邂逅 或いは革命
入学式の翌日。
実質的には初めての授業を受けるその日、大体の講義はガイダンスで占められていた。
授業内容、一年の予定、テストの実施方法。
そんな、半年もすれば当たり前になるのであろう様々な物事を、つらつらと受け入れる時間。
まだまだ顔見知りが殆どいない教室で、それらを真剣に聞いていると、少しだけ変わった授業にも遭遇する
それが、現国のガイダンスの一環────図書室の使い方、だった。
学校側としても、若者の読書離れだとか、図書室の利用率の低下だとかに危機感を覚えているのだろう。
最初の五分、図書室の使い方を説明され、その後五十五分間は図書室で好きに本を読みなさい、という自由時間と変わらないような授業があったのだ。
──高校生になってまでやることかって気もするが……。
そんなことも考えたが、この授業は楽しかった。
前述したが、俺は元々結構本を読む方である。
ただただ本を読んでいればいい、という時間は極楽と言ってもいい。
図書室を回り、興味を引いた本──何の因果か推理小説だった──を手にした俺は、嬉々としてそれを読んでいた。
変化が起こったのは、その授業の終わり際である。
司書の女性教師が、本を借りたい人は先ほど説明した手順で本を借りて行ってください、と言った時のことだ。
まだ読み終えていなかったその本を、俺が司書に差し出した瞬間、流れるようにバーコードを読み取っていた彼女の動きが少し止まり、あら、と言う声を漏らした。
さらに、少し考えこむようにその本を見つめる。
「どうしたんですか?」
それまで次々と本を貸し出していっている姿を見ていたため、俺は気になって声をかけた。
しかし、返ってきたのは疑問だった。
「ごめん、この本、どこから持ってきたの?」
「どこって、そこの棚からですけど……」
図書室の本を借りようとしているのに、どこから持ってきたの、というのもなかなかに奇怪な質問だ。
返答した瞬間、彼女の顔がああ、という納得の表情に染まり、さらにそう言えば一時的に借りていたわ、などとぶつぶつ小声で呟いた。
「ごめんなさい、この本を借りるのは、ちょっと待って」
「……何でですか?」
「えーとね、この本、実は図書室の蔵書じゃないの」
「蔵書じゃ、ない……?」
図書室に置いてあるのに、図書室の本ではない、というのも変な話である。
しかし、彼女の方はそれを説明する時間が無かったのだろう。後ろが詰まっている。
「まあ、時間があればちょっと放課後に来て……あ、次の人―」
そう言って、彼女は俺が渡した本をいったん下げ、次の本の貸し出しに移った。
これを前にして、俺はただ首をかしげるしかできなかった。
まさか、あの霧生光とか言う生徒の挨拶から数えて、三つ目の「日常の謎」到来か────。
少しだけそんなことも思ったのだが、幸い、放課後に図書室に行ってみたところ、あっさりと説明は行われた。
「いやーごめんね。あの本、実は学校に寄贈された本でね」
「寄贈?」
二十代と思われる司書は、いかにも申し訳なさそうな顔を浮かべ、そんなことを説明した。
「うん。昔、この学校の卒業生に小鳥遊吾郎という人がいてね。有名大学の教授にまでなった偉い先生なんだけど、その人が寄贈した本なの」
「だから、貸せないんですか?」
「そう。小鳥遊文庫、という名前で図書室の中でも特別扱いになっているから、貸出禁止になってます。図書室内で読むことは大丈夫なんだけど、生徒の家にまでは持ち帰ることが出来ない。あ、けど……」
そう言うと、司書は再び俯いて、ブツブツと何かを呟いた。
大丈夫かもしれない、いや、でも、などと言った言葉が聞こえる。
やがて、彼女は顔を上げて、あることを提案した。
「ただ、もしどうしても借りたいのなら、彼女に頼んだら良いかもしれない」
「彼女?」
「そう、とりあえず、この図書室の隣にある部屋に行ってみて。そこにきっといると思う」
そこから、司書はこんな説明をした。
曰く、今隣の部屋には、小鳥遊吾郎の親戚にあたる生徒がいる。
