戴冠式
夏のあいだに、バルティア・ロカーナ紛争のひととおりの政治的事後処理が片づき、秋の気持ちのよい日に。
本拠地であるフィレンでは、石こそ投げつけられないまでも冷ややかな目を向けられるようになってしまった、わたしたち皇帝一家であったが、アジュールの首都であるビュラにおいて、地元の人々から熱烈な歓迎を受けていた。
アドラスブルクを敵視する、文明化されていない野蛮人の国――それが、太后ゾラさまをはじめとする、フィレン貴族のアジュール観だったが、アドラスブルクとアジュールの旗を振るビュラの民衆の顔に、皇族に対する憎悪や不信の陰はなかった。
アングレアム伯やマイラー伯をはじめとする、地元の名士たちが事前に調整していた結果とはいえ、アジュール大衆が自発的に受け入れてくれなければ、これほどあたたかな出迎えはない。
どれだけ融和や妥協を提示しても、エトヴィラ人はアドラスブルク帝国からの離脱を望んだし、オストリヒテ人ですら、いまはアドラスブルクに対して、無関心と、せいぜい消去法による支持しか寄せてくれないのだ。
諸王国の王としてのアドラスブルク皇帝ではなく、アジュールの王として自分が望まれていたのだと知って、エルディナントさまも、内心ではとまどい混じりかもしれないけれど、歓呼の声を嬉しく受け取っている様子だった。
「国王陛下万歳!」
「王妃陛下万歳!」
「セシーリアさま」
「エルディナントさまぁ」
「アジュール王国万歳!」
「アジュールに栄光あれ!」
「両陛下に神のご加護を!」
「アドラスブルクに弥栄あれ!」
パレードには子供たち三人も加わっていて、エルディナントさまとわたしの乗る馬車につづく、二台めに乗っていた。
ゾラは得意げな顔で沿道へ手を振ってみせている。テレーゼは目をまんまるに開いて、ものすごい数の人だかりをぽかんと見るばかり。ヨーゼフは、揺り籠ごと乳母長レヒトハイネン男爵夫人に抱かれ、泰然自若、眠っていた。あまり乳児を抱き馴れていない男爵夫人マルティナは緊張気味かな。
かわいい、と声が聞こえる。よかった、大きな公式行事としては、フィレンよりもこっちで早くデビューすることになったけれど、ちいさなプリンスとプリンセスたちはアジュールの人々からまずまず好評のようだ。
ソル・ペルヌの戦いで絶体絶命の危機に陥っていた皇帝陛下を救い、大逆転の原動力となった(伝説というのは、つねに脚色されるものである)アングレアム伯爵とアジュール精鋭騎兵につきそわれて、アドラスブルク皇帝一家の車列は、マレシャーシュ聖堂へと入った。アジュールで一番歴史が古く、格の高い教会だ。
形式の上では、アドラスブルク皇帝は即位時点から、オストリヒテ帝冠とともに、アジュールなど10ヶ国余の王冠を合わせて戴いている。
あえて戴冠式を挙行し、あらためてアジュール王冠を個別に戴くということには、単なる儀式以上の意味があった。
フィレンのアウグストゥム教会でオストリヒテ帝冠を戴いた皇帝エルディナントが、ビュラのマレシャーシュ教会でアジュール王冠を戴く。
そのことが、オストリヒテとアジュールの地位が完全に同等になったという証しとなるのだ。
アジュール王冠をエルディナントさまの頭上に捧げるのは、必然としてアングレアム伯の役目となる。アジュール民族の代表者であり、皇帝へ王位を授けるものとして。
聖堂内での儀式は粛々と進行し、エルディナント陛下が祭壇の前へと一歩ずつ近づいていた。香炉からの煙や、象牙の水差しからの浄水がその身へ振りかけられ、聖別を象徴する。
ついにアングレアム伯が、アジュールの伝説的始祖である聖ステファノスの王冠を祭壇から高らかに掲げ、エルディナントさまの頭上へ戴かせた。
これで、エルディナント陛下はオストリヒテの皇帝から、オストリヒテ=アジュールの皇帝に変わる。
それは同時に、アジュール王冠はもはや無条件の世襲権利ではなくなる、という暗喩であった。アジュール民族からの賛同と承認を得ないかぎり、アドラスブルク皇帝といえどもアジュールの大地と人民へ支配権はおよばない。アジュールがわからはいつでも無効を宣告できる。
……これが、わたしがエルディナントさまと子供たちのために選んだ行動の結果だ。無意識のうちに太后ゾラさまが厭うていた道。
エルディナントさまにつづいて、わたしには聖エルジェーベトのティアラが捧げられる。こちらも、アジュールの伝説的聖女にちなんだものだそうだ。物質的には、聖ステファノスのものほど歴史がないというか、今回の戴冠式のためにあつらえられたものだが。
今後わたしは、アドラスブルク帝妃としては「殿下」だけれど、アジュール王妃としては「陛下」ということになる。ホーハイツと、マジェスティスの差。こだわる人はものすごくこだわるところだが、まあ、わたしはどっちでも大して違うとは思わない。
厳粛な雰囲気での戴冠式が終わり、教会からビュラ宮殿への復路のパレードは、ますます熱気がすごいことになっていた。
もう人々がなにを言っているのかはわからない。まき散らされた花吹雪が風に乗って舞い、無秩序に祝砲が撃ち放たれる。
さすがに実弾は込めてないと思うけれど、アジュール治安当局はちゃんとお仕事してるのだろうか……?
