きわめて美味しそうな毒餌
この年のうちに、メルヒオール殿下が、陛下へと変わる準備は整った。
聖都ロミアにおいて、教皇パブロ七世からゼクフィコ皇帝即位の承認と祝福を(そしてロペス・ガルシアが撤廃した「宗教法」を再公布せよという無言の圧力も)得て、メルヒオール殿下が戴くことになる帝冠は、あらかじめ聖別されたものとなった。
ゼクフィコ皇帝位は、バルトポルテのように勝手に名乗った自称の位階ではなく、正当な帝位であるというわけだ。
メロヴィグでは国賓として迎えられ、ペリム市民からひと足早く「皇帝陛下万歳!」の歓呼を受けた。バルトポルテ三世と帝妃ルティアーナも、メルヒオール大公とイザベラ姫を国家元首夫妻としてもてなし、とくにイザベラ姫の名誉心を満足させた。
自らの政治的策謀で紡ぎ出された、ゼクフィコ皇帝なる地位に就こうとするアドラスブルクの皇弟へ、バルトポルテ三世は息子に対するかのような親愛の情をしめしたという。
実際、雌伏の期間が長く、皇帝に即位した時点でもう40を越えていたバルトポルテ三世は、メルヒオール殿下と、親子ほどにといっても差し支えないほど歳が離れている。
……表面上の親しげな態度とは裏腹に、メロヴィグ政府がメルヒオール殿下へ請求する債務残高は莫大であった。
まず、メロヴィグ政府が持っている対ゼクフィコ債権の全額。これはまあ、メルヒオール新皇帝政府が、ゼクフィコの正当政権であると主張するための必要経費と考えねばならない。
つぎに、ジェイケラーはじめとする、メロヴィグで営業権を持っている民間金融機関が持つゼクフィコ債。メルヒオール殿下はすぐにうなずきかけたものの、イザベラ姫が、個別に検証して各債権者ごとに回答する、と横から口を挟んで即答を差し控えさせた。
……のちに各債券の発行・利払い・償還の各条件詳細を精査したところ、ジェイケラーが、勝手に利息を書き換えて、モラン公の借金ぶんをゼクフィコ新政府に負担させようとしていたことが発覚する。これはイザベラ姫の慧眼であった。
地雷をひとつ回避できたといっても、各債券の額面だけでゼクフィコの歳入の10倍を超えている。しかもメロヴィグ関係だけで、ブライトノーツやイルパニア、その他の国が持つゼクフィコ債はふくまれていないのだ。
利息込みとなったら、ゼクフィコが借金を完済できる日は永久にこない。
真顔になったメルヒオール殿下へ、メロヴィグ財務相オルソンが提案したのは、借り換えであった。
いわく、ゼクフィコは信用力が疑問視されているので、旧政府発行の国債は非常に高利となっている。
即時償還オプションが設定してあるぶんのゼクフィコ債を、メロヴィグ政府から借り入れた資金で完済してしまえば、一時の出費で将来的な利息支払いを免れることができる。
メロヴィグ政府には信用力があるし、メルヒオール新政権を後援するという意味も込め、旧国債の半分ほどの利息でご用立てしましょう――と。
……これはじつをいえば、巧みにしかけられた罠であった。
この時点でのメルヒオール殿下には、ゼクフィコ皇帝に即位してから、ロペス・ガルシアと全面和解をして、債務不履行を押しとおしてしまう選択肢が残っていたのである。
ゼクフィコ債としての表書きを抹消して、メロヴィグ政府がメルヒオール殿下に貸しつけた債券に書き換えてしまう、逃げ道封じの策であったのだ。
利息半減(借金の元本が減るわけではない)という言葉の響きにまどわされて、メルヒオール殿下は債務借り換えに同意してしまう。数値そのものがおかしかったわけではないので、イザベラ姫もメロヴィグがわの真の狙いに気がつかなかった。
……こうして、わが義弟夫妻は、自分が作ったわけでもない借金の保証人にされてしまったのである。
唯一の救いは、即時償還オプションが設定されていたのは、旧ゼクフィコ債の全額ではなかったことだろうか。
それでも、本来なら債権の部分放棄を求めて泥臭く食い下がるべきところで、メルヒオール殿下の義理堅さと人の良さが出てしまった。
さらに、ゼクフィコ駐留メロヴィグ軍の経費支払いも約束させられ、きたるべきメルヒオール新帝国は、建国前から借金まみれというありさまとなった。