その生徒は親戚であるために、小鳥遊文庫を持ち帰ることが可能である。
故に、彼女に頼めば、この推理小説を借りることも可能かもしれない。
そんなことを言って、司書の教師は隣の教室の方向を指さした。
第二図書室、と小さく書かれた教室を。
正直なところ、俺はその部屋に行くことには乗り気ではなかった。
推理小説一冊のために、何やら話が大事になってきたな、というのが本心である。
件の推理小説は、途中まで読んだ感想としてはかなり面白かったので、続きが気になることも確かだったが、そこまで拘る話でも無い。
別の、普通に借りることが出来る本を選びなおせばいいだけの話なのだから。
それでも俺が第二図書室に向かったのは、ただの惰性だろう。
わざわざ案内までされたので、断りにくかった、ということもある。
何にせよ、俺は流されるままにその扉を叩いた。
一応、コン、と一つノックをする。
中にその親戚とやらがいるのは確からしく、扉の端からは光が漏れていた。
「失礼しまーす。一年六組の相川葉ですが……」
そう言いながら、司書から返された本を片手に中に入る。
瞬間、俺は息を呑んだ。
「……ん?」
中にいた人物が、顔を上げる。
大量の本棚が雑多に並んだ第二図書室の中で、彼女の声だけが響いていた。
この部屋の主────霧生光だけが。
主観としては、俺と彼女が会うのは、殆ど一日振りだった。
勿論、同じクラスなのだから、実際には数分振りである。
しかし、彼女は休み時間は常に教室を離れており、特に会話することも無かった。
だから、このように直に顔を見るのは、俺の感覚としては入学式の新入生挨拶以来だ。
勿論、入学式のあれは俺の方が一方的に見ていただけだったため、向こうからすれば完全な初対面だ。
実際、彼女は俺の顔を見た瞬間、少し不思議そうな顔をした。
恐らく、知り合いかどうか記憶を振り返り、そして初対面のようだ、と結論づけたのだろう。
「あー、この本、借りたいんだけど……図書室の先生が、この部屋に行けって」
彼女がいるとは思っていなかったため、俺は思わず変な話し方をしてしまう。
一瞬、敬語を使うかどうか迷ったのだ。
しかし、霧生はさすがにそんな話し方はしなかった。
「小鳥遊文庫かい?僕の許可を取りに来たのかな?」
霧生は、女子生徒にしては珍しく、一人称が「僕」だった。
口調も相まって、中性的な雰囲気が強くなる。
起伏に乏しい体格も相まって、性別を勘違いしてしまいそうだった。
そんな彼女が、座っていた席から立ち上がり、こちらに寄ってくる。
見れば、この第二図書室の中央に一つだけ机があり、そこには本とお茶のペットボトルが置かれていた。
どうやら、霧生は放課後をこの部屋で読書に費やしていたようだ。
こういった推測をしながら、俺は遅れて返答をした。
「ああ、面白かったから……」
「あ、その本か!文章がいいよね」
薄く笑って、霧生は俺から本を受け取り、懐かしそうな顔で表紙を見つめる。
一度読んだことのある本だったのだろうか。
しかし、すぐに彼女は表情を曇らせた。
背表紙に貼られてあるシールを見たのだ。
「あー、ごめん。……この本は、貸し出せない方の本だ」
「貸し出せない方?」
「小鳥遊文庫の中でも、僕が持って帰ることが出来る本と、それが出来ない本があるんだ。こっちはそれが出来ない本だよ。図書室から動かしてはいけないことになっている」
ほら、と言って彼女は本の背表紙を俺に見せてきた。
よく見れば、確かに蔵書ナンバーを示す小さいシールの横に、赤いシールが貼ってある。
恐らく、これが貸し出し不可を示すマークなのだろう。
「だから、えーと、相川君、だっけ?君がこの本の続きを読みたいなら、図書室内で読み切ってもらうしかないね……」
そう言ってから、彼女はごめんね、と頭を下げた。
謝られる筋合いのことでもないので、慌てて俺は手をぶんぶんと振る。
寧ろ迷惑をかけているのはこちらの方だ。
「えーと、霧生、さん。じゃあ、俺は図書室に戻ってこれの続きを読めばいい、のか?」