銃声で目を覚ましたヨーゼフが泣き出して、おろおろするレヒトハイネン男爵夫人からゾラが弟を取り上げ、あやしはじめた。この状況で馬車から馬車へ移動するのは無理だから、助かった。しっかりもののお姉ちゃんがいてくれて良かったわ。
それにしても、フィレンでの婚礼のとき以上の人出かもしれない。これがお仕着せの皇帝夫妻と、民族が自主的に選んだ国王夫妻の違いなのだろうか。
パレードがビュラ宮殿へ帰り着くまでには、予定より時間がかかった。
群衆が道をふさいだわけではなく、大通りまで出てこられなかった人々のために、回り道をしていただけまいか、というアングレアム伯の提案に、エルディナントさまがうなずいたからで、ダヌール河にかかる橋を渡って、一度対岸のフェステ市のほうまで行ったのだ。
万歳を叫ぶ民衆たちへ振りつづけた腕が、さすがにしびれてきたところで、ようやくビュラ宮に到着。
戴冠祝賀パーティにあたって、わたしは地元アジュールの伝統衣装を注文しておいた。
着つけをしてくれる侍女のみんな(わたしの自習サロンに出入りしているアジュール名士たちの、奥方やお嬢さんがただ)が嬉しそうで、こっちまで、フィレンでは義務的に突っ立っている苦痛な時間だったのが信じられないほど心が晴れやかになってくる。
花の刺繍が美しい、どこか素朴な懐かしさを感じるが、野暮ったさはない、充分に洗練されたドレスだ。
ゾラとテレーゼもおそろいのコーデで、お気に召したようでふたりともご機嫌だった。
……宮廷儀式が準備から楽しいって思えるの、はじめてだなあ。
ヨーゼフはおねむのようなので、パーティはお休み。レヒトハイネン男爵夫人たちに任せて、娘ふたりを連れ控え室を出る。
エルディナントさまはオストリヒテ大元帥服だった。太后さまゆずりのダークブロンドに青い眼と洒脱なおヒゲに、その白基調の軍服はたしかに似合いますが……女性モノとはまた違う刺繍を施された白のシャツと金糸の縁取りがシックな黒のチョッキに、青い肩布を渡す、アジュール貴族装束もカッコよく決まると思いますよ?
「三人とも、よく似合ってる」
「パパかっこいい」
「ありがとうゾラ。さあ、行こうか、セシィ」
「はい」
……そうか、フィレンの皇宮では、儀式のさいに、家族どうしであってもこんな気軽に話すことはできない。それが息苦しく感じられるのだ。
アジュールの王とその妃として、アドラスブルクの、オストリヒテの皇帝と帝妃であるぶんに加えて義務と重荷が増えるのだとわかってはいるが、わたしの心の半分は、確実にビュラの気取らない空気を楽しんでいた。
大広間での晩餐会の段になった。
アジュール宮内卿として乾杯の音頭を取るのは、マイラー伯爵だ。
「われらが国王陛下と、王妃陛下に!」
『国王陛下と、王妃陛下に!!』
満場のアジュール名士たちが、唱和とともに杯を掲げる。
アドラスブルク帝国へではなく、アジュール王国の臣民として新たな忠節を表する人々へ、エルディナントさまとわたしも、杯を掲げて応じた。
……血のように赤いアジュールワインが、わたしの心を現実に引き戻す。
アドラスブルク皇帝のもとでの諸民族の平等、その建前は維持されるが、チェルキ人や、ロダリア人、セラデア人、ポリニカ人といった少数派は、今後オストリヒテ人(実質デウチェ民族)とアジュール人よりも、事実上一段下のあつかいとなる。
彼らはいずれ、エトヴィラ人のあとを追い、独立運動へ向かうだろう。あるいは、アジュール同様に、アドラスブルクの支配権は、都度自分たちの承認を必要とするものである、と制度をあらためさせようとするか。
しかしそんなことがつづけば、いままで暗黙の一位であったのにアジュール人と肩を並べられた、オストリヒテ人が黙っていない。これ以上の帝国内での相対的地位低下を、彼らは甘受しないだろう。
これは毒杯だ。じわじわと、帝国を死へといたらしめる。
かまわない、飲み下してみせる。
エルのためなら。
ここまでで第一部了となります。おつき合いいただきありがとうございました。
第二部「二重帝国の片翼として」は近日連載開始です。




