、繰り返す音だ。

「お父さんは、私のことを何か言っていましたか」

 奈津は静かに問うた。

 坂田はしばらく考えてから、答えた。

「娘は東京で絵を描く仕事をしとると言っとった。美しいものを作る仕事じゃ、って誇らしそうに言いよった。でも、ちょっと寂しそうな顔もしとったな。あいつは不器用な男じゃったから、寂しいとは言わんかったが」

 奈津は目を伏せた。

 父が寂しそうな顔をしていた。奈津が東京に行ってから、父は一度も「帰ってこい」とは言わなかった。仕事の話を聞いて、「お前は上手くやっとる」と褒めた。誇りに思うと言った。ただ、電話を切る前にいつも、一拍置いてから「体に気をつけろ」と言った。その一拍の間に、言えなかった言葉がどれほどあったか。

「私、店を続けようと思っています。父の店を」

 奈津の声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。

 坂田は奈津をじっと見た。

「一人でか」

「はい」

「料理は、どこまでできる」

「まだまだです。でも、覚えます」

「アブトの処理は、普通の穴子より難しいぞ。骨を炙るにも、焦がしたら出汁が苦くなる。温度と時間の管理が要る。それを覚えるのに、わしの孫は半年かかった」

「覚えます」

 坂田は鼻から小さく息を吐いた。それから、奈津のノートに視線を移した。

「そのノートを見せてもらえるか」

 奈津は静かに藍色のノートを差し出した。坂田の太く短い指が、丁寧にページを繰った。父の文字を読む老漁師の横顔に、込み上げるものを堪えるように、奈津は固く口を結んだ。

 ページを繰る音だけが、小屋の中に響いた。

「勉のやつ……こんなに書いとったんか」

 坂田の声が、かすかに震えた。

 老人は気恥ずかしそうに鼻を一つすすり、ノートを奈津に返した。

「……わかった。売ってやる。ただし条件がある」

「なんでしょうか」

「まず、実際に調理を覚えること。勉が覚えたように、自分の手で覚えること。そして、店を開けたら、わしの孫に一度飲ませてやること。あの子は漁師になると言っとるが、自分の獲った魚がどんな出汁になるか、まだ知らんから」

 奈津は深く頭を下げた。

「ありがとうございます。必ず」


パート2 坂田の孫と、海


 翌朝、坂田の孫が奈津の前に現れた。

 名前は坂田蓮、十九歳。高校を卒業したばかりで、今は祖父の漁を手伝いながら独り立ちの機会を窺っている。身長は百七十五センチほどあり、祖父同様に肩幅が広い。ただ、祖父の重厚な存在感とは異なり、蓮はどこかまだ定まりきれていない若さを全身に纏っていた。うまく自分の居場所を掴みかねているような、あの、二十歳前後の男特有のぎこちなさがある。

「おはようございます。白川さんですよね」

 蓮は奈津の顔を確認してから言った。少し間の抜けた敬語だが、悪意はない。

「白川奈津です。昨日、坂田さんに」

「聞きました。じいちゃんから、船に乗るか? って」

 奈津は目を丸くした。

「船に?」

「アブトがどこで獲れるか、実際に見てみますか? ってじいちゃんが。朝の引き潮の時間に出ると、ちょうど糸崎沖の瀬がよく見えるって。来ます?」

 奈津はノートを胸に押さえ、即座に答えた。

「行きます」


 船に乗ったのは、生まれて三度目だった。

 一度目は幼稚園の遠足でフェリーに乗った時。二度目は友人の結婚式で横浜港の船上パーティーに参加した時。どちらもデッキから遠くを眺めるだけで、海の上で実際に漁が行われる現場を目にしたことはなかった。

 坂田の船は十二フィートのFRP製の小型漁船で、エンジンは四十馬力の船外機だ。甲板に二人分のスペースを確保し、発泡スチロールの箱と延縄はえなわの道具が積まれている。坂田は今日は陸に残り、蓮が操船して沖合に連れて行くという。

「揺れますよ」と蓮は言った。「でも吐きそうになったら海側に向いてください。内側は後始末が大変なんで」

 奈津は笑いそうになったが、黙って頷いた。


 船は桟橋を離れ、港の入り口へと向かった。梅雨の空は相変わらず低く垂れ込めているが、雨はまだ降っていない。岸壁の消波ブロックを過ぎると、急に海の色が変わった。港の内側の濁った灰色から、外海の深い鉛青色へ。波も大きくなった。船体が左右に揺れ、奈津は反射的に舷側のロープを掴んだ。

「怖くないですか?」蓮が振り返らずに聞いた。

「……少し」

「じゃあ、それが正直なところですね」蓮はスロットルを上げた。「海を怖がらない人間は、海を舐めてる人間だって、じいちゃんが言うんです。ちょうどよく怖がってる人間は、海に敬意を持ってる人間だ、って」


 船は沖合に向けて加速した。波が弓なりになった船底を叩き、飛沫が舞う。奈津は目を細め、正面を見つめた。瀬戸内海の沖合は、陸から見るよりはるかに広い。大小の島々がそこかしこに点在しているが、この方向には島がなく、水平線がぼんやりと霞んでいる。

「あそこです」

 蓮がエンジンを絞り、船速を落とした。前方に、海面から少しだけ顔を出した岩礁があった。潮が引いているために見えているが、満潮時には水没する。岩の周囲に、白い水泡が立っていた。底潮がぶつかって巻き上がっているのだ。

「この岩の下に、複雑な地形があって、潮流がぶつかる場所があるんです。そこで小魚が育つ。アブトもそこにいる」

 蓮は船のエンジンを切り、アンカーを降ろした。静寂が戻る。波音と風音だけになった。

「なんで、こんな場所だけに育つんですか」

 奈津が問うと、蓮はしばらく考えてから答えた。

「わからないですよ、俺には。じいちゃんも詳しくは言わない。でも、潮流がぶつかると、底の泥が巻き上がって、プランクトンが豊富になるんだと思います。それを食べて育った小魚は、身に旨味が溜まる。特にアブトは骨が細くて密度が高いから、そこに旨味成分が凝縮される」

「骨に旨味が」

「じいちゃんが言うには、白川さんのお父さんは、最初に来た時にそれをわかっていたんだって。見ただけで、この魚の骨に特別な旨味があるって言った。どうしてわかったのかは謎だけど、じいちゃんは『あいつは魚を見る目が、料理人じゃなくて漁師の目だった』って言ってた」


 奈津は海を見つめた。

 父が見ていた海。父が目で魚を読んだ場所。その同じ海の上に今、自分が座っている。

「……蓮くんは、漁師になるんですか」

「そのつもりで。でも、この辺の若い人間は、どんどん漁師をやめていくんです。跡継ぎがいない家がほとんどで、じいちゃんの仲間たちもそれを心配している。俺がちゃんと続けられるかどうか、俺自身もまだわからない」

「じゃあ、なぜ続けようとしているんですか」

 蓮はしばらく沈黙した。

「じいちゃんが、この場所を知っているから、だと思います。この岩礁のことも、このあたりの潮流の変化も、季節ごとにどこでどんな魚が育つかも、全部頭の中に入っている。それを俺が引き継がなかったら、消えてしまう。地図には残らないし、本にも書いていない。じいちゃんの頭の中にしかない、この海の地図が」


 奈津の胸に、ノートの重さが蘇った。

 父が遺したノートも、そういうものだ。料理のレシピではなく、場所の記憶だ。誰かと出会った記憶。その出会いの積み重ねが、出汁の深みを作っていた。

「私、父のノートを引き継ごうとしているのかもしれません。同じことですね、私たち」

 蓮は少し驚いたように奈津を見た。それから、不器用に微笑んだ。

「じいちゃんが、手伝えって言うんなら、手伝いますよ。お父さんにお世話になってたみたいだし」

 波が岩礁に当たって、白く砕けた。


パート3 鞆の浦の窯


 糸崎での三日間が終わり、奈津は次の目的地に向かった。

 父のノートには、「鞆。清水の器。備前ではなく、鞆の窯。清水源兵衛。」とある。

清水源兵衛。鞆の浦の陶芸家。父がなぜ尾道の食堂のために、鞆の浦まで器を仕入れに行ったのか。備前焼の産地は岡山の伊部で、鞆の浦は備前とは別の伝統を持つ地域だ。父のこだわりは、奈津には最初、理解できなかった。


 しかし、バスで鞆の浦に入った瞬間から、奈津は父の気持ちが少しわかるような気がした。

 鞆の浦は、江戸時代から変わらない港町の面影を今に残している。国の重要伝統的建造物群保存地区にも選定されたその街並みは、細い路地と古い商家が密に集積し、どこを切り取っても「江戸の残り香」が漂っている。港には江戸時代の常夜燈が今もそのまま立ち、波止場の石畳は何百年もの足音を吸い込んで黒ずんでいた。

 奈津は路地を歩いた。

 観光客が写真を撮りながら歩く細い道を、奈津はノートを手に進んだ。源兵衛の窯は、港から少し離れた山側にあると、バスの運転手に教えてもらっていた。急な坂道を上り、古い石垣の脇を抜け、竹林の手前に看板を見つけた。手書きの文字で「清水窯」とだけ書かれている。

 小道をさらに進むと、煙突が見えた。薪窯の細長い煙突が、竹林の緑の中に突き出ている。煙は出ていないが、周囲の空気にかすかに灰と土の匂いが混じっていた。


 庭先に、男が一人いた。

 六十代前後、小柄で痩せており、土色の作業着を着ている。庭に並べた素焼きの器を一つ一つ手に取り、何かを確認していた。器を持つ手が、ひどく慎重だった。まるで生き物を扱うように。

「清水さんですか」

 男が振り向いた。目が細く、光が強い。職人の目だ。

「そうですが」

「白川奈津と申します。父・勉が以前、お世話になっていたかと思いまして」

 男は奈津を見た。値踏みでも、敵意でもない。ただ、正確に見ている。

「白川さんのお嬢さんか。来ると思っとった」

「来ると?」

「勉さんが入院する前に、一度電話をくれてな。娘が東京にいるが、いつかこちらに来るかもしれない、その時はよろしく頼む、と。……まあ、こんなに早く来るとは思っとらんかったが」

 奈津は返す言葉を探したが、見つからなかった。

「中に入れ。器を見せよう」


 清水源兵衛の窯の中は、思ったより広かった。

 土間に登り窯の口が開いており、その前に大きなスペースがある。棚には無数の器が並んでいた。鉢、皿、湯呑み、徳利、椀。すべて自然釉の焼き締めで、備前焼に近いが微妙に質感が異なる。備前の器が赤褐色を基調とするのに対し、清水の器は全体に深い灰色を帯び、釉薬が流れた跡がそのまま模様になっていた。

