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公正14

 いずれ翡翠は、見知らぬ馬の骨に、いいようにだまされて。

 嬉しそうに手と手を携え、軽やかに飛び去っていくのではないか。

 公正をはるか下界に残して。




 翡翠がいなくなったら。


 そう考えるだけで、公正は、全身が冷たくなるような気がした。


 

 公正にとって翡翠は、母であり、娘であり。

 要するにこの世界の、慣れ親しんだ愛すべき半面そのものだった。


 何もわからぬ子どもの頃なら、まだよかった。


 世界の意味を。執着する価値を。

 知ってしまった、哀れな中年男には。


 耐えられない。


 糸の切れた(たこ)のように。

 絶対零度の真空の中、無明(むみょう)の闇をいつまでも漂う。

 絶望。



 捨てないで。

 どうか、置いて行かないで。





 父親というものは、さなぎのようなもので。

 いつかは窮屈で邪魔な古着になって。

 美しく成長した娘に、ためらいもなく脱ぎ捨てられるものだ。



 わかっている。

 そんなことくらい。



 たとえば知り合いにならば、公正は仕方ないよと慰めるだろう。

 親の苦労を知れば親孝行してくれるようになるよ、などと分かったような口をきくだろう。


 しかし。

 我がこととなると、どうにも歯がゆく切なく、身もだえするほど哀しい。


 掌中の玉のように(いつく)しみ、()でて育てた見返りが、そんな結末だとは。

 到底納得できるものではなかった。


 




 しかし公正は、そのやりきれなさを無垢(むく)な翡翠にぶつけるほどの、わからず屋にもなれない。

 だからただ、とにかく翡翠がまだ、すぐそこにいることを確かめたかったのだ。


 五感の全てで。


 温かく柔らかい身体。

 長い、繊細なまつ毛が、光に透ける様子。

 (つや)やかに流れる黒髪。

 うっとりするような、若々しい匂い。

 どこか、妖しく誘うような。



 翡翠が嫌がっているのはなんとなく感じていたが、父親としての節度は保っているし、これくらいのことは許されるべきだ。

 小さいころは、おむつを替えたし、着替えもさせたし、一緒に風呂にも入ったのに。


 これだけ愛情を注いできたのだから、ちょっと触れるくらい、ささやかな恩返しと思ってほしい。

 減るものじゃなし。


 お前が恋人を見つけたなら、すっぱりあきらめるから。

 たぶん、あきらめられるから。

 それまでは、さみしいおれを慰めてくれ。



 ごくたまに、黒髪のかかるうなじの白さや、ふくらんだ胸元にくらくらすることがあったが。

 公正は、理性に踏みとどまった。







 公正は、久しぶりに自宅に足を向けた。




 K大学の推薦入試に合格したことを報告する、と、翡翠は今日は影山家に行っている。

 疎遠にしている祖父母に直接伝えに行くなど、よほど嬉しかったのだろう。


 公正も、嬉しい。

 また一つ、翡翠との共通項ができた。


 合格祝いは、何がいいだろう。

 翡翠と一緒に選びに行くのもいいかな。


 だが瑠璃は、翡翠に対して、相変わらずそっけない。

 合格したと聞いても、「ああ、そう」。


 もう少し、喜んでやってもいいのに。





 ブザーを押すと、スピーカーから、幸子の声と一緒に、犬の吠える声が聞こえた。


 なんだ、犬でも飼ったのか?


 ドアが開いて、現れた幸子に尋ねようと口を開きかけた時。


 小さい犬が、飛びかかって来た。



「あっ、ミルク!」


 玄関先に、慌てた様子の義雄が、飛び出してきた。

 犬は、盛大に尻尾を振って公正にじゃれつき、飛び跳ねては、義雄の方にも飛びついていく。


「ミルク…?」



 白いチワワ。

 そっくりな犬だとしても、名前まで同じ?

 しかも、このなつきよう。



「どうしたんだ、この犬は?」


 公正の剣幕に、義雄はひるんだが、

「預かったんです。…友だちから」


 ほら、ミルクおいで、と義雄は犬を上手に抱き上げて、二階にさっと消えた。

 


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