――つづいて訪問した、イザベラ姫の実家バルディウムでは、義勇兵募集事務所開設とお祝い金という、ふたつのお土産をもらえたが、アドラスブルクからの御祝儀と合わせても、当然ながらゼクフィコの債務総額からすれば焼け石に水でしかない。
新皇帝夫妻が、しばらくのあいだはその輝かしい肩書きに恥じない生活を送れる、というていどであった。
バルディウムからの最大のプレゼントは、イザベラ姫の父上フェリクス陛下が紹介してくれた、鉱山技師カルマンかもしれない。ゼクフィコ現地で資源調査をした経験があるそうで、いまだにゼクフィコを直接知る人間が周囲にいないメルヒオール殿下にとって、頼りになる相談役の登場となった。
新鉱山を開発して、その採掘権をゼクフィコ新政府が保持できれば、国庫もわずかながら潤うだろう。
そして、最後の訪問国ブライトノーツでメルヒオール大公夫妻が受けたのは、冷ややかな中立。あからさまな反対の声や敵視こそなかったものの、ゼクフィコ救済のため皇帝即位を決意したアドラスブルクの皇弟に対し、ベアトリス女王以下、ロンディミオン宮廷のお歴々は、熱意のない祝辞だけで応じた。
だれひとりとして、ブライトノーツがゼクフィコから撤退した裏に、ロペス・ガルシアとの密約があったことをおくびにも出さなかったのだから、ブライテンしぐさというのは徹底したものである。
……そんなこんなで、ゼクフィコ現地入りの前に関係各所をめぐってきたメルヒオール大公とイザベラ姫が、秋深まるフィレンへと帰ってきた。
オストリヒテ政府は、アドラスブルクの身内である皇弟殿下としてではなく、外国元首ゼクフィコ皇帝として大公夫妻を迎える。
まだゼクフィコ統一は実現していないし即位の儀も執り行われていないのだが、前祝いの凱旋式のような様相となり、目抜き通りをパレードするメルヒオール殿下とイザベラ姫を、フィレン市民は「ゼクフィコ皇帝万歳!」「ゼクフィコ帝妃万歳!」と出迎えた。
なお、絶対に「ゼクフィコ」を省かないことと「陛下」の尊称は正式な即位後までつけないように、という当局からの通達が徹底されていた。
オストリヒテにおいて単に「皇帝陛下」と呼ばれる存在は、アドラスブルク現当主のみである、というのが、面倒くさい形式主義というやつなのだった。
フィレン皇宮にて、壮麗で、七面倒で、格式張った、盛大なるパーティが開かれた。
今回の主役は義弟夫妻なので、わたしはいつもより息苦しい思いをしなくてすむ。ついでに、オストリヒテ帝妃としてではなく、アジュール王妃の立場でゼクフィコ皇帝夫妻を歓迎するとして、フィレン貴族婦人のものとはまったく異なるアジュール様式のドレスに身を包み、エクセルハーディ伯爵夫人たちフィレン老婦人会とは離れたテーブルを確保した。
錚々たる顔ぶれの貴顕のみなさまを引見し、祝辞を受け、鷹揚に言葉を返すメルヒオール殿下とイザベラ姫は、すっかり皇帝夫妻としての華やかさが板についていた。
わたしはフィレンの宮廷儀式のときは、つねに窮屈さと退屈にさいなまれているので、如才ない受け答えとか帝妃らしい表情というのができない。
エルディナントさまとメルヒオールさま、おふたりの生まれてくる順番が逆だったら、わたしとイザベラ姫も、適正のある椅子に最初から座れていただろうに。
その場合、次男エルディナントさまのもとにゼクフィコ皇帝の誘いが持ちかけられたら、わたしが蹴っ飛ばしていましたけれども。
アジュール王国代表の順番がやってきて、わたしは義弟夫妻の前へと進む。
「メルヒオールさま、イザベラさま、このたびはゼクフィコ皇帝位内定おめでとうございます。彼の地では困難が待ち受けていることでしょうけれど、ご自分の信じる正義をお忘れなきように。たとえ大業ならずとも、後悔だけはなさらないよう、ご自身の心に恥じない道をお選びくださいませ」
わたしの口上に、周囲を固める式事官たちの顔がひきつった。ゼクフィコ皇帝夫妻の門出を祝う晴れがましい席で、前途の暗雲を示唆するようなことを述べるなどけしからん、と言いたいのだろう。
でも、イザベラ姫は神妙な顔で答礼してくれた。
「ありがとうございます、セリーリアお義姉さま。メルヒオールとふたりで、かならずやゼクフィコを立派に治めてみせますわ」
「ゼクフィコの民は、長年の無政府状態、国内紛争に苦しめられていると聞いております。アドラスブルクの血を引くものとして、ゼクフィコに秩序と調和をもたらす所存です」