「鞆焼という名では出しておらん。鞆の浦の窯の焼き物、それだけじゃ」

 清水は棚から一枚の皿を取り、奈津に手渡した。直径二十センチほどの平皿で、表面に自然釉が斑に流れた跡がある。重さは予想より軽く、しかし確かな密度があった。

「持ってみてください、こっちも」

 清水は別の皿を奈津の手に乗せた。今度は少し重い。

「この重さの違い、わかるか」

「はい。……後のほうが少し重いです」

「同じ寸法で、同じ土じゃ。違うのは焼き時間と、窯の中の位置だけじゃ」

「窯の中の場所で、重さが変わるんですか」

「変わる。土の中の水分が飛ぶ量が違う。火が強く当たった器は、土の内部の構造が変化する。それが重さになって出る。人間と同じじゃ。どこで何を受けたかが、器の密度になる」


 奈津は手の中の器を見つめた。

 父は、なぜ備前ではなくここの器を選んだのか。奈津はそれを聞こうとしたが、清水が先に言った。

「勉さんがここに来たのは、もう十五年ほど前のことじゃ。最初に来た時、棚の器を一つ一つ手に取って、ずいぶん長い時間を使った。端から見ていて、この器が欲しいと言った」

 清水は棚から一つの椀を取り出した。

 それは、奈津がこれまで見た器の中で、最も地味な器だった。装飾がなく、色も渋く、形も特別凝ったものではない。しかし、手に受けた瞬間に何かが伝わってくる。土の温もりとでも言うべき何かが、手のひらから腕へと静かに流れてくるような感触だった。

「……なんですか、これは」

「焼き損ないじゃよ」

 清水は静かに言った。

「窯の温度が均一でなかった時に焼かれた器で、本来は商品にならない。釉薬の乗り方が均一でなく、色むらがある。しかし勉さんはこれを見て、『この器に、自分の出汁を入れたい』と言った。色むらが、瀬戸内の海の色みたいじゃ、と」


 奈津の手の中で、椀の表面の色の揺らぎが見えた。確かに、場所によって微妙に色が違う。均一ではない。しかしその不均一さが、窯の熱という偶然が生んだ自然の模様を作っていた。

「わしはそれ以来、勉さんの出汁椀を作り続けた。同じ土、同じ釉薬、しかし毎回微妙に違う。窯の中の偶然が、毎回違う一枚を生む。そういう椀じゃ」

「それが、父の器だったんですね」

「そうじゃ。勉さんは毎年、三月に来て、その年の新しい椀を選んでいった。……去年は来なかった。病院から連絡をもらって、初めて知った」

 清水は棚をそっと見た。

「今年分も焼いてある。誰かが受け取ってくれるのを待っとった」

 奈津は胸が詰まった。

 言葉は出なかった。ただ、手の中の椀を、大切そうに両手で包み込んだ。

「引き取らせてください。全部」

 清水は静かに頷いた。

「わかった。勉さんの器じゃ。娘さんに渡すのが一番じゃ」


パート4 長船の刃


 鞆の浦から備前の国へと向かう列車の中で、奈津は窓の外を流れる風景を眺めていた。

 曇り空の下、瀬戸内の田園地帯が続いている。水田と畑が細かく区切られ、その間を用水路が縫っている。遠くに低い山並みが霞み、その麓に小さな集落があった。どこを見ても人の手が入った風景で、しかし人の姿がほとんど見えない。耕された土、整備された水路、刈り込まれた畦の草。作業の跡だけが残り、作業した人間は見えなかった。


 父のノートには「長船。刃物。海部。」とある。

 長船は刀鍛冶の産地として知られている。鎌倉から室町時代にかけて日本刀の名産地として栄えた地で、現在も備前長船の刃物は全国的な評価を受けている。その地の「海部」という刃物職人を、父は訪ねていた。

 奈津が長船に到着したのは、午後の早い時刻だった。

 駅から歩いて二十分ほどのところに、刃物の工場地帯がある。工場といっても大規模な工業施設ではなく、家内工業の規模の鍛冶場が点在している。煙突から白い煙が上がっている建物、金属を叩く音が漏れてくる工場。その中の一軒に、「海部刃物工房」の看板があった。


 引き戸を開けると、熱気が顔を打った。

 奥に鍛冶場があり、そこで作業が行われている。炉が赤く輝き、そこから引き出された鉄が赤橙色に輝いていた。それをハンマーで叩く音が、規則正しく、しかし単調ではなく、微妙に変化しながら続いている。叩くたびに火花が散り、鉄が変形し、形が生まれていく。

 作業していたのは四十代の男だった。

 後で聞くと、海部刃物工房の三代目、海部卓也という。痩せた体から想像できないほど腕が太く、火に晒されて赤みを帯びた顔をしている。目が鋭く、作業中は別の生き物のような集中を帯びていた。

 奈津が入ってきたのに、海部はしばらく気づかなかった。気づいた時には仕事の一区切りがついており、鉄が水槽に入れられてジュウと音を立てた後だった。

「何か御用ですか」

「白川勉の娘です。父が以前お世話になっていたと聞いて参りました」

 海部の目が変わった。警戒が消え、代わりに何か別のものが入る。

「……白川さんのお嬢さん。そうか、来てくれたのか。少し待ってください」


 作業台の前に並んで座り、お茶を飲みながら、海部は話し始めた。

「お父さんとの付き合いは、七年ほどになります。最初に来た時、柳刃包丁を一本注文されて。でも、普通の柳刃じゃなくて、アナゴの骨だけを落とすための、刃の厚みが特殊な包丁を作ってほしいと言われた」

「特殊な厚み?」

「通常の柳刃包丁は、刃が薄く、刺身を引くために作られています。でもお父さんは、小さいアナゴの幼魚──アブトと呼んでいましたが、その骨を炙る前に身を削ぎ落とす作業に使う包丁が欲しいと。小さい魚だから、刃が薄すぎると骨まで傷つける。かといって厚すぎると小回りが利かない。微妙な加減の刃が必要だった」

「それは……難しいんですか」

「難しいです。既製品にはない仕様なので、試作を何度も作りました。お父さんは毎回来て、試し切りをして、感想を細かく伝えてくれたんです。『ここの角度が一度ずれている』とか、『刃渡りをあと五ミリ短く』とか。料理人でありながら、刃物の構造を深く理解している方でした」


 海部は棚から一本の包丁を取り出した。

「これが、最終的に完成したものの写しです。お父さん用の本品は、もうお手元にあるはずですが」

「……はい、ありました。父の道具の中に」

 包丁を受け取った。柄はほうの木で、磨り減って手の形に合わせた凹みができている。刃はグレーに輝き、鏡面ではなく、微かに曇りがあった。その曇りが、鋼の層の重なりを示している。

「この包丁で切ると、魚の骨へのダメージが最小限になります。骨の構造を壊さずに身だけを取り除けるから、出汁を引いた時に骨の中心部から純粋な旨味成分が溶け出してくる。骨を傷つけると、血の味が混じって濁った出汁になる。だから包丁の精度が、出汁の味に直結するんです」

 奈津は包丁を持つ手を、ゆっくりと動かした。

「父は、ここまで考えていたんですね」

「ええ。それだけじゃないです」と海部は続けた。「お父さんは、うちに来るたびに作業を長い時間見ていました。炉の前に立って、鉄が叩かれる工程を。ある時、理由を聞いたら、こう言いました。『出汁を引く仕事と、刃物を打つ仕事は同じだ。どちらも、素材の中にあるものを外に引き出す仕事だ。鉄の中に眠っている刃を引き出すのが職人なら、魚の骨の中に眠っている旨味を引き出すのが料理人だ』と」


 奈津は目を閉じた。

 父の声で、その言葉が聞こえたような気がした。

「その言葉を聞いて、わしの仕事の見方が変わりました。刃物を作るのは武器ではなく、素材から何かを引き出すための道具を作ることだ、と。そう思い始めてから、包丁の作り方が少し変わった気がします」

「父が、あなたの仕事を変えたんですね」

「少しだけ。こちらこそ、感謝しています」


 海部の工房を出た後、奈津は一人で長船の街を歩いた。

 日が傾き始め、田んぼの向こうの低い山並みが橙色に染まり始めていた。水田の水面がその色を反射して、田園地帯が一枚の光の画布に変わる。

 父が訪れた場所を、自分が今また訪れている。その軌跡を辿ることで、父が何を考え、何を作ろうとしていたかが少しずつ見えてくる。料理のレシピを引き継ぐのではない。父が出汁に込めた思想を引き継ぐことが、本当の意味でのノートの読み方なのだ。

 奈津はノートを開き、次のページに目を向けた。

「笠岡。藍。備後。」

 笠岡の藍染め職人。父の出汁と、藍染め。その繋がりが、奈津にはまだ見えなかった。


パート5 笠岡の藍、尾道への帰路


 笠岡は岡山県の南西端、広島県との県境近くに位置する小都市だ。

 かつては干拓地として知られ、その地の土が特別な性質を持つことから、古くから藍染めの産地として栄えた。現在も少数の職人が伝統の藍染めを続けており、その中に父のノートに名前のある「桑原」という人物がいた。

 笠岡駅で降りた奈津を待っていたのは、予想以上に静かな街だった。

 観光客の姿はほとんどなく、商店街も半分ほどシャッターが閉まっている。しかし、細い路地に入ると、干された染め布の鮮やかな藍色が、くすんだ街並みの中で突然現れた。それは息を呑むほど鮮烈な色だった。


 桑原染物工房は、路地の奥にあった。

 築百年は経っているだろう木造の建物の前に、濡れた藍染めの布が数枚干されている。その布が風に揺れるたびに、藍の香りが──植物と土と海が混じったような複雑な匂いが、奈津の鼻に届いた。

「いらっしゃいますか」

 声をかけると、奥から「はあい」という声がした。

 現れたのは七十代の女性だった。桑原八重子、この工房の主だという。白髪を後ろで束ね、紺色の割烹着を着ている。割烹着の袖と前掛けに、拭っても落ちない藍の染みがついていた。

「白川勉さんのお嬢さんですか。来てくれると思っとりましたよ」

 桑原は奈津を見て、すぐにそう言った。

「なぜわかるんですか。私、電話もしていなかったのに」

「なんとなく。顔が似てますよ、お父さんに。目元が」

 奈津は自分の目元を意識した。鏡で父の写真と見比べたことがなかったが、そう言われると、どこかに父の輪郭があるような気がした。

「お父さんとのお付き合いは、もう十年以上になるかな。ここの暖簾のれんの布を作ったんです。しらかわ食堂の」

「暖簾を?」

「ええ。あの深い藍色の暖簾。お父さんが、店に藍染めの暖簾を掲げたいと言って、ここまで来てくださって。でも、ただの暖簾じゃなくて、食堂の暖簾にふさわしい色を、一から染めてほしいと言って」