「まあ、そうなるね。けど、わざわざ向こうの図書室にまで戻らなくても……」
そう言いながら、霧生は先ほどまで自分が座っていた席の向かいの椅子を引いた。
座れ、ということだろうか。
「あれ、その……良いのか?関係ない人が使って……」
司書の教師からは、彼女が寄贈主の親戚だから、この部屋の本を持ち出せる、と言っていた。
その分だと、この小鳥遊文庫を置いてある部屋自体が、彼女しか使えないような印象があったのだ。
だが、彼女は再び薄く笑ってそれを否定した。
「確かに鍵を持っているのは僕だけど、生徒ならだれでも使える部屋だよ。一応教室なんだから」
言われてみれば尤もな理屈で、彼女は椅子を勧める。
そこまでされれば、断るのも妙な話だった。
「ああ、じゃあ、その、お邪魔します……」
必要以上に頭を下げて、俺はその席に座る。
学年代表、という肩書に過剰に反応してしまっているのは分かっていたが、向こうが自然体で話している──恐らくこの少年の様な話し方は、彼女の素なのだろう──こともあって、逆に距離感が掴みにくかった。
だが、それも本を開くまでのこと。
もう一度本を開いた時には、俺は再び推理小説の世界に没頭していた。
「ふうー……」
約二時間後。
後三十分も経てば下校時間、というところで、俺はその本を読み終わった。
あまり分厚い本でなくて助かった。
もしもっと長い本であれば、何度もこの部屋に通わなくてはならなかっただろう。
「面白かった?」
読み終わったことが分かったのか、霧生が突然口を開いた。
それが意外で、思わず俺は肩を跳ねさせる。
もしかすると失礼な話かもしれないが、この本を読んでいる間は、彼女のことは忘れていた。
「ああ、ごめん。夢中になっているみたいだったから……」
驚かせたことを謝るように、霧生は手をひらひらとさせる。
慌てて、俺の方も返事をした。
「いや、すごく面白かったから、気が抜けていた」
「良い本を読むと、そうなるよね」
分かるよ、と言って彼女は一つ頷く。
それから、少し世間話でもしたくなったのか、ふと思いついたように彼女は俺の顔を見た。
「推理小説、好きなのかい?相川君」
「ああ、まあ……」
かなり前から、よく読むジャンルの一つだった。
犯罪が暴かれる、犯人が明らかになる、など分かりやすい決着がつく作品が多かったため、昔から読みやすかったのだ。
「霧生も、よく読むのか?」
多少口調に迷ってから、結局タメ口で行くことにする。
向こうも自然体で話しているのだし、そもそも同学年なのだから、これで良いだろう。
「そうだね、僕も子どものころからよく読んでいたな……」
何かを思い出すように、霧生は視線を上に向けた。
「フェアな作品であれば、証拠が全て読者に提示されるからね。作中の探偵よりも早く自分が謎を解けるかどうか、いつも競っていたなあ」
「へえ……」
……一瞬、彼女も推理小説を楽しむ同士かと思ったのだが、俺とは格が違ったようだ。
俺は、そこまで賢くないので、大体探偵が推理を明かすシーンを読むまで、謎の答えは分からないことが多い。
そこの文章を読んで初めて、「へー、そうだったのか」というタイプだ。
得意の勘で犯人を当てたことは何度かあるが、それは推理とは言えないだろう。
──頭が良い人は、楽しみ方一つとっても違うんだな……。
そんな感想が俺の中に浮かんできたことも、無理があるまい。
そして、そこで唐突に────俺の脳裏に、思い浮かぶことがあった。
つい昨日起こった、あの早見唯にまつわる出来事である。
一応不思議に思い、考えはしたが、結局は理由が分からなかった、あの一連の出来事。
──彼女が、そんなに賢いというのであれば……。
ふと、頭の中で何かが閃く。
かなり非常識で、だけど面白そうなことを。
その思いつきというのは、具体的には、こうだ。
彼女が、推理小説を読みながら、作中の探偵と競い合うくらい賢いというのなら。
昨日経験した、この「日常の謎」とも呼べないようなささやかなことに関しても、何か推理してくれるのではないか?