メルヒオール殿下の表情にあるのは、アドラスブルク家の誇りと責任感だった。ゼクフィコの実情を知ったとき、どう変わるだろうか。わたしに直接見届けることはかなわない。
すべてをすくい上げることはできないと悟ったとき、メルヒオール殿下に“切る”決断を下すことはできるだろうか……。
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虚栄の式典がつづく宮廷の表舞台をよそに、オトナの事情などおかまいなし、ちびっ子たちには本音と建前の使いわけのあるわけもなく、楽しく遊んでいた。
生まれてこのかた姉ふたりに囲まれていて、さらに最近妹まで増えたヨーゼフは、従弟のマクシミリアンに男の友情を感じたようだけれど、当のマックスは、ゾラやテレーゼに甘やかしてもらうほうがお気に召したらしい。
もっとも、マクシミリアンはまだ一歳だ。兵隊ごっこやチャンバラごっこをするには、少々早い。
五ヶ月のラースローネは、お姉ちゃんたちが従兄に夢中なので、ちょっとご機嫌ななめだ。泣きわめいてアピールするのではなく、クッションの上でむすーっとしているところがかわいい。
年上の男として、マクシミリアンにいいところを見せられなかったヨーゼフが、あぶれものどうしでなぐさめ合おうと妹に近寄ってきたものの、ラースローネはぷいっと背を向けてしまう。
「ヨーゼフ、不純なのバレてる」
兄から目をそらしたラースローネを抱きあげ、わたしが苦笑すると、ヨーゼフは小首をかしげた。
「ふじゅん……?」
「ほんとうはマックスがよかったけど、お姉ちゃんに取られちゃったからラジィでいいやって、そういう考えだと女の子には嫌われるのよ」
「ちがうよ、ゾラとテレーゼがラジィのことほったらかしにするのがわるいんだよ」
「理屈は達者だねえヨーゼフ。でも駄目だぞ、イイワケが理詰めだと女の子はますます嫌がるからね」
わたしのいったことを理解できたかできなかったか、ヨーゼフはお姉ちゃんたちのほうへと向かっていく。
「ねえ、マックスとあそばせて」
「マックスはまだ赤ちゃんなんだから。ヨーゼフはガサツだからだーめ」
マクシミリアンを抱きしめて、ゾラが弟を容赦なくこき下ろす。ガサツに赤ちゃん任せられないなら、ラースローネ放っておいたらいかんでしょ。うん、ヨーゼフにも一理ある。細かな口出しはしないけれど。
にやりと笑って弟の前に立ったのは、テレーゼだった。
「ならば、テレーゼおねえさまがあいてをしてしんぜようか、ヨーゼフ」
「やだ。テレーゼてかげんしないし」
「おーおー、おなごにかてないでどうするヨーゼフ」
「テレーゼのほうがふたつもうえだもん」
「つべこべいうな、あそびたいといったのはヨーゼフだぞ」
おもちゃの剣を振りかざして、テレーゼが弟へ襲いかかる。ヨーゼフは脱兎のごとく駆け出して、わたしのうしろに逃げ込んだ。
追いかけてきたテレーゼが、肩に得物をかついだ、山賊スタイルというか憲兵スタイルというか、逃亡者狩りの姿勢で芝居がかった科白をいう。
「ママ、ヨーゼフをひきわたしていただこうか」
「代わりにラジィをあげましょう」
わたしがラースローネを差し出すと、テレーゼはおもちゃの剣を放って妹を大事そうに抱っこした。基本、弟と妹が大好きなお姉ちゃんではあるのだ。
「だーう」
「あんずるなラジィ。テレーゼおねえさまはよわいものにてをあげぬ」
「うそつき!」
「ヨーゼフのことはきたえてやろうとしているだけだぞ」
すかさずツッコむヨーゼフと、即妙に切り返すテレーゼに、わたしはふふっと笑ってしまう。
こんな普通のしあわせが、永遠につづけばいいのにね。
義弟夫妻がゼクフィコへ旅立ってしまえば、もう年単位で会えないだろう。つぎに顔を合わせるときは、マクシミリアンもラースローネも言葉を話せるようになっているだろうし、ゾラなんかは婚約者が決まっているかもしれない。
そこへイザベラ姫が愛息マクシミリアンをお迎えにいらして、いとこどうしの親睦タイムはお開きとなった。
……メロヴィグでメルヒオール殿下とイザベラ姫が一杯食わされたものと同じような、表面上は美味げな毒餌が、べつの方面からアドラスブルクへ向けて差し出されてくるのは、もうまもなくのことである。