「食堂の暖簾にふさわしい色、ですか」


 桑原は工房の奥へと奈津を案内しながら、話し続けた。

 工房の中には、大きな藍甕あいがめがいくつか並んでいた。甕の中に、発酵した藍液が満たされている。その液体は深い紺色で、表面に泡が立っていた。発酵しているのだ。藍の葉を発酵させることで色素が生まれ、その液体に布を繰り返し浸けて染め上げる。一度では薄い色しか出ない。何十回と浸けては絞り、乾かし、また浸けることで、少しずつ深い色が積み重なっていく。

「お父さんが言ったのはね、『瀬戸内の海の色を作ってほしい』ということでした。それも、朝の海の色でも昼の海の色でもなく、夕方の、日が傾きかけて、まだ暗くなりきっていない、一番複雑な色の時間の海の色が欲しいと」

「……それは難しかったですか」

「難しかったですよ。藍染めは青の一色だと思われていますが、実は染め方によって無数の青があります。浅い空色から、深い群青まで。お父さんが欲しかった色は、その中間の、複雑なところにある色でした」


 桑原は棚から一枚の布を取り出した。

 それが、奈津がずっと見てきた、あの暖簾の端切れだった。

 深い藍色。しかし単純な紺ではない。見る角度によって、少しずつ色が変わる。光の当たり具合で、青みが強くなったり、緑寄りになったり、紫を帯びたりする。それは確かに、夕暮れ前の瀬戸内の海の色だった。

「何回、染めたんですか」

「三十八回。一枚の暖簾を作るのに、三ヶ月かかりました。お父さんは三ヶ月待ってくれました。完成した時、試しに玄関に掛けてみたら、お父さんは長い時間、その前に立っていました。それから一言、『この色の下に立って出汁を引けば、間違いのないものが作れる』と言いました」


 奈津の胸の奥が、静かに震えた。

 父は道具を選ぶ時も、器を選ぶ時も、暖簾の色を選ぶ時も、すべてにおいて自分の出汁のことを考えていた。その出汁一杯の背後に、どれほどの人との出会いと選択が積み重なっていたか。奈津はそれを、今初めて知った。

「その暖簾は、今でも店に掛かっていますか」

「はい。私が閉めた後も、そのままにしてあります」

「そうですか。それなら、その暖簾が引き継いでくれていますね」

 桑原は奈津の手を取り、藍染めの端切れを手渡した。

「これを持っていきなさい。新しい暖簾を作る時が来たら、またここへ来てください。同じ色を、また三十八回染めて作りますから」

 奈津は布を受け取り、深く頭を下げた。


 笠岡から尾道へ戻る列車に乗ったのは、夕方だった。

 山陽本線の普通列車。黄色い車体に乗り込んだ奈津は、窓際の席に腰を下ろし、流れていく車窓を眺めた。

 日が傾き、瀬戸内の海が金色に変わり始めていた。水平線近くの雲が橙色に染まり、その色が海面に反射して、列車の窓ガラスを通してでも、息を呑むほど美しい光のグラデーションが見えた。青から金、金から橙、橙から深い緋色へ。それはちょうど、桑原の工房で見た藍染めの布とは正反対の色の組み合わせだったが、どちらも「瀬戸内の複雑な美しさ」を表しているように思えた。


 奈津はノートを膝の上に置き、今日見てきたものを思い返した。

 坂田老人と孫の蓮。海の中の地図を持つ漁師と、その地図を引き継ごうとしている若者。清水源兵衛の窯と、焼き損ないの椀の中にある、偶然が生んだ美しさ。海部卓也の包丁と、「素材の中にあるものを引き出す」という思想。桑原八重子の藍甕と、三十八回染めた暖簾の深い色。

 これらすべてが、父の出汁の背後にあった。

 一杯の出汁の中に、これほどの人間の時間と技術と思思想が溶け込んでいるとは、奈津は思っていなかった。東京でデザインの仕事をしていた時、クライアントから「なぜこのデザインでなければならないのか」と問われるたびに、奈津は言葉が出なかった。美しいから、という答え以上のものを持っていなかった。


 しかし父の仕事は違った。

 なぜこの器か。なぜこの包丁か。なぜこの暖簾の色か。すべてに、明確な理由があった。その理由は、レシピ本には書かれていない。産地に行き、作る人間と会い、その手の仕事を見て、初めてわかるものだった。

 奈津は窓を少し開けた。

 梅雨の終わりを予感させる風が、海の匂いを運んでくる。塩と、潮と、どこか生き物の匂いが混じった、瀬戸内の風だ。その風の中に、アブトの出汁の香りを奈津は想像した。まだ引いたことのない出汁。しかしすでに、その構成要素を自分の手で確かめた。坂田の海、清水の土、海部の鋼、桑原の藍。

「次は、自分で引く番だ」

 奈津は口の中で小さく呟いた。


 列車はトンネルに入り、車内が暗くなった。トンネルの中で、奈津は窓に自分の顔が映るのを見た。少し前まで、東京のオフィスビルのガラスに映る自分の顔は、常に疲れていた。締め切りと数字と他人の要求に追い回された顔をしていた。今の顔は、疲れてはいる。しかし、別の種類の疲れだ。自分で選んで動いた結果の疲れだった。

 トンネルを抜けると、外の景色が戻った。

 列車は山陽本線を西へと走っている。次の停車駅のアナウンスが流れた。

「次は、尾道、尾道です……」

 その声を聞いた瞬間、奈津は心臓が微かに跳ねるのを感じた。あの声だ、と思った。先週の雨の日に、発車ベルが鳴り終わりかけていたホームで「乗られますか」と言った、あの車掌の声だ。


 奈津は通路を歩き、最後尾の車掌室に近い位置に移動した。小窓から中が見える。

 紺色の制服を着た男が、運行表に目を落としている。白手袋の手が、緩やかな所作で操作を行っていた。

 列車がホームに入り、速度を落とす。

 車掌が小窓から身を出して、ホームを確認した。その横顔が見えた。三十代後半から四十代初め。彫りの深い、感情をあまり表に出さない顔つき。しかし今、ホームを確認するその目は、冷淡ではない。何かを確かめるような、静かな注意深さがあった。

 列車が停まった。扉が開いた。

 奈津は乗降口から降りながら、車掌に声をかけた。

「この前は、ありがとうございました。アブトのこと、教えてくれて」

 車掌は一瞬、目を上げた。奈津の顔を見て、わずかに表情が変わった。

「……見つかりましたか」

「見つかりました。糸崎の坂田さんという漁師の方に」

「そうですか」

 車掌は静かに言った。何か言いかけて、しかし言わなかった。

「また乗ります」

 奈津がそう言うと、車掌はほんのわずかに頷いた。

 扉が閉まった。列車が動き始める。

 奈津はホームに立ち、動き出した黄色い車体を見送った。

 あの男の名前を、まだ知らない。しかし、あの声と目が、確かにこの旅の途中で自分を助けてくれた。それだけで十分だと奈津は思った。


 ホームに一人残り、海の匂いのする風を受けながら、奈津は藍色のノートを胸に抱いた。

 父が辿った道を、今日一日かけて少しだけ歩いた。まだ道の途中だ。しかし足の下に、確かに道がある感触があった。

「お父さん、私、やれそうな気がしてきた」

 誰に聞かせるでもない言葉が、梅雨の終わりの風に溶けていった。


パート6 渉、車窓の向こうに


 篠崎渉は、その夜の折り返し乗務で、三原から下関へと向かっていた。

 夕方の列車は、通勤客と帰宅する学生で混んでいた。渉は最後部の車掌室から車内の状況を把握しながら、自動的な手順で乗務をこなしていた。白手袋の手でドアを操作し、マイクを握り、運行表を確認する。それは長年変わらない動作だった。


 しかし、その日の渉の胸の中では、何かが変わっていた。

 奈津が「見つかりました」と言った時の表情。あの顔には、何かを突破してきた人間の顔があった。探し続けたものを見つけた安堵ではなく、自分が動いた結果として何かを掴んだ人間の、疲れていて、しかし確かな充実がある顔だった。

 渉には、その表情の意味がわかった。

 自分も長い間、それを失っていたからだ。

 動くこと。自分の足で、自分の判断で、何かを変えること。有紀が去ってから、渉は動かなくなった。列車を動かすことはできた。しかし自分自身を動かすことを、いつしかやめていた。ダイヤという決まりきった軌道の上を、決まりきった速度で走ることだけが、渉の世界だった。


 尾道駅を過ぎ、糸崎を過ぎ、三原に差し掛かった頃、渉は車掌室の小窓から外を見た。

日がすっかり落ち、瀬戸内の夜が始まっていた。海は見えなくなっているが、島々の灯りが点々と水面に映っている。遠くで、貨物船の灯りが動いていた。この暗い海の下に、坂田が三十年かけて覚えた潮流があり、アブトが育っているのかもしれない。

 渉はその想像を、無意識に行っている自分に気づいた。

 他人のことを想像すること。その人間の見ている海を、自分の想像の中に持ち込むこと。 それはかつての渉には存在しなかった行動だ。乗客の私生活を想像したことなど、ここ十年で一度もなかった。


 有紀は言っていた。「あなたはいつも、私を通り抜けて、もっと遠くの何かを見てる」と。

 しかし今、渉は遠くを見ていない。窓の外の暗い海の中に、見えない誰かの生活を想像している。

 それは、防壁の外に出ることだった。

 渉はその変化を、恐ろしいとは思わなかった。ただ、不思議だと思った。あのノートを持った女性と三度言葉を交わしただけで、十年かけて積み上げた防壁の石が、少しずつ動き始めている。


 列車が糸崎駅に停車した。

 ホームの端の花壇が、夜の投光器に照らされていた。松本さんは今日もここに来て、水をやったのだろう。サルビアの赤が、夜の光の中でも確かに見えた。

 渉はその花を見ながら、松本さんの言葉を思い出した。

「続けることでしか、残らんものがあるんですよ、篠崎さん」

 坂田が孫の蓮に引き継ごうとしている海の地図も、桑原が三十八回染める藍の色も、海部が父から受け継いだ刃の打ち方も、父が娘に遺したノートも、すべてが「続けることでしか残らないもの」だった。


 別れ、自分も、この鉄路を走ることを十三年続けてきた。

 渉はその事実を、今まで「ただ続けてきた」としか思っていなかった。しかし、本当にただ続けてきただけだったのだろうか。十三年間、何百万人という人間を安全に運んできた。その中の誰かが、何かを変えた。どこかへ向かうために、この列車に乗った。その移動の重さを、渉はいつも軽く見ていた。