くだらない、一瞬の思い付き。
普通に考えて、殆ど初対面と言ってもいい相手に振る話題ではない。
というか、これでは昨日の早見唯のことを奇妙とは言えなくなってしまう。
だが、この時の俺は、あのことを言ってみたら、どうなるだろう、という思いに取りつかれた。
それは、多少はこの少女と仲良くなっておきたい、などという打算だったのか。
或いは、彼女の賢さを試してみたい、などという意地の悪い考えだったのか。
何にせよ────俺がその思い付きを実行したのは事実だ。
「なあ、霧生」
「ん?」
上に向いていた視線を俺に戻し、霧生が不思議そうな顔を浮かべた。
「推理小説が好きなら……こんな話は、どうだ?」
それから、俺は昨日起きたことを詳細に語った。
勿論、同じクラスであるため、入学式以降のスケジュールはほぼ同じだったが、何が手掛かりになるのかもわからないため、全てを語るしかなかった、という事情もある。
俺は、自分が廊下で美少女を盗み見していた、という少々変態的な話から、自分の勘の良さまで、あらゆることを語った。
そして、それを聞かされた霧生は────。
意外にも、ふんふんと頷きながら話を聞いてくれた。
もし、「それがどうしたんだ」とか、「僕に何の関係があるんだ」とか言われたら、さすがに話を止めようと思ったのだが、そんな様子は素振りも見せなかった。
加えて、彼女には無理して話を合わせているような気配もない。
本当に、興味深そうに。
彼女は、ただただ話を聞いてくれた。
「……まあ、そんなわけで、俺はコンビニを出て家に帰ったんだ。ただ、なぜ彼女がわざわざ話しかけてきたのかは、分からなかった」
やがて、俺の話も終わった。
第二図書室に、しばしの沈黙が舞い降りる。
霧生は、その沈黙の中で、腕を組んで何かを考えているようだった。
その様子はかなり真剣に見えて、語っていた俺の方が驚くほどである。
「あー、その、自分から言って置いて何だけど、別にこれのせいで困っているわけじゃないから、そこまで真剣に考えなくてもいいぞ?ただ、理由が分からないから、少しだけ気持ち悪いってだけなんだから……」
思いのほか真剣に受け止められていることの驚き、俺はそんな予防線を張る。
だが、霧生は少し真面目な声でそれを遮った。
「いや、これは真剣に考えて良い話だと思うよ、相川君。……うん、君の勘通り、多分これは筋の通った理屈で説明できることだ」
「え、本当に?」
あっさりと断言され、俺の方が言葉に詰まる。
不思議だね、と言った感想が出る気はしていても、まさかこうも断言されるとは思っていなかったため、驚きの方が強かった。
一方俺は、眼前で霧生が少しだけ楽しそうに、口角を上げたことも認識する。
本当に、ゲームを前にした子どものように。
霧生は笑った。
「その小さな事件、勝手だけど、僕から説明していいかい?所詮はこじつけと妄想の産物だけど、それなりに説明できると思う」
いつしか、霧生の雰囲気は変わっていた。
ただの学生のそれではない。
ただの読書家のそれではない。
もっと大きな、悠然とした空気が彼女の周りを包んでいた。
一瞬、俺は事件解決前に関係者一同を集めた時の、探偵の姿を幻視する。
それこそ、今読んだ推理小説にも出てきたシーン。
関係者と言っても、俺と霧生しかいないが、確かにここが舞台のように感じ取れたのだ。
だから────俺は、魅入られるようにして頷いた。
それに応じて、彼女は最初の一言を発する。
古今東西、様々な名探偵たちが発してきた、前置きの言葉を。
「さて────」