 移動は、人の人生を変える。

 奈津がこの列車に乗ったことで、出汁の旅が始まった。父の足跡を辿る旅が始まった。それはあの日、渉が四十秒遅らせた扉から始まったのかもしれない。

 渉は白手袋の手を、ゆっくりとドアのバランサーの上に置いた。

 この手が動かすドアが、誰かの旅の始まりになる。その事実を、渉はもう忘れないだろうと思った。


 下関に到着したのは、午後九時を過ぎた頃だった。

 乗務を終えた渉は、詰所で制服を着替え、駅の外へと出た。夜の下関の空気は、海の塩気を帯びて冷たかった。関門海峡の向こう、九州の灯りが低い位置に散らばっている。

 渉はいつも通りアパートへの帰り道を歩きながら、コンビニの前で立ち止まった。

 いつもはここで弁当を買って帰る。しかしその夜、渉はコンビニには入らなかった。そのまま歩き続け、スーパーマーケットに向かった。

 昆布を買った。乾燥した利尻昆布、小さなパック入りの。それから、特に必要というわけでもないが、塩と、日本酒を一本。


 アパートに帰り、台所に立った。

 奈津が父の出汁の素材を求めて、坂田の海に行き、清水の窯に行き、海部の鍛冶場に行き、桑原の染物工房に行った。その旅の詳細を、渉は知っているわけではなかった。しかしあのノートに書かれた地名と食材の名前を思い出しながら、渉はごく小さな、自分なりの「引き出す作業」をしてみようと思った。

 鍋に水を張り、昆布を一枚、沈めた。

 弱火で、ゆっくりと加熱する。昆布が水分を吸い、ゆっくりと広がっていく。水の色が、わずかに変わっていく。温度が上がるにつれ、台所に香りが立ち始めた。


 あの香りだ。

 有紀が作っていた出汁の香りが、記憶の中から動き出した。台所に立つ有紀の横顔、出汁が引けた時の嬉しそうな顔、「美味しい?」と聞く声。渉はそれに「美味しいよ」と答えて、それ以上は何も言わなかった。

 今なら言えることが、たくさんある。

 この香りの、どこが好きか。この温かさが、なぜ身体の奥まで届くような気がするか。この一口が、なぜ一日の疲れを洗い流すような感覚をもたらすか。言葉にできなかったことが、今ならば言葉に近いものになっている気がする。

 しかし有紀はいない。


 渉は昆布を引き上げ、澄んだ出汁を一口、湯呑みに注いで飲んだ。

 何の変哲もない昆布出汁だ。奈津の父が作っていたであろうアブトの出汁とは、比べ物にならない。しかしこの一口には、渉が初めて自分の手で「引き出した」何かが確かにある。

 台所の窓の外に、下関の夜景が見えた。関門海峡の向こうの灯りが、黒い水面に揺れている。その揺れる光を見ながら、渉は思った。

 自分はこれからどこへ向かうのだろう。

 旧来、十三年間走ってきた鉄路の上で、渉はいつも「目的地」ではなく「現在地」だけを見てきた。次の停車駅、次の発車時刻、次のダイヤ。過去と未来ではなく、今この瞬間の正確さだけを追い求めてきた。


 しかし今夜、渉は初めて、少し先の未来を想像した。

 あの女性が、父の遺したノートを手に、いつかまたこの路線に乗る。その時、自分は何かを「言える」だろうか。有紀に言えなかったことを、別の誰かに向けて、言葉にできるだろうか。

 渉は湯呑みを洗い、台所の電気を消した。

 窓の外の関門海峡の灯りが、昆布出汁の余韻のように、静かに揺れていた。


   第三章 鉄路が運ぶ産地

   ──備前・三原・尾道の試作──


パート1 伊部の朝、土の呼吸


 七月の最初の週、梅雨前線が一時的に北上し、瀬戸内地方に束の間の晴れ間が戻ってきた。

 白川奈津が宇野線の終点、茶屋町で乗り換え、赤穂線に揺られて伊部いんべ駅に降り立ったのは、午前九時を少し過ぎた頃だった。

 ホームに降りた瞬間、最初に感じたのは光の質の違いだった。

 尾道の光は、海と山が挟み込む地形のせいで、どこか柔らかく拡散している。しかし伊部の光は直截だった。内陸の丘陵地帯に位置するこの街に降り注ぐ朝の陽光は、影を鋭く切り取り、地面に焼き付けた。赤茶けた土の地面に落ちる自分の影が、黒くくっきりと縁取られている。空は抜けるような青で、雲一つない。梅雨の合間の、緊張感を持った晴れだった。


 改札を出ると、目の前に備前焼の街が広がっていた。

 駅の正面から続くメインストリートの両脇に、ギャラリーと窯元の建物が並んでいる。どの建物も外壁に備前焼のタイルや器が嵌め込まれており、この街が焼き物とともに生きてきたことを全身で主張していた。軒先に吊り下げられた風鈴が、乾いた夏の風に揺れ、澄んだ高い音を立てている。その音が路地の奥まで届き、また返ってくる。

奈津はノートを開いた。

「伊部。森本。火襷。」

 森本という陶芸家。鞆の浦の清水源兵衛が作った椀が「焼き損ない」の美しさを持つものだったのに対し、父のノートに「火襷ひだすき」とだけ記されたこの名前は、また別の何かを示しているように思えた。


 火襷とは、備前焼の代表的な文様の一つだ。焼成前に藁を器に巻き付け、そのまま窯に入れると、焼成中に藁の灰と器の鉄分が反応して、器の表面に赤から橙、時に濃い緋色に至るグラデーションの筋が現れる。それが火襷と呼ばれる。藁の形がそのまま火の筋として器に刻まれる、偶然と必然の交差点のような文様だ。

 奈津は路地に入り、森本窯を探した。

 地元の人に聞くと、メインストリートから少し外れた細道の奥にあると教えてくれた。観光客が多く訪れる大きな窯元ではなく、小規模な個人窯だという。道は狭く、両側に竹垣が連なり、足元は敷き詰められた砂利だった。砂利を踏む音が、静かな路地に響く。


 竹垣の向こうから、煙の匂いがした。

 木を燃やした煙ではなく、もっと複雑な匂いだ。土が焼けるときの、粘土鉱物が高熱で変質する独特の匂い。それに混じって、わずかに海藻を焦がしたような臭いもある。これが、備前焼の窯が放つ匂いなのだ、と奈津は理解した。

 竹垣の切れ目に、小さな木製の門があった。

「森本窯」とだけ書かれた木の板が、門柱に打ちつけられている。文字は書いた人間の手の力がそのまま残るような、飾りのない筆跡だった。奈津は門を開け、中に入った。


 庭は、想像より広かった。

 奥に登り窯がある。丘の斜面を利用して階段状に積み上げられた、全長十五メートルほどの大きな窯だ。煉瓦は年季で黒ずみ、焚き口のあたりは特に煤が厚く積もっている。今は火が入っておらず、窯の口は閉じられていた。しかし窯のすぐそばに立つと、内側の余熱がわずかに伝わってくるような気がした。石の温もりというより、何かが完全には醒めていない、生き物の体温に近い熱さだった。

 窯の脇に、人が一人いた。

 丸い背中、白髪交じりの短い髪、素焼きの色に近い肌。土色の作業着に、焼き物の粉が白く積もっている。五十代半ばか、六十代の初めか、判断が難しい年齢だった。男は窯の前にしゃがみ込み、なにかを確かめるように煉瓦の表面を手の甲で撫でていた。

「森本さんですか」

 男が振り返った。

 目が大きかった。顔の他の部分は特徴がないと言っていいほど地味なのに、その目だけが、見たものすべてを飲み込んでいくような深さと力を持っていた。

「ああ」

 短い返答だった。

「白川奈津と申します。父が──白川勉が、以前お世話になっていたかと思いまして」

 男は奈津を見た。しばらく黙った。それから立ち上がった。立ち上がると背が高く、百八十センチ近くある。痩せているが、骨格が大きかった。

「勉さんの娘さんか。来るとは聞いていなかった」

「連絡せずにすみません」

「いや、構わない。ちょうど窯出しを終えたところだ。来い」


 工房の中に入ると、新しく焼き上がった器が棚に並んでいた。

 まだ熱を持っているものもある。窯出しの際に、器は自重で少し歪んでいたり、予想外の釉薬の流れ方をしていたりする。それを一つ一つ手に取り、確かめる作業が続いていたようだった。

 奈津はその器の列を見た。

 どれも備前焼の標準的な焼き締めだが、その中に、明らかに他と違うものが数点混じっている。

 表面が、燃えているように見えた。

 橙と赤と深い緋色が混ざり合い、不規則な筋と斑が走っている。静止した器なのに、その表面が動いているように見える。火の痕跡がそのまま模様になった、火襷の器だ。

「これが……火襷ですか」

「そうだ」

「本物を初めて見ました」

「写真で見るのと、実物は違う」

「全然違います」

 奈津は一つの椀を手に取った。

 重さは予想通りだったが、その表面の感触が予想外だった。焼き締めの器は、全体に細かい凹凸がある。その凹凸の中に、火襷の模様が重なり、さらに微細な起伏を作っていた。目では見えない微細な起伏が、指先には確かに伝わってくる。光が当たる角度を変えると、模様の輪郭が微妙に変化した。

「父は、この器を選んでいたんですか」

「そうだ。しかし、ただ火襷を選んでいたわけじゃない」

 森本は棚から別の器を取り出した。一見して同じ火襷の椀だが、模様の密度が明らかに違う。

「火襷は、藁の量と巻き方で変わる。藁を多く使えば、筋が複雑になる。少なければシンプルになる。火の温度と時間によっても変わる。つまり、同じ器は二度と作れない」

「毎回違うんですね」

「毎回違う。勉さんはそれを、料理と同じだと言った。同じ材料で作っても、その日の温度と湿度で出汁の味は変わる。器も出汁も、二度と同じものは生まれない。だから、一回一回が真剣勝負になる」

 森本は椀を奈津に返した。

「その考え方が気に入って、何年も付き合ってきた。器は道具だが、使うたびに表情が変わる道具だ。出汁の器なら、出汁の味が器に染み込んでいく。使い込んだ器と、使い込んだ包丁と、使い込んだ厨房は、その主人の仕事の歴史そのものになる」


 奈津はその言葉を、ゆっくりと咀嚼した。

「父の器は、まだ店にあります。一度も使っていないまま、棚に並んでいます」

「早く使いなさい」

 森本は静かに、しかし明確に言った。

「器は使われるために作る。棚に置いておくためではない。勉さんの器は、出汁を入れてもらうのを待っている」


 森本の工房で午前中を過ごした後、奈津は昼過ぎに伊部を発った。

 次の目的地は、父のノートにある「三原。三原漬け。酒。」という記述だった。三原は広島県の中部に位置する城下町で、醤油と酒と漬け物で知られる。父が三原で何を仕入れていたのか、奈津にはまだわかっていなかった。

 赤穂線と山陽本線を乗り継いで三原へ向かう列車の中で、奈津は窓の外を眺めていた。

伊部から西へ向かうにつれ、景色が変わっていく。岡山の内陸の乾いた丘陵から、少しずつ海に近づき、しかしまだ海は見えない。田んぼと工場と住宅地が混在する風景が続く中に、時折、山の裾野から湧き上がる白い入道雲が見えた。梅雨が明けようとしている予感がある雲だった。


 相生駅で山陽本線に乗り換えた。

 ここからは見慣れた路線だ。上郡、有年、三石、備前福河──地名が車内アナウンスで呼ばれるたびに、奈津は車窓の景色に目を向けた。

 兵庫と岡山の県境を越えると、山が低くなり、海が近くなってくる。日生ひなせあたりで、初めて瀬戸内の島影が見えた。複数の小島が、夏の陽光を受けて輝く海の上に浮かんでいる。その光景の美しさに、奈津は思わず窓に顔を近づけた。

 これは何度見ても飽きない景色だ、と奈津は思った。

 東京に十五年住んでいた間、奈津はこういう景色をほとんど見ていなかった。ビルの谷間の空、電車の窓から見えるコンクリートの街、深夜のオフィスから見える光の点滅。それが奈津の世界の景色だった。それが当たり前だと思っていた。

 しかし今、この瀬戸内の光の中にいると、自分がいかに色を失った場所で生きていたかがわかる。

 父はここに生きていた。この光の中に。

 列車が三原駅に到着したのは、午後二時過ぎだった。


パート2 三原の醸造蔵、酒と醤油


 三原の駅を出ると、正面に三原城の石垣が見えた。

 三原城は戦国大名・小早川隆景が築いた海城で、かつては城の周囲を直接海が囲んでいた。埋め立てが進んだ現在は石垣だけが残り、その上をJRの線路が通っている。列車が天守台の上を渡っていく。日本中を探しても、城の天守台の上に線路が走っている場所は他にないだろう。

 奈津はその石垣の前に立ち、しばらく見上げた。

江戸時代から変わらない石の積み方。不規則な大小の石が、隙間なく組み合わさり、見事な曲線を描いている。一つ一つの石は荒削りで、形も大きさも揃っていない。しかしそれらが組み合わさることで、数百年の時間に耐える強固な壁ができている。それは、坂田の海の地図と、清水の窯と、海部の包丁と、桑原の藍が、父の出汁一杯を支えているのと、似た構造だ、と奈津は思った。

 バラバラに見えるものが、組み合わさることで、全体になる。


 三原の町を歩いた。

 駅前の商店街は、糸崎よりは活気があるが、鞆の浦よりは観光地化されていない。地元の人間の生活の場として機能している、程よい規模の地方都市だ。豆腐屋の前に行列ができており、八百屋には地元の農家が持ち込んだ野菜が無造作に積まれている。その野菜の種類を見て、奈津は夏が来ていることを改めて感じた。大きなキュウリ、皮の青いトマト、太いズッキーニ。

 父のノートに記された「三原漬け」の製造元を探しながら歩いた。

 地元の人に聞くと、三原漬けは三原の郷土の醤油漬けで、現在も作り続けている老舗が駅から南へ十分ほどのところにあるという。

 路地を抜けると、突然、濃厚な醤油の匂いが漂ってきた。


 その匂いは、スーパーで売られている工業生産の醤油の匂いとは全く違った。もっと複雑で、甘みがあり、どこか発酵食品特有の酸味が混じっている。その匂いを辿ると、黒ずんだ木造の土蔵が並ぶ一角に出た。

「岡本醸造」という看板があった。

 明治十二年創業、と書かれた古い木の板が、蔵の壁に打ちつけられている。

 引き戸を開けると、薄暗い土間があった。

「いらっしゃいませ」

 奥から、エプロン姿の中年女性が出てきた。

「白川勉さんのご縁の方でしょうか」

 奈津は驚いて目を丸くした。

「なぜわかるんですか」

「なんとなく……そういう方が来る予感がして。それに、勉さんに顔が似ておられる」

 鞆の浦の桑原でも同じことを言われた。奈津は自分の顔が本当に父に似ているのか、今度帰ったら写真と見比べてみようと思った。

岡本照江てるえと申します。うちは四代目の夫が主人ですが、今日は仕込みで蔵の中におりますので。どうぞ上がってください」


 土間の奥の部屋に通された。

 部屋は質素だったが、年季の入った家具が誂えたように置かれており、住み込みで生活してきた家の落ち着きがあった。壁に、古い写真が何枚か飾られている。大きな木桶の前に並ぶ男たちの写真、蔵の前での家族写真。どれも白黒で、時代を重ねてきた証拠が染み込んでいた。

「白川さんとのお付き合いは、七年になります」照江は座りながら言った。「最初に来られた時は、本当に突然でして。電話もなしに来て、蔵を見せてほしい、と」

「父らしいですね」奈津は苦笑した。

「でも、蔵に入った途端に、何か感じるものがおありだったようで。大きな木桶の前で長い時間立って、においを吸い込んで。それから、三原漬けを買って帰られました。その次の週にまた来て、今度はうちの醤油だけを分けてほしいと」

「醤油を出汁に使うんですか」

「ええ。白川さんは、仕上げの調味にうちの醤油を使いたいとおっしゃって。アブトの出汁に醤油で仕上げる汁ものを作りたいが、一般の醤油では香りが強すぎて出汁の味を消してしまう。うちの醤油は、香りが穏やかで甘みが強いから、出汁を引き立てるだけで前に出てこない、と」

 奈津は照江の言葉を書き留めた。

 父のノートには「三原漬け。酒。」とだけある。醤油については書かれていなかった。しかしここに来て初めてわかったことがある。父は醤油にもこだわっていたのだ。

「蔵を見せていただけますか」

「もちろんです」


 蔵の中に入ると、まず暗さと湿度が来た。

 外の夏の強い光と比べると、蔵の内部は深海のように暗く、気温も十度近く低い。石造りの床と分厚い土壁が、外の熱を遮断している。目が慣れてくると、巨大な木桶が何本も並んでいるのが見えた。直径二メートルはある桶が、整然と蔵の奥まで続いている。桶の縁から、醤油を仕込んだ「もろみ」が発酵していた。

 その匂いが、蔵の中に充満している。

 外で嗅いだ醤油の匂いより、さらに濃厚だ。発酵の熱が桶の中で生まれているのか、桶の周囲だけわずかに温かい。それは生き物が発する熱だ、と奈津は感じた。微生物が動き、米と大豆と塩が変容し、何かが生まれていく。その生命活動の熱が、百年以上積み重なってきた木桶の壁に染み込み、蔵の空気を作っている。

「これが、百四十年分の蔵の菌です」

 照江が言った。

「蔵の天井、壁、床、木桶。すべてにうちの菌が住んでいます。今の仕込みにも、同じ菌が使われている。代替わりしても、蔵ごと引き継いできた菌だから、この蔵でしか作れない醤油ができる」

「蔵が醸造の道具なんですね」

「そうです。だからうちは、建て替えができない。改装もできない。蔵を変えたら、菌の生態系が崩れる。新しい蔵で仕込んでも、先代と同じ醤油にはならない」


 奈津は木桶に手を触れた。

 表面は湿っており、微かに温かい。百四十年間、同じ場所に立ち、同じ菌を宿してきた桶の温もりだ。時間が凝縮されているような感触があった。

「父は、これを知っていたから選んだんですね」

「ええ。勉さんは、最初に蔵に入った時に、この桶に手を触れて、しばらく目を閉じていました。そして、『うちの店の出汁の仕上げは、この蔵で作られた醤油でないとできない』とおっしゃいました。その言葉を、今でも夫婦で覚えています」

 奈津はそのまましばらく、桶に手を当てていた。

 父の手も、ここに触れていた。同じ桶に、同じ菌が生きている。百四十年と七年と、今日。時間の層が、この桶の壁の中に重なっていた。


 三原をあとにした奈津は、夕方の山陽本線で尾道へと戻った。

 日が長い夏の七時前、空はまだ薄明るく、海の色は深い藍と薄い橙が混じり合っていた。この時間の瀬戸内が、一日の中で一番複雑な色をしている、と奈津は思った。桑原の工房で見た、三十八回染めた暖簾の色が、今まさに空と海の境界に現れている。

列車が糸崎を過ぎた。

 坂田老人がいる港が、車窓の向こうに一瞬見えた。日没前の海に漁船の灯りが揺れている。蓮が今日も沖合に出たのだろうか。あの岩礁の上に日暮れの光が当たって、アブトたちが潮流の中を動いているのだろうか。


 奈津はノートに今日の覚書を書き始めた。

 伊部──森本窯──火襷の椀──使われることで完成する。

 三原──岡本醸造──百四十年の蔵の菌──時間が凝縮された醤油。

 書きながら、奈津は気づいた。

 父が選んだものは、すべて「時間の蓄積」を持つものだ。糸崎の海が数十年かけて育てた漁師の技術。清水の窯が積み重ねてきた偶然の美しさ。海部の鍛冶場が三代にわたって磨いてきた刃の技。桑原が三十八回染めた藍の深み。岡本醸造の百四十年の菌。

どれも、一代では作れない。


 そして父のノートも、父が十年以上かけて積み重ねてきた記録だ。そのノートを奈津が今、手に持っている。この記録を受け取ったということは、父が積み重ねてきた時間を、自分が引き継ぐということだ。

 列車が尾道駅のホームに滑り込んだ。

 車内アナウンスが流れた。

「尾道、尾道です。お降りの際は──」

 その声を、奈津は今日も聞いた。

 あの車掌の声だ。今日も同じ列車に乗っていたのか、と奈津は思った。乗り換えの途中で何度もこの路線を使ったが、この時間帯には必ず同じ声のアナウンスが流れる気がした。毎日同じ路線を走り続ける男の声が、毎日この路線を移動する奈津の旅に、BGMのように寄り添っている。


 ホームに降りると、最後尾の車掌室から男が降りてきた。

 紺色の制服と白手袋。制帽の角度。周囲の状況を確かめる目の動き。奈津は思わず足を止めた。

「今日も遠くまで行かれたんですか」

 男が先に声をかけてきた。

 奈津は驚いた。こちらから声をかけるつもりだったのに。

「ええ。伊部と三原と」

「備前と三原か。ずいぶん距離がありますね」

「父のノートに書いてあったので。行ってみると、やっと父の仕事の意味がわかってきます」

 男は静かに頷いた。

「糸崎の坂田さんには、また行かれましたか」

「先週行きました。孫さんにも会って、海にも出してもらいました」

「蓮くん、いましたか。あの子は最近、早朝の便でよく乗ります。釣り道具を持って」

 奈津は、この男がこの路線を走り続ける中で、乗客の動向を自然に把握していることに気づいた。一人一人の名前を覚えているわけではないだろうが、繰り返し乗る顔を、繰り返す動作とともに記憶している。それはこの男の職業的な本能だが、同時に、一種の優しさでもあった。

「あなたのお名前を、まだ聞いていませんでした」

 奈津が言うと、男はわずかに表情を変えた。

「篠崎です。篠崎渉」

「白川奈津です」

「知っています。しらかわ食堂、ですね」

「……知ってたんですか」

「ノートに書いてあったので」

 渉は短くそう言って、ほんのわずかに表情が和らいだ。厳格な制服姿の中に、ほんの一瞬だけ、人間の顔が現れた。

 発車のベルが鳴り始めた。

「また乗ります、篠崎さん」

「お待ちしています」

 渉は制帽に手を当て、車掌室に戻っていった。

 奈津はホームに立ち、動き出す列車の最後尾を見送った。

 篠崎渉。ようやく名前を知った。この路線を毎日走り続ける男。この男の声が、自分の旅に毎日寄り添っていた。


パート3 尾道の厨房、最初の失敗


 翌朝から、奈津は試作を始めた。

 しらかわ食堂の厨房に立つのは、実質的に初めてだった。いや、正確には子供の頃に父の隣でエプロンをつけたことがあるが、それを料理と呼ぶのは違う。奈津の料理の経験は、東京の一人暮らしで身につけた、簡単な炒め物と電子レンジを駆使した時短料理が中心だった。出汁を昆布から引いたことはなく、ましてやアナゴを捌いたことは一度もなかった。


 厨房は、父が使っていた時のままだった。

 コンロは二口のガスで、火力が強い業務用だ。包丁は父が愛用していたものが数本、木製のスタンドに収まっている。その中に、海部が作った特製の包丁もあった。まな板は分厚い木製で、長年の使用で中央がわずかに凹んでいる。その凹みが、父の仕事の歴史だった。鍋は大小数種類、棚に伏せて並んでいる。

 蓮が朝一番に持ってきてくれたアブトが、発泡スチロールの箱の中で氷水に浸かっていた。十匹ほど、銀色に輝いている。十五センチほどの体長で、確かに普通のアナゴより小さい。細く、体が丸く、目が大きかった。


 奈津は父の特製包丁を手に取った。

 柄の馴染みが、自分の手の形と合っていない。これは父の手の形に合わせて作られた包丁だ。父の手は奈津より大きく、指が太かった。柄のカーブが、奈津の細い指には少しきつい。

 まず、アブトを捌くところから始めた。

 本来なら師匠について習うべき作業だ。しかし奈津には時間もなく、師匠もいない。あるのは父のノートと、インターネットで調べたアナゴの捌き方の動画だけだ。

 一匹目を手に取った。

 動かない魚体だが、触った感触は生々しい。粘液でぬめり、まな板の上でも滑る。包丁の刃を当てた瞬間、思った以上に力が必要だった。

 骨を傷つけないように、と海部が言っていた。しかし、どこまでが身でどこからが骨なのか、手の感触だけでは判別しきれない。包丁が滑り、身が不均一に切れた。

 二匹目、三匹目と続けた。少しずつ要領はつかめてきたが、海部が言っていた「骨の構造を壊さない」切り方には程遠かった。


 骨を集め、七輪の炭火で炙る工程に移った。

 炭に火をつけるのも、一苦労した。着火剤を使っても、炭がなかなか安定した火を持たない。十五分ほどかけて、ようやく安定した赤い炭ができた。

 その上に、骨を金網に並べ、炙り始めた。

「ジュ」という音がした。脂が炭に落ちた音だ。煙が上がり、香りが立ち始めた。これは確かにいい香りだ、と奈津は思った。香ばしく、海の匂いと肉の焼ける匂いが合わさった複雑な香りが、厨房に満ちた。 

 しかし、五分ほど経ったとき、香りが変わった。

 良い香りが、少し焦げた匂いに変わり始める。

 急いで金網を火から離したが、骨の端部が焦げていた。黒く、硬く変色していた。

これを鍋に入れて出汁を引いても、苦くなるだけだ、と直感でわかった。


 奈津はその骨を見つめ、しばらく動けなかった。

 失敗だ。

 当たり前だ、と心の中の冷静な部分が言う。一度もやったことのない作業を、一回でできるわけがない。しかし感情の部分は、その冷静な声を聞き流して、込み上げてくるものを抑えるのに懸命だった。

 これを、父は何年もかけて完成させたのだ。

 奈津は焦げた骨を捨て、残っている骨でもう一度試みた。今度は火から近すぎないように距離を取った。一分ごとに様子を見た。しかしそれでも、均一に炙ることが難しかった。細い骨は中央と端で熱の入り方が違う。中央が丁度良くなった頃には、端が過熱している。

 三度試みて、三度とも満足のいく状態にならなかった。


 一応の材料で出汁を引いてみた。

 昆布と炙った骨を水に入れ、弱火にかけた。香りは確かに出た。しかし引き上げた出汁を一口飲んだ時、奈津は目を細めた。

 複雑な味がした。良い意味ではなく、複数の欠点が混在している、という意味での複雑さだ。焦げの苦みが背後にある。骨を傷つけたせいで、微かに血の味が混じっている。全体として、濁った印象の出汁になっていた。

 奈津は鍋の前に座り込んだ。

 厨房の床は古い板張りで、その合わせ目から、昔の食堂の匂いが染み出しているような気がする。父が立っていた場所に、自分が今いる。しかし父が立っていた時の厨房とは、決定的に何かが違う。父の出汁と自分の出汁は、同じ材料でも、別のものになっていた。

何が足りないのか。

 技術、と言えば簡単だ。しかしそれだけではない気がした。


パート4 坂田の指導、蓮の手


 三日後、奈津は糸崎の坂田の小屋を再訪した。

 今回は電話をしてから行った。坂田は「来てもええが、わしは教えることが上手くないから期待するな」と言った。それでも来てもいいと言うのだから、来てもいいということだ。

 糸崎の漁港は、晴れた朝の強い光の中にあった。

 先週来た時は梅雨空だったが、今日は夏の青空が直接港の上に広がっている。漁船の白い船体が光を反射し、目が痛いほどだ。海面は細かく揺れており、その一つ一つの波が太陽の光を割って反射するから、海全体がきらきらと瞬いている。それは動いていない光ではなく、すべてが同時に呼吸しているような、生きた光だった。

 坂田は桟橋にいた。今日は蓮もいる。

 蓮は奈津を見ると、「また来た」という表情で軽く手を上げた。


「昨日、電話で失敗したって言ってたな」坂田は奈津に言った。「何が失敗したか、わかるか」

「炙り方です。骨を焦がしてしまいました」

「それだけか」

「……捌く時に、骨を傷つけた気がします」

「それだけか」

 坂田はまた聞く。奈津は少し考えた。

「火の加減がわかっていなかった、ということだと思います」

「そうじゃない」

 坂田は短く言った。

「じゃあ、何が」

「魚を見ていないからじゃ」

 奈津は坂田の言葉の意味を、すぐには理解できなかった。

「アブトは一匹一匹、大きさが違う。脂の乗り方が違う。その日の水温で体の状態が違う。同じ炙り方をしたら、同じ結果にはならない。一匹一匹を見て、その子がどれくらいの熱を必要とするかを判断しながら炙る。それをしなかったから、失敗したんじゃ」

「……それは、どうやって判断するんですか」

「慣れじゃ。わしも最初は間違えた。蓮も最初は間違えた。何百匹と炙って、初めて体でわかるようになる。頭でわかろうとするから失敗する」


 坂田は立ち上がり、小屋の中から道具を持ってきた。七輪と炭と金網、そして発泡スチロールの箱に入ったアブトの骨だ。昨日の漁で処理したものを取っておいてくれたらしい。

「ここでやれ。わしが見ている」

 坂田の指導は、言葉が少なかった。

 炭に火をつけ、安定するのを待つ工程から始まった。坂田は奈津が炭を扱うのを黙って見ており、ひと言だけ「もう少し時間をかけろ」と言った。火が安定してから、骨を金網に置く。

「手を近づけてみろ」

 坂田が言った。

 奈津は金網に手を近づけた。熱い。熱いが、どれくらい熱いかは、距離と時間で変わる。

「その熱さと、骨の様子を同時に見ながら動かせ」

 奈津は骨を見た。表面が白っぽく変化し始めた。そこに、わずかに脂の光沢が生まれた瞬間を捉えろ、ということか。

「今だ」

 坂田が言った瞬間、奈津は骨を火から離した。

「見てみろ」

 骨の色は、焦げていなかった。表面に脂の光沢が均一に広がり、うっすらと色づいている。これだ、と奈津は思った。前回の焦げた状態とは全く違う。

「次は、自分で判断しろ」

 次の骨を置いた。今度は坂田は何も言わなかった。奈津は骨と熱さの両方を感じながら、タイミングを計った。少し早いかもしれないと思いながら、外した。

「どうじゃ」

「もう少し待てたかもしれません」

「その感覚を覚えろ」

 三本目、四本目と続けた。五本目で、「今だ」というタイミングが、少し体でわかるような気がした。


 蓮が横から口を挟んだ。

「白川さん、目の使い方が変わってきました。最初は骨だけ見てましたけど、今は骨と炭と煙を同時に見てる。それが正しいです」

 坂田が蓮をちらりと見た。それから奈津に言った。

「この子は観察するのが得意じゃ。わしよりも、言葉で教えるのがうまい。蓮に教わるのも悪くないぞ」

 蓮が少し照れた顔をした。


 炙りの工程をひと通り終えた後、奈津は小屋の中で坂田と蓮と三人で昼飯を食べた。

 蓮が持参したおにぎりを三人で分け、坂田が番茶を入れた。簡素な食事だったが、海の匂いがする風が吹き込む小屋の中で、それは不思議においしかった。

「お父さんが最初に来た時のことを、もう少し聞かせてもらえますか」

 奈津が言うと、坂田は番茶を一口飲んでから、遠くを見るような目をした。

「勉さんは、聞くのが上手な人じゃった」坂田は言った。「こちらが話すことを、全部飲み込むような聞き方をした。メモも取らんかった。頭に入れてしまう人じゃった」

「父はメモを取らなかったんですか」

「うん。それが不思議でな、わしは聞いたことがある。なんで書かんのかって。そしたら、書いたら手が覚えて頭が忘れる、と言いよった。だから聞く時は聞だけにして、後で一人になってから整理する、と」


 奈津はノートを見た。

 父のノートは、産地から帰ってから書いたものだったのか。現場でメモを取ったのではなく、記憶で書いたものだったのか。だから短い。地名と人名と食材の名前だけで、詳細はない。詳細は、父の記憶の中にあったのだ。

「父の記憶の中にあったものが、このノートだけになってしまいました」

「そうじゃな」坂田は静かに言った。「だから、君がそのノートを持って、実際に来る必要があるんじゃ。書かれていないことは、来て聞かんとわからない」

「そのために来ています」

「知っとる。勉のやつが選んだ子じゃから、大丈夫じゃ」

 奈津は坂田の言葉の意味を、少し考えた。

「父が選んだ、というのは?」

「ノートを渡したじゃろ。あれは、誰かに渡すために書いとったはずじゃ。捨てられるノートと、渡されるノートは、書き方が違う。あのノートは、読んだ人間が動けるように書いてある」


 奈津は藍色のノートを膝の上に置き、表紙を撫でた。

 渡されるために書かれたノート。父は自分に読ませるためにこれを書いていた。東京でデザインの仕事をしていた娘に、いつかこれを読ませるために。

目の奥が熱くなった。

「ありがとうございます」

「礼はいらん。次は出汁を飲ませてもらう番じゃからな」

 蓮が横でにやにやしていた。


パート5 尾道の路地裏、試行錯誤の夜


 その後の二週間、奈津は毎日厨房に立った。

 朝、蓮がアブトを届けにくる。奈津が捌き、炙り、出汁を引く。それを繰り返した。

最初の一週間は、毎日失敗した。

 炙りの加減が前の日と変わる。捌く速度が上がれば骨へのダメージが増える。出汁の引き時間が少し違うだけで、味が変わる。何より、その日のアブトの状態が毎回違う。大潮と小潮でアブトの状態が変わることも、段々わかってきた。


 しかし、毎日やることで、わかることが増えていった。

 炙る時の骨の色の変化のパターン。捌く時の包丁の角度と力加減。出汁が引けた時の、湯気の質の変化。それらは言葉では説明しにくいが、体で覚えていった。

 尾道の路地裏は、夜になると静かになった。

 観光客がいなくなり、地元の人間も家に戻り、しらかわ食堂の前の石段には猫が一匹、体を伸ばして寝ていた。厨房の窓を開けると、夜の海の匂いが入ってくる。山と海の間に建つこの街の夜は、昼間の賑わいが嘘のように静かだ。


 奈津は夜遅くまで厨房に残り、試作を続けた。

 昼間の試作で引いた出汁を改めて温め直し、何が足りないかを考えた。森本の椀に注ぎ、香りを吸い込み、一口飲み、また考えた。

 ある夜、奈津はふと気づいた。

 自分が今、十五年間東京でやっていた仕事と、全く同じことをしている、ということに。

デザインの仕事も、突き詰めれば「足りないものを探して補う作業」だ。何かが美しくない。なぜ美しくないか。何が欠けているか。あるいは何が余分か。それを繰り返し考え、試行し、少しずつ近づいていく。

 出汁を作ることも、同じ構造だった。

 奈津は初めて、父の仕事と自分の仕事がつながったような気がした。父は食堂の料理人で、自分はグラフィックデザイナーで、全く違う職業だと思っていた。しかし本質は同じかもしれない。素材を見て、組み合わせて、形を作る。その形の中に、意図を込める。

父は出汁という形の中に、瀬戸内の人と時間を込めていたのだ。


 十日目の朝、奈津は初めて、「これだ」と思う出汁を引いた。

 その日のアブトは、前日の大潮で揚がったものだ、と蓮が言っていた。潮が大きく動く時に育ったアブトは脂が乗っている、と坂田の教えに従って蓮が選んで来てくれたものだ。

捌きの手が、以前より迷いなく動いた。骨と身の境が、少しずつわかるようになってきていた。骨を傷つけた感触と、傷つけていない感触が、包丁を持つ手に伝わるようになってきた。

 炙りは、七輪の状態が良かった。炭が均一におこり、穏やかな一定の熱を保っていた。その熱の安定が、骨の状態を読む余裕を生んだ。一本ずつ、丁寧に、骨の色と煙と脂の光沢を見ながら引き上げた。


 水に昆布を入れ、炙ったアブトの骨を加えた。

 弱火で、ゆっくり。温度が上がるにつれ、香りが立ち始めた。それは、最初の失敗作と明らかに違う香りだった。焦げの苦みがない。血の臭いがない。ただ、海の深みから引き出されたような、純粋な旨味の香りだ。

 引き上げのタイミングも、今日は迷わなかった。香りが頂点に達したと感じた瞬間に、静かに骨を取り出した。

 出汁を、森本の椀に注いだ。

 黄金色だった。

 透き通った、清澄な黄金色。火襷の椀の赤い筋の上に、その黄金色が乗っている。父が言っていたという「瀬戸内の海の色」という言葉の意味が、今初めてわかったような気がした。


 一口飲んだ。

 喉の奥に、静かな、しかし確かな感動が広がった。

 旨味が、甘みとなって口の中に満ちる。それは「甘い」という単純な味ではなく、苦みも酸みも塩みも後退して、ただ旨味だけが前に出てきた時の、あの独特の丸い感覚だ。その感覚が、喉を通り、胃に収まり、体の中心に向かって静かに広がっていく。

 奈津は目を閉じた。

 これだ、と思った。

 父が作っていた出汁の記憶は、奈津にはない。食堂が最も活気のあった時代に、奈津はすでに東京に行っていた。しかし今飲んでいるこの出汁が、父の遺したノートと、坂田の海と、森本の窯と、海部の包丁と、桑原の藍と、岡本の蔵が結集した末に生まれたものだという事実が、なぜかこの一口で確信に変わった。

 これが、父の味だ。

 涙が出なかった。代わりに、深い落ち着きが来た。これが正しい方向だ、という感覚。迷いが消えた感覚だった。


 奈津はノートを開き、今日の日付を書いた。

「最初の出汁。まだ完全ではない。でも、これを起点にする」


パート6 渉と奈津、列車の中の対話


 その日の午後、奈津は尾道から三原へ行く用事があった。

 岡本醸造に追加で醤油を分けてもらう約束をしていたのだ。開店に向けて、調味料の仕入れルートを固めておく必要があった。

 山陽本線上りの列車に乗り込んだ。

 車掌が渉だ、と奈津は乗り込む前から気づいていた。プラットホームに立つ制服姿の後ろ姿に、もう見慣れていた。制帽のつばの微妙な角度と、白手袋の手の位置が、この人間のものだとわかるようになっていた。

 奈津は中ほどの車両に座ったが、車内巡回で渉が通りかかった時、声をかけた。

「今日は調子はどうですか」

 渉は立ち止まった。車内巡回中に乗客から世間話をかけられることは、おそらく少ないのだろう。わずかに、しかしはっきりと意表を突かれた表情をした。

「問題なく」

「今日、初めて、これだと思う出汁が引けました」

 渉の表情が、また変わった。意表ではなく、何か別のもの。関心、かもしれない。

「どんな味でしたか」

「丸い、と思いました。角がなくて、どこまでも続くような。あの、糸崎の沖合の、波のない部分の海みたいな」


 渉はしばらく考えていた。

「海でたとえるなら、無風の時の瀬戸内ですね。風がある時は波が立って、光が散乱する。しかし無風の時の凪いだ海は、深さがそのまま色に出る」

「そうです、それです」

 奈津は思わず声が出た。

「篠崎さんは、詩人ですね」

「車掌です」

 渉はごく短く言ったが、その短さの中に、照れが混じっているような気がした。

「篠崎さんは、今まで出汁を作ったことはありますか」

「……昆布だしを引いたことが、最近初めてありました」

「どんな気分でしたか」

 渉は少し間を置いた。

「台所に、いなくなった人の気配が戻ってきた気がしました」

 奈津はその言葉を、静かに受け止めた。

「亡くなった方ですか」

「別れた妻です。料理が好きで、出汁にこだわる人でした」

 奈津は頷いた。何か言うべきか迷ったが、何も言わなかった。言葉をかぶせる必要のない沈黙というものがある。

「私が開店したら、来てください」と奈津は言った。「篠崎さんに、一番最初に飲んでほしい気がします」

 渉は奈津を見た。

 その目の中に、何かが動いた。凪いだ海が、ほんのわずかに揺れるように。

「伺います」

 渉は静かに言い、巡回を続けた。その後ろ姿を見送りながら、奈津は、この男もまた何かを失って、何かを探しているのかもしれない、と思った。


パート7 七月の尾道、完成に向けて


 七月に入り、梅雨が明けた。

 瀬戸内の夏は、突然始まる。昨日まで灰色だった空が、明日には信じられないほど青くなる。その青は、東京の夏空とは違う。深みがある。海の青が空に反射しているのか、空の青が海に映っているのかわからないほど、空と海が同じ色になる。

 尾道の坂道は、夏の光を受けて輝いていた。

 石畳が白く照り返し、古い民家の壁の漆喰が目に痛い。坂道を上れば海が見え、上がるにつれて海の見え方が変わる。低い場所では海は建物の隙間から覗くだけだが、高い場所に出ると、視界がぱっと開けて、尾道水道の全景が広がる。対岸の向島との間の細い水道に、渡し船が白い航跡を引いて進んでいた。水面はきらきらと光り、その光が揺れながら奈津の顔に反射してくる。


 しらかわ食堂に「開店準備中」の貼り紙をして、奈津は毎日試作を続けた。

 出汁の精度は日を追うごとに上がっていった。しかし奈津の目標は、「これで十分」ではなく「父を超える」ことだ。その目標がどこにあるのかは、まだわからない。父の出汁を飲んだことがないのだから、超えるべき基準が手触りとしてないのだ。

 ある日、坂田が珍しく自分で糸崎からやってきた。

 蓮を介さずに、一人でバスに乗って来たのだ。

「わしも一度見に来たくなった。試作を見せてもらえるか」

 奈津は迷わず言った。「どうぞ」

 坂田は厨房には入らず、入り口から見ていた。奈津が骨を捌き、炙り、鍋に入れ、弱火にかける。一連の工程を、坂田は黙って見ていた。

 出汁が引けた時、奈津は坂田に一杯差し出した。

 坂田は受け取り、匂いを嗅ぎ、一口飲んだ。

 長い沈黙があった。

「……まだ、少し引きが足りない」

「どこがですか」

「わからん。でも、勉のやつの出汁は、もう一つ深かった。何が違うのかは、わしには言葉で言えん。料理のことはわからんから。でも、違う」

「そうですか」

 奈津はその言葉を、落胆とともに、しかし受け止めた。まだ足りない。しかし、坂田がここまでわざわざ飲みに来たということは、それだけ近いところまでは来ているということだ。

「もう少し時間がかかるかもしれません」

「急かんでええ。勉のやつも、最初の出汁は三年かかった、と言っとったから」

「三年ですか」

「そうじゃ。ただ、あんたには」坂田は少し間を置いた。「ノートがある。だから三年より早いはずじゃ」


 その夜、奈津は厨房に一人残り、試作のメモを書いていた。

 窓の外から、夜の尾道の音が入ってくる。

 坂道を誰かが歩く靴音。遠くの港から聞こえる、漁船のエンジン音。海を渡ってくる風が、暖簾を揺らす音。その暖簾は、父が桑原に三ヶ月かけて染めてもらった、深い藍の暖簾だ。夜の路地灯の光を受けて、暖簾の藍が揺れている。

 奈津はふと、今日の渉との会話を思い出した。

「台所に、いなくなった人の気配が戻ってきた気がしました」

 渉が出汁を引いた理由がわかったような気がした。亡くなった人ではなく、去った人。しかし、いなくなった人への想いは同じだ。その人が好きだったものを自分の手で作ることで、その人との時間が少しだけ戻ってくる。


 奈津にとっての出汁も、そういうものかもしれない。

 父がいなくなった。父の作っていたものを、自分の手で作ることで、父との時間を少し取り戻せる。それが、奈津がここにいる理由の、もう一つの層だ。

試作を重ねながら、奈津は気づいていた。

 出汁を引くたびに、父のことが少しずつ見えてくる。父がなぜこの食材を選んだのか。父がなぜこの職人と付き合ったのか。父がなぜ、あの深い藍の暖簾をこの入口に掛けたかったのか。

 一杯の出汁を通して、父の人生が少しずつ見えてくるのだった。


パート8 渉の内側、変化の速度


 七月の最終週、渉は午前の乗務を終えて、糸崎の乗務員詰所で昼休みを取っていた。

窓の外に、夏の瀬戸内の青が見えた。

 これほどの青をこの窓から見てきたはずなのに、今日の青は何か違って見える。気のせいかもしれないが、色の深みが違う。それとも、自分の目が変わっただけか。

 弁当を食べながら、渉は最近の自分の変化について、整理しようとしていた。

 三ヶ月前と今で、何が変わったのか。業務の内容は変わっていない。走る路線も、乗る列車も、制服の重さも変わっていない。しかし渉の中で、何かが動き始めている。


 乗客の顔が、以前より見えるようになった。

 以前は乗客を「数と配置」として把握していた。何人、どこの位置、手荷物の状態。それは安全管理のための把握で、人間の顔は関係なかった。しかし最近は、顔が目に入る。表情が目に入る。あの年配の女性が今日は疲れた顔をしている。あの男の子がずっと窓の外を見ている。あの夫婦が小さな声で言い合いをしている。

 それを見て、何かを感じるようになった。

 感じることを、以前は遮断していた。感じれば疲弊する。感じなければ平穏を保てる。そう信じていた。しかし、感じた結果として何かが削られるのを恐れる日々は、もう過去のものになりつつあった。乗客たちの生きた営みが、冷え切っていた彼の心の防壁を、静かに、しかし確実に溶かし始めていた。


パート9 備後藍の暖簾、開店へ向けて


 七月末、奈津は桑原を再訪した。

 今度は「新しい暖簾を注文したい」という目的だった。父の暖簾は長年の使用で色が落ちており、開店にあたって新しいものを掛けたかった。しかし父が選んだ色を変えるつもりはない。同じ色を、もう一度染めてもらいたかった。

 笠岡の路地は、七月の強い陽光の中にあった。

 前回訪れた時は梅雨の曇り空だったが、真夏の光の中の笠岡は全く別の場所のように見えた。石畳が白く輝き、路地の両側の家の影が黒く落ち、光と影のコントラストが激しい。その光の中で、干された藍染めの布が揺れている。

「また来ましたよ」

 奈津が工房に入ると、桑原は藍甕の前にいた。

「来るとわかっとりました。何の用事かもわかっとります」

「暖簾を」

「そうじゃろうと思って、材料を準備しておきました。いつでも始められます」

「三ヶ月かかりますか」

「そうじゃね。でも、急ぎますか?」

 奈津は少し考えた。

「急ぎません。良いものを作ってほしいです」

 桑原は頷いた。

「それでええ。あの色は、急いで作れるものじゃないし、急いで作っていいものじゃない。三十八回染めるということは、三十八回待つということじゃから」

 三十八回待つ。

 奈津はその言葉を、胸の中で繰り返した。

「桑原さん、藍染めは、失敗した時にどうするんですか」

「やり直します」

「やり直せますか、一から?」

「できますよ。布は一度染めても、もう一度染められる。前の色の上に、新しい色が重なります」

「前の色が消えるんですか」

「消えません。重なります。濃くなります。失敗の色が、成功の色の下になる。でも、失敗した回数だけ深みが増す。きれいに最初から染めた布より、一度失敗して染め直した布のほうが、色に奥行きが出ることがある」

 奈津は藍甕を見た。

 深い紺色の液体が、静かに呼吸している。

「失敗が、深みになるんですね」

「そうです。人間も同じじゃと思いますよ」

 桑原は奈津を見て、微笑んだ。

「白川さんは、いい顔になりました。最初に来た時より。最初は、どこか東京のスピードがまだ残っとった。今は、ここの空気になじんできた」

「ここの空気になじんだ、というのが、嬉しいです」

「ここで生きていくということは、ここの空気と同じリズムで呼吸するということじゃから」


 笠岡から帰りの列車に乗りながら、奈津はノートに書いた。

「三十八回待つ。失敗が深みになる。」

 これを、出汁にも当てはめることができる。失敗した日数が、今日の出汁の精度の下にある。失敗を経ずに到達した技術には、失敗を経た技術の深みはない。

 坂田が言っていた言葉も思い出した。「急かんでええ。勉のやつも最初の出汁は三年かかった」。

 三年かけて完成したものを、奈津は三年かけて覚える必要はない。なぜなら、ノートがある。道筋がある。しかし、近道があるからといって、歩かなくていいわけではない。近道を歩くにも、脚力が必要だ。その脚力を、日々の試作が作っている。

 列車は尾道に向けて走っていた。

 窓の外に、夕暮れの瀬戸内が広がっていた。

 太陽が西に傾き、光が橙色に変わり始めている。海面の色が、昼の青から夕暮れの金へと変わっていく。その移行は連続的で、どこで青が終わり金が始まるのか、決めることができない。グラデーションは、境界を持たない。

 奈津は窓に顔を向け、その光のグラデーションを眺めた。

 この列車で何度も見てきた景色が、今日は特別な意味を持っている。

 父が遺したものを引き継ぐ作業は、このグラデーションのようなものだ。どこまでが父の仕事で、どこからが自分の仕事か、決めることができない。父のノートの言葉と、自分の手の動きが、少しずつ溶け合っていく。その境界が消えた時に、本当の意味で「しらかわ食堂の出汁」が生まれる。

 アナウンスが流れた。

「次は、尾道、尾道です……」

 渉の声だ。今日も乗り合わせた。

 奈津は立ち上がり、車両を移動して最後尾へ向かった。

 車掌室の小窓から渉が見える。今日の渉は、車内確認の合間に、一度だけ窓の外の海を見た。その横顔が、路地裏で明かりを灯すように、何かを見ている顔だった。

 扉が開き、尾道のホームに降りた時、渉が降りてきた。

「今日は笠岡から?」

「ええ。暖簾を注文してきました」

「暖簾」

「藍染めの。開店まであと少しです」

 渉は頷いた。

「開店はいつですか」

「一ヶ月後を目標にしています。その前に、一度試食会をしようと思っていて」

「試食会」

「関わってくださった方を呼んで、出汁を飲んでもらう会です。坂田さんと蓮くん、森本さん、海部さん、桑原さん。皆さんにまず飲んでもらってから、正式に開けようと思って」

「そうですか」

 渉は一瞬間を置いてから言った。

「私も、その試食会に呼んでいただけますか」

 奈津は驚いて、渉の顔を見た。

 渉は表情を変えなかった。しかし、その目が、少しだけ違った色をしていた。

「もちろんです」

 奈津が言うと、渉は静かに頷いた。

「では、お待ちしています」

 その夜、奈津は厨房で試作をしながら、渉の言葉を思い返した。

「私も呼んでいただけますか」。

 あの男が、自分から何かを求めた。それは小さな言葉だったが、奈津には大きく聞こえた。扉を自分から開ける、というのは、その人間にとっての大きな一歩のことがある。

 七輪に炭を起こしながら、奈津は思った。

 篠崎渉という男は、まだ何かを閉じている。しかし、その何かが、少しずつ開きかけている。それはちょうど、自分の出汁が少しずつ深みを増しているのと、同じ速度かもしれない。

 炭が赤く熾き、アブトの骨が炙られ始めた。

 厨房に、夏の夜の出汁の香りが満ちた。



「変わる景色と、変わらない汽笛の余韻」

「第1回 JR西日本×BS12 トゥエルビ じゆうに文庫小説大賞」の開催にあたり、拙作『汽笛は海峡を渡る』を最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。

 本作の執筆の原動力となったのは、私自身が山陽本線の普通列車に揺られて旅をした際に感じた、「変わりゆくものと、変わらないもの」への愛おしさでした。

 作中に登場する115系電車は、昭和の時代からこの鉄路を支え続けてきた武骨な鉄の塊です。エアコンの作動音や独特の金属擦過音、そして微量な機械油の匂いは、合理化が進む現代の交通機関からは排除されつつある「生々しい生活の質感」そのものです。車掌の篠崎渉がこの車両を「自分の持ち場」として誇りを持っていたように、不器用で型遅れな存在だからこそ、そこに乗る人々の体温をまっすぐに伝えることができるのではないかと考えました。

 渉が築いていた「防壁」は、現代社会に生きる多くの人々が多かれ少なかれ抱えているものではないでしょうか。他者と深く関われば、傷つき、魂を消耗する。だからこそシャッターを下ろし、乗客を「記号」として処理する。それは彼なりの防衛策でしたが、元駅員の松本さんがホームの端でサルビアの花を育て続けているように、「続けることでしか残らないもの」に触れた時、彼の防壁は心地よい崩壊を迎えます。

 また、白川奈津が追い求めた「アブト」という魚を通じて、瀬戸内という土地が持つ深い食文化の記憶を描きたいと思いました。昆布や鰹節だけでは出せない「瀬戸内の深み」を秘めた出汁の味は、亡き父・勉から奈津へ、そしてかつて渉の妻であった有紀から渉へと繋がる、目に見えない愛の暗号です。人は大切な人を失っても、その人が遺した「味」や「言葉」を通じて、何度でもその温もりに再会することができる──そんな祈りを込めて、奈津が糸崎の坂田漁師のもとを訪ねるシーンを執筆しました。

 ラストシーンにおいて、桜の花びらを浴びる三原城の石垣や、新緑が混じり始めた尾道の山々を通過する時、渉の心にはかつて通過させてしまっていた景色のすべてが鮮やかに収まります。

「同じ路線を走っていても、同じ日は二度とない」

この気づきこそが、渉と奈津が長い旅の果てに見つけた、新たな一歩のための切符でした。

 最後になりますが、この物語に命を吹き込むきっかけをくださったJR西日本の皆様、そして映像化やメディアミックスという「じゆうに文庫」ならではの壮大な可能性を提示してくださったBS12 トゥエルビの皆様に、心より感謝を申し上げます。下関から岡山へと続くあの黄色い車体の中で、今も渉が白手袋をはめ、奈津が藍色のノートを開いて前を向いていることを願いつつ、筆を置かせていただきます。

